アネモネ先生とラブコメオタク幽霊!

相麻颯真

第一章 そぼ降る雨

【ヨウ】第1話 恋愛マイスター

 小学校の学芸会で舞台に上がり、保護者や先生たちの前でセリフを言う――あの時の感覚と似ている。今僕は廃ビルの頂上に立っている。だが、言いたいセリフなんか、もうない。


 ――屋上の淵に足をそろえる。見下ろしてみる。怖い。今から僕はこの色せた灰色の世界に飛び込むのだ。脚に感情が溢れ出して、生まれたての小鹿のようになっている。体を前に出し、手で軽く太ももを掴む。このまま倒れるように落ちればいけるかな……


「おい童貞! 経験もしないまま死ぬのかよ!」


 咄嗟に淵から後退し、声の主の元へ振り向く。可憐で、それでいて力強い声の。


「――あなたは誰なんですか……?」


 白黒写真の中に咲く、鮮やかな一輪の花のようだった。この色褪せた僕の世界の中に現れた久々の色。さらさらロングにキリっとした顔立ち。そしてTシャツに輪郭がぼんやりと浮かぶ巨乳……あ、ダメだ。普通にタイプだ。


「あたし!? あたしは幽霊!! とにかく死ぬのはやめた方がいいよー!!」


 え? 何? 幽霊……!? 流石に悪い冗談だろ……。いくら自殺しようとしてる奴が目の前にいるからって…


「ゆ、幽霊ってことは触ったり出来ないんですよね? 一回触ってみていいですか?」

「いいけど、触れないからあんまりビックリしないでね?」


 せっかくの機会だ。現世での唯一の未練がある。おっぱい触ってみよ。どうせ死ぬんだし、これくらい神様も許してくれるよね! アーメン! 南無南無!


「えい」

「おっぱいに手を伸ばすなんて、思春期だねー! それくらいの元気があるなら自殺なんて――」

「はあああああああああ!?!?」


 煙を触っているようだった。いくら手でかき混ぜても動かない煙。こねくり回してもこねくり回しても、彼女の像はブレない。彼女が僕の全てを拒絶しているみたいに。


「だからビックリしないでねって言ったじゃん! ちゃんと人の話聞いてた?」

「聞いてましたけど、まさか本当だなんて……」

「とりあえず、おっぱいも触ったんだから悩みでも話しなさい! お姉さんが相談に乗ってあげようじゃないの!」

「はい……」


 渋々お姉さん幽霊に、ここに至るまでの経緯を話した。


 僕は浪人生だった。浪人と言っても、三日前に第一志望の大学に合格したので、僕に春が来ればめでたく大学生である。でも、合格できたのは間違いなく先生のおかげだ。


 先生は今から一年ほど前に知り合った。劇的な出会いをしたわけじゃない。単純に僕の成績を心配した両親が、家庭教師を雇ってくれたのだ。それが、先生だった。


 一目見た瞬間に本当に綺麗な人だと思った。玄関に風が吹き荒れる中、花びらと共に満開の桜が家にやって来たような衝撃だった。


 そこから僕が先生のことを好きになるのに、時間はそうかからなかった。


 勉強中のちょっとした休憩時間に、色んなことを話した。好きな本も、好きなテレビ番組も、好きなお菓子も全部知っている。勉強は出来るし真面目だけど、本当は少し天然なところがあるとか、いつかは小学校の先生になりたいこととか、過去の恋愛で少しトラウマを抱えていることとか、全部知っている。先生との思い出が走馬灯のように、僕の瞳に映っては、消える。


 大学に合格したら、先生に告白しよう。


 そう決心した。決意が鈍らない内にたくさん勉強した。先生が来る前も、先生が帰った後も。そして二日前、玉砕した。


「ごめん、青井君のことは人間としては好きだけど、生徒と先生だからね……。合格おめでとう。私なんかより良い子を大学で見つけてね! 青井君、意外と良い男だから!」


 見つけられる訳ない……見つけられたとして、先生を忘れるなんて出来ない……


 あの時に僕はこの言葉を言えなかった。ただ口を閉じていた。唇がどうしても離れてくれなかった。先生のいない将来を受け入れようとしている時に、話せるほど僕は器用ではなかった。


「――と、いうのが事の経緯になります……」


 お姉さん幽霊は、僕の話をずっと黙っていた。そして、同時に途中からずっと震えていた。もしかして、僕のために泣いてくれてる……!? もしかして、僕の気持ちが共感の嵐過ぎて泣いている!? もしかして、嵐を超えて竜巻になっている!? さっき童貞とか色々言われたけど、もしかしてこのお姉さん良い人なんじゃ――


「ばああぁかやろおおおお!!!!」


 お姉さん渾身の右ストレートは僕の顔面に直撃し、空ぶった。


「な、何するんですか!? 幽霊だから当たらないからとはいえ――」

「黙れ! この童貞!」

「あー! また言った! 反論はしないけど、もっと純粋無垢な男の子の気持ちも考えて下さいよ!」

「お前は女心が分かってない! 先生は確実にお前に惚れている!」


 え……? どういうことだ……? だってあの時たしかに僕はフラれたのに…


「そんなはずないって顔をしてるな。よし、説明してやろう。お前がフラれたのは、生徒と先生という関係だったからだ。聞いてる感じ真面目な人らしいからなぁ、そういうとこもちゃんとしてるんだろう……だが!! そもそも女は軽く『良い男』なんて言わない! 男の子ではなく、お前のことを男として見ている証拠だ!」


 妙に説明慣れした口調で話す。僕に一筋の希望が見える。地獄の蜘蛛の糸とはまさにこのことだろう。


「ほ、本当に先生は僕に惚れているんですか……?」

「あぁ、おそらく間違いないだろうな……。数多のラブコメマンガを見てきた、この恋愛マイスターの目に狂いはない」


 え……ラブコメ……? ラブコメぇ……マンガぁ……?


「あの、マイスター? ご自身の恋愛経験は?」

「ほぼない」

「はあああああ!? それで恋愛マイスターっておかしいでしょ!?」

「ふっ、君は何も分かっていないね。指導者の素質は、現役時代に決まるのではない。スポーツでも現役時代は大して活躍できなかったが、監督となって名将と呼ばれるほどチームをけん引した人だっている。それに、現役時代すごい活躍していたが、監督やコーチなど指導する役割は向かなかった人だっている。」


 やばい、やばい。論破の気配を感じる。恋愛マイスター(笑)とか言ってバカにしようと思ってたのに、すごい論破されそう。


「つまり! 指導者に必要な素質とは自身の経験よりも、個人個人に合わせた的確なアドバイスが出来る知識を持っていることなのだ!」

「おっしゃる通りです……。マイスター……」

「うむ、分かればよろしい」


 この際恋愛マイスターでも、ラブコメオタクでも関係ない。僕は先生と付き合いたい! デートとかして遊びたい! 下の名前で呼び合いたい! 出来ればちゅーとかもしてみたい!


「マイスター! 僕、先生と付き合いたいです! 力を貸してくれませんか!?」

「よく言った少年! 君の愛は本物だ! 一緒に先生を落とそう!」


 こうしてお姉さん幽霊と僕の、先生を落とすための物語が始まった。




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