書く者と名乗るのは

智原 夏

知らない噂

 横断歩道で私は友達の佐鳥雫さとりしずくと並んで、信号が青になるのを待っていた。

 雫は長い髪を後ろで束ねて、ワンピースにパンツを合わせていた。

 左の口元に少し大きいほくろがあるのが特徴的で、美人だがどこかおっちょこちょいな所がある。

 汗ばむような温かい日差しの中で、散ってしまった桜の花びらが風に巻き上げられ、私にまとわりついてきた。

 雫が何か言ったようだが風の音にかき消され、聞こえなかった。

「え? 何?」

竹村啓里たけむらけいりって知ってる?」

 私は耳を疑った。何で、雫が竹村啓里を知っているのだろう?

 竹村啓里というのは昔、携帯小説を書いていた時に使っていた名前だ。

 私は何でという言葉を飲み込んで、知らないふりをした。

「知らないけど」

「失踪してた携帯小説家らしくて、最近また過去の作品が携帯小説サイトに載ってて、話題になってるんだ」

「へー、どこのサイト? 後で見てみる」

 平静を装えているか不安になるほど、私の心は動揺していた。

「カクモノってサイトだよ」

 カクモノといえば、有名なウェブ小説投稿サイトである。

 そんな所に投稿した覚えはないし、アカウントすら、作っていない。一体どういうことだろう。私を語って書いているのか?


 携帯小説サイトに書いていたのは、まだ高校生の時だった。

 恋愛物を書いていたのがウケて、熱心な読者もいるほど、自分で言うのも何だが人気があった。

 ところが、設定をいじっている時に、誤って退会ボタンを押してしまい、今まで書いていた小説が全部消えた。

 テキストエディタなどにバックアップしていなかったために、再現出来なかったので、またやろうという気になれず、それきり、そのサイトには行っていなかった。

 二十歳になった今は、ほそぼそと、ウェブ小説投稿サイトに別の名前で書いていたが、ランキングに載ることもなく、あの頃のような人気とは無縁だった。


 横断歩道の信号が青になり、私達は渡り始めた。

「でも、意外だったな。水希みずき、文芸サークルに入っているから、絶対知ってると思ってたけど」

 私は大学の文芸サークルに入っているが、ほとんど活動はしていない。

「私、幽霊部員だからね」

「ああ、確か、秋月あきづき君と反りが合わないんだっけ?」

 秋月由あきづきゆうは、同じ文芸サークルの部員で、新入部員歓迎会で会って、彼が作家であると知らなかった私は、失礼なことを言ってしまい、それ以来、文芸サークルに近づけなくなった。

「反りが合わないっていうか、こっちが問題があったんだけどね」

 分かれ道に差しかかかった。

「水希、私はこっちだから」

 と雫は手を振る。手を振り返すと、雫は後ろ姿を見せながら、坂道を下っていった。

 秋月先生に言った言葉は正確には覚えていない。

 確か、先生の書いた小説を批判したのだと思う。

 もうあの時の私は発言した後、周りから本人であると指摘され、恥ずかしいやら、自己嫌悪やらで、ひたすらペコペコ謝って、部室を飛び出して、知らない道を歩いて、気持ちをごまかした。

 あれ以来、何度か先生に会うことがあったが、私はその度に頭をぺこりと下げて、走り去ることを繰り返していた――。

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