【ハル】第20話 生きることの反対

 脚を思いっきり地面に叩きつけながら、その反動で膝を出来るだけ高く上げる。少しでも、あたしの一歩を大きくするために。この体は、生きている――人とか生物は通り抜けれるけど、生きていない――地面とかビルは通り抜けられない。でも通り抜けられないだけで、触れても何も反応しない――壊れたスマホの液晶に囲まれたような世界にいる、幽霊になってからそう感じる。空でも飛べたら楽だったのに。


 でも体力は無限なので、途方に暮れそうな階段も全力で駆け上がっていける。あたしが幽霊になってからどれくらい経ったら分からないけど、この廃ビルで自殺しようとする人は定期的にいた。ほとんど、と言うかヨウ君以外は、ビルと空中の境界線に立った段階で絶望して帰っていった。死ぬことが、生きることよりも怖いと思ったんだろう。実際、幽霊になってもヨウ君と知り合ってから楽しくなったくらいだし。女湯なんか三日で飽きる。


「生きることの反対は死ぬことじゃない、生きないことだよ。今生きてる場所を変えてみよう。家庭でも、学校でも、職場でも。人間はどこでも生きれるよ、死ぬのは勿体ない」


 誰かも分からない人の決心がまだついていなかったら、そう声をかけよう。届くか分からないけど、浮世を生きる人へ全力で伝えよう。もう死んでる当事者からの貴重な体験談だ、少しくらいは耳を傾けてくれるだろう。


 屋上までたどり着いた。体は何も感じていないのに、少し疲労感がある。『走った』っていう実感のせいで、心が少し疲れてしまったんだろう。目の前には女の人。綺麗に整えられた髪が映える、後ろ姿だ。今からデートにでも向かうような、そんな雰囲気だった。だったらあまりにも方向音痴が過ぎる。その先へ足を運んでも、楽しいことなんかない。


「お姉さん! ちょっと待とうよー!」


 ――反応なし。無視されてるんじゃなくて、本当に聞こえてないんだ。でも、こんなの慣れっこだ。こっちは誰に声をかけてもずーっと返事が返ってこなかった――無視のプロだぞ? 今更、一回無視されても正直どうとも思わない。


「何か嫌なことでもあったのー? あたしで良かったら愚痴くらい聞くよー!」


 ――反応なし。前から思ってたけど、この人とヨウ君との違いはなんだ? あたしの声が聞こえない人と、聞こえた人の違いはなんだ? ヨウ君に何を言ったっけ……あ、思い出した。物は試しだ。一回だけ言ってみよ。


「おい処女! 経験もしないまま死ぬのかよ!」

「えっ……!?」


 ふわりと彼女の髪が舞い上がる。ウェディングドレスのスカートのように、華やかに、艶やかに。やった! 声が届いた! 処女のお姉さんに声が届い……え、この人……


 潤んだ瞳で地上を見つめ、自殺を図っていたのは紛れもない、モネちゃんだった。あたしの三か月の物語のメインヒロインだ、見間違うはずがない。


「い、一体なんで――」

「ハル? ハルだよね……? は、ハル……」


 モネちゃんがあたしの名前をぼやきながら、こっちへ向かってくる。神話で例えるなら、神の啓示を受けた預言者みたいな歩き方だ。信じられない……でも、そこにいる。そんな表情だ……てか、なんでモネちゃんがあたしの名前を……? 話したことなんか一度もないのに――


「ハル……そこにいたんだ……さぁ、一緒に帰ろ……? 家でお母さんたちも待ってるよ……」


 モネちゃんは腕を広げて、あたしを力強く抱きしめようとする。でも、それは出来ない。彼女の力一杯の抱擁は、彼女自身へ返っていく。メンタルケアの本で読んだ、セルフハグに似ているポーズだ。あたしを大きく張った瞳で見つめながら、彼女を彼女を抱いていた。


「なんで……どうなってるの!? ねぇ!! あなたはハルなんでしょ!? なんで触れないの!!」

「お、落ち着いて……。そもそもなんでモネち……あなたはあたしの名前を知ってるの?」

「あ、あなたはハルじゃないの……? じゃあ誰なの……?」

「いやハルだけど……あたしたち話したことないじゃん? だからなんで名前を知ってるのかなーって……」

「話したこと? あるよ、たくさんあるよ」

「え?」

「色んなことを話したよ。大きなセミを捕まえたこと。テストで満点を取ったこと。近所のガキ大将を倒したこと。……好きな人のこと。色々話したよ。私たちはずっと一緒だったじゃない」

「そ、そんなのまるでお姉ちゃんじゃ……」

「私は式野モネ。あなたは誰……? 式野ハルじゃないの?」


 式野ハル。あたしの本名。ヨウ君にすら言ったことのない名だ。


 そして、式野モネ。あたしの……お姉ちゃんの名前だ。


 たしかに名前は同じだけど、見た目が全然違う……。お姉ちゃんの髪はストレートロングの、山から流れる綺麗な小川みたいな……そうだ。始めて先生と、モネちゃんとデートした後だ。


「どうしようハルちゃん……デート中に先生が急に帰っちゃったよ!」

「お、落ち着くんだ、ヨウ君……ここは冷静になろう……」

「う、うん……」

「――こういう時に何かメールを送らないと、本当に関係が途切れる可能性がある」

「え!? やっばいじゃん!! 落ち着いていられないよ――」

「落ち着け! 冷静に今日を振り返れ……何か、何か普段と違うところはなかった?」

「え? 普段と違うところ……髪かな。すごく短くなってた」

「最高じゃん。それだよ、それを必ず褒めよう! 女は子宮を出た段階で、みんな『些細な変化に気づいて、褒めて欲しい症候群』に感染してるんだよ。だから、ネイルも良さが分からなくても、とりあえず可愛いとか、色味が素敵って言わなきゃいけないの! 髪はその最たる例なの!」

「な、なるほど……」


 こんな会話をしてた。そっか……髪が短くなってたから全然分からなかった。それに、ヨウ君には見せた子供っぽいところなんて、あたしには見してくれなかった。勝手なイメージが先行して、まず最初に思案すべきところを飛ばしていた。


 モネちゃんは、あたしの姉……お姉ちゃんだ。


「お、お姉ちゃん……?」

「そうだよ。お姉ちゃんだよ、ハル」

「ご、ごめん……ごめんね……」

「いや、私が悪いんだよ……あんなこと言っちゃって……。それに今度は死のうとしてたのも止めてもらって……」


 泣けない。泣きたい訳じゃないけど、泣けない。この胸に溜まった色んな感情を、本当は吐き出したい。文字通り、水に流したい。でも、触れてもらえない。抱きしめてもらえない。ただ茫然と、泣きじゃくってるお姉ちゃんを見ながら、立ち尽くすことしか出来なかった。


「ハルちゃん! 飛び降りをしようとしてた人は……え? モネさん……!?」

「よ、よおくぅん……」

「ヨウ君、これには複雑な訳があってですね……とりあえず家に行こ? 詳しい話は家で話すからさ」

「わ、分かった……色々すごく気になるし……」


 あたしたちは廃ビルを出て、大通りをとぼとぼと歩いて行く。先ほどのまでの人の群れは、獲物を見失ったようにもう消えていた。新しい弱小動物でも探しに行ったのかな。


 ――き、気まずい。親を呼び出されて説教くらった後の、気まずい帰り道そのものだ。今回はどっちかと言うと、あたしは親側かな? お姉ちゃんが叱られた生徒で、ヨウ君がたぶん後で先生になる……あれ? これでお姉ちゃんは本当に先生になれるのかな……てか、あたしには先生になりたいって話、してくれなかったよなぁ。


「で、モネさん。なんで飛び降りなんてしようとしたの? 普通に考えたらダメって分かるでしょ」


 最初に沈黙を破ったのはヨウ君だった。一番気になるところではある。てかこいつ、さりげなく自分のこと棚に上げてね? めちゃくちゃ上げてね? 棚どころか廃ビルに上げて、そのまま解体でもする勢いじゃん。家に帰ったら、お姉ちゃんにヨウ君のこと言ってやろ。


「ごめんね……ごめんね、二人とも……」

「謝って欲しいんじゃなくて、理由を聞いてるの。何か悩みとかあるの? まずは僕らに相談してよ」

「うん……あのね、実は落ちちゃって……」

「何に?」

「教採……教員採用試験、落ちちゃった……」

「え……?」

「えー!? やばいじゃん! これじゃあヨウ君が告白する流れが――」

「やだよ……」

「ど、どうしたのモネさん? 急に立ち止まって――」

「やだあああぁぁああ!! 付き合いたいよおおぉおおぉ!! 私のこと捨てないでよおぉおおぉお!!」

「ちょっと……モネさん落ち着いて……」


 女の涙は、現代社会において戦術核にも勝る兵器だ。言葉を発さずとも、いかにも非難轟々という周囲の感情の吐露した部分がヨウ君に降りかかる。他の人から見たら、シンプルに女を捨てようとしてる男だもんな。ダメだ、めっちゃ面白い。このままずっと放置したろ。


 どうせ根掘り葉掘りあたしたちのことを聞かれると思う。嫌なことも。だから、今くらい楽しんでもいいよね。















 





 

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