第二部『 変・貌』

第二部『変・貌』前編

 「登れ!犬飼耕助、登れぇぇーーーー」

 ーー登り切ったぁぁぁぁぁ…

 ーーぁぁぁぁ…

 ――ぁぁ…


 みーんみんみんみん。

 ミンミンゼミの号哭がけたたましく鳴り響く朝、耕助は自室のベッドの上で目を覚ます。そして寝ぼけ眼で周囲を見回しーー夢か、と真空ジェシカの如く落胆した。


 目をこすりながらデジタル時計を見ると、日付は8月3日ーー夏祭りの翌日。耕助はおもむろに昨日の記憶を辿る。しかしどういう訳か、花火を見た後の記憶だけがぽっかりと抜け落ちていた。どうやって家に帰って来たのかも分からないーー耕助は腑に落ちぬまま、ベッドを出て一歩、二歩と歩き出す。するとその瞬間ーー


 「わ、わ」

 その踏み出した足の回転がどんどん加速して止まらず、耕助は部屋のドアへと一直線に進み続ける。そしてーードアに額を思いきりぶつけ、部屋中に衝突音が響く。反射的に額を抑えて蹲り、じんじんと痛みが込み上げてくると同時にーー耕助は自分の身体の異変に気付いた。


 軽いのだ。

 身体が自分のものとは思えぬ程、途轍もなく。


 「何だこれ…」

 耕助が額をさすりながらドアを開けようとするとーーバキ、という鈍い音と共にドアノブが砕け散る。驚いて自分の掌を見るとーー指先が溢れんばかりの力を制御できぬかのように、ビクビクと脈打っていた。しかもそれだけでは無い。パジャマをたくし上げて腹筋を見ると、見事なシックスパックになっておりーー更に猫のように丸まる事ができる程に、身体も柔らかくなっている。本来身体能力は普通の小学生並みである筈の耕助がーー今はさながら体操選手の様な身体能力を手にしていたのであった。


 「これは…」

 耕助はしばしの間、ぽかんとする。そしてーー


 「SAS◯KE完全制覇、ってコト!?」

 耕助は唐突にそう叫ぶと、ドアをぶち破るかの勢いで部屋を出る。そして羽毛のように軽くなった身体をリズミカルに動かしながら階段を降りて、真っ直ぐに玄関へと向かう。


 「おはよ…うわ!」

 掃除機をかける母の横を爆速で駆け抜けると、母はぐるりと一回転し、掃除機の中身を全てぶちまけてしまった。その様子を尻目に、耕助は勢いよく玄関を開け放ちーーパジャマのまま外に出る。そして興奮による身体の疼きに身を任せるように、庭をがむしゃらに走り回りながらーー耕助は今日の夢を思い出す。


 あの完全制覇は夢ではなく、現実の記憶だったのだ。

 1号は本当に、願いを叶えてくれたのだーー


 耕助は1号に感謝し、ひとしきり庭を走った後、今度はその強靭な指の力を活かし、するすると屋根の上へと駆け登っていく。そして初めて屋根の上から町の全貌を見渡しーーその優越感に、耕助は思わず「うは」と高い声を上げる。そしてその興奮を発散するかのようにーー 


 「ふぉー!」

 二階建ての屋根からジャンプ一番、胸を突き出して飛び降りーーそして空中でモモンガのように手足を目いっぱい広げて宙を舞い、前方に一回転しながらーー


 すたっ。

 砂埃と共に、庭の中央へと綺麗に着地したのだった。

 そして、耕助がその快感にぶるりと身体を震わせているとーー


 「おぉ」

 周囲に誰かのどよめきが響き、耕助は辺りを見回す。するとそこにはいつの間にか大勢の記者が耕助を囲むように立っており、耕助に無数のカメラとマイクを向けていた。その異様な光景に耕助は困惑し慄くが…そんな耕助をよそに、記者達は口々に耕助に質問を投げかける。


 「犬飼君!史上最年少の完全制覇おめでとうございます!是非お話を聞かせて下さい!」

 「普段からそうやってトレーニングされているんですか!?」

 「好きな食べ物は何です&w?roj」

 「普段の学校生活では何をjo/&//tjwiliーー」

 「@#@mgp@pdwydw'hdwgw-----」

 次々と耕助に押し寄せてくる記者達の質問の波。自分のパーソナルな部分が土足で踏み荒らされていく感覚。その吐き気を催すようなおぞましさに、田舎町の素朴な少年の脳の処理能力は一瞬にして破綻し…耕助はぐるぐるぐると目を回しながらーー


 「あぁぁぁぁぁぁ」

 狂乱の叫び声をあげた。

 


~~~~~~



 「はぁ、はぁ、はぁ…」

 耕助は家まで押し寄せてきた記者達を全て追い返すと、思わずその場にへたり込む。なるほど、完全制覇しても良い事ばかりではないのかーー。そう思いながら耕助は、1号が帰る前に言った「願いを叶えた後の事までは保証できない」という言葉の意味を改めて理解した。


 「耕助君」

 その時、近くから誰かの声が聞こえた。耕助はまた記者か、とうんざりした表情でその方向を見る。しかしそこには先程の記者達とは少し雰囲気の違うーースーツとシルクハットを着た40歳手前くらいのダンディな男性が立っていた。


 「耕助君、大きくなったね。マスコミに囲まれて大変そうだったけれど、大丈夫かい?あ、僕は記者じゃないよ。僕はね…」

 そのダンディな男性はそう1人で話しながら耕助に近付いてきて、優しい笑顔を耕助に向ける。そしてその時の、瞳の歪み方が小雪ちゃんそっくりで…そこで耕助はこの人が小雪ちゃんのお父さんーー叔父だと確信した。


 「そうそう。叔父さん。よく分かったね」

 そして男性が叔父だと気付くと同時に、耕助は大切なことを思い出す。そういえば今日は小雪ちゃんが泊まりに来て4日目の朝…


 小雪ちゃんはもう、東京に帰ってしまうのだ。


 そしてその瞬間、耕助の胸が少しちくりと痛む。

 それは耕助にとって、初めての感情だった。


  

~~~~~~



 「やっぱり小学生でSAS〇KE完全制覇者にもなると、厚かましいマスコミが沢山来ますからねぇ。僕の方から各局に失礼な事しないように念押しときますね」

 「あ、ありがとうございますぅ。え、マスコミ来てたんですか?掃除機かけてて全然気付かなかったわ、おほほ」

 「僕も仕事してて全然気付かなかった。いやー、助かります」

 叔父と両親が話している中、1人黙って考え込んでいると…おもむろに母に小声で2階にいる小雪ちゃんを起こすように言いつけられ、耕助はリビングを出た。


 「小雪ちゃん」

 そして耕助は未だ釈然としない心待ちのまま、2階の客間へと小雪ちゃんを呼びに行く。返事がないのでドアを開けると、小雪ちゃんは既に起きていてーーベッドの上で窓の外の景色を眺めながら、ちょこんと座っていた。


 「小雪ちゃん、お父さん迎えに来たよ」

 耕助はそう用件を告げながら、小雪ちゃんの横に座る。そして小雪ちゃんの横顔を見ると、その大まかな顔立ち自体はあまり変わらないがーーその表情には今までと違って、少し艶っぽい雰囲気が漂っているような気がした。


 「うん、知ってる」

 小雪ちゃんは鈴の音のように澄んだ声で頷く。小雪ちゃんの声をこれほど心地よいと思ったのは、これが初めてだった。


 「ここってほんとに、良い所だね」

 「でしょ」

 「うん。東京と違って…ここの空気はほんのり甘くて、心地いい」

 そしてそう言うと、小雪ちゃんは耕助に綺麗な顔を向ける。

 清く美しい瞳が耕助を熱っぽく捉えると、小雪ちゃんは頬を少し朱色に染めながらーー


 「また来るね」

 そう言ってふわりと微笑んだ。

 するとまた耕助の胸がちくりと痛んだがーー


 その理由は、まだ知らない。

 


~~~~~~



 小雪ちゃんが東京に帰ってから早1週間が経過した。今では耕助の僧頭そうず(スキンヘッド)にも少し髪が生え、今は普通の坊主になっていた。

 耕助は小雪ちゃんと2人で遊ぶのに慣れてしまっていたからか、以前のようにひとりで過ごすのがすっかり寂しく感じるようになってしまいーー今では大体、こうして梨乃の家で暇を潰していた。


 「そっか、まだ小雪ちゃんからお手紙来てないんだ」

 梨乃が宿題の広がる机に頬杖をつきながら言う。その目線の先には耕助の姿があるのだがーー耕助はなぜか梨乃の部屋の大半を使って、坊主にタンクトップというのような姿でドラムの練習をしていた。さらにその奏でる音は支離滅裂極まりなくーー下手すればマンションの騒音問題に発展しかねなかった。


 「てか何でドラム?いつの間に持って来たのそれ」

 「昨日梨乃ちゃんが寝てる間に、3号に運んでもらった」

 「うん、私が寝てる間に何かするのやめてね。怖いから」

 相変わらず淡々と冷静にツッコミを入れる梨乃。梨乃はこの1週間を通じて耕助の奇行と対峙し続けたことで、ツッコミの玄人度合いには磨きがかかっていたが…一方で宿題には全く集中できず、夏休み終盤にも関わらず、まだ半分以上の宿題が残ってしまっていた。そしてその点では、宿題を序盤で終わらせてしまった耕助がニクいーー


 「紅、にそまった、このおれを…」

 耕助はX JAPANの『紅』をぼそぼそと小声で歌いながらも、ドラムはでたらめに叩く。そのせいで歌は聞こえず、実質ドラムを叩いているだけのようになっていてーーそれを梨乃が思わず指摘するとーー


 「いや、マンションで大声出したらダメでしょ」

 じゃーん。

 耕助は真顔でそう言った矢先、またシンバルを思い切り叩く。そのあまりの道理の通っていなさに、梨乃は脳がバグりそうになったのでーー何とか脳を正常に戻そうと宿題の算数ドリルに向き直り、数式をひたすら解く。


 「じゃ、そろそろ帰るね。バイバイ」

 そして耕助は突然そう言うと、部屋の窓から出ていってしまった。ちなみにここはマンションの11階ーー到底人間が窓から出ていけるような高さではないが、1週間ずっとこの帰宅方法を見てきた梨乃は特に驚く事もなく、ただ一言「気をつけてね」と返して宿題を続けた。



~~~~~~



 壁の小さな出っ張りを指で掴みながらマンションを上手く降りた後、耕助は周囲の好奇の視線をよそにどこかで見た『トラボルタカスタム』のR-指定の真似をしながら、ついでにその時の何かを摘んでいるような指の形を生かして、剥けてきていた日焼け跡を取りつつ歩き出す。そして先程、梨乃には帰ると言ったもののーー耕助は自宅ではなく、近くの雑木林へと向かっていた。そして雑木林に到着して中に入りひたすら進んで行くとーー突如としてネオンの煌びやかな光が耕助の網膜を突き、耕助は思わず目を覆う。そして再び目を開けた時にはーー


 その眼前に、妖しく光る近未来的な建物が聳え立っていた。

 この雑木林には元々、何も無かった筈ーーしかし昨日梨乃の家から帰る際、一度避暑をしようとこの雑木林に立ち寄って適当に散策していたところーー


 この異様な建物を発見したのだった。


 その時にはもう辺りも暗くかなり不気味だったため、耕助は中に入る事なく帰宅したのだがーー帰宅した後もその不思議な雰囲気がどうしても頭にこびり付いて離れず、こうして翌日の昼間に出向く事を決めたのだった。


 うぃん

 と自動ドアを通って中に入る。するとそこには、TVのCMでしか見た事ないようなパチンコ台が無数に並んでいたがーー見たところ耕助以外に客はおらず、薄暗い店内でただ電子音を無機質に鳴らすのみであった。そして耕助がどうして良いか分からず、うろうろと店内を徘徊しているとーー


 「いらっしゃいませ」

 突如として店員に声をかけられ、耕助は立ち止まる。

 見るとそこには、黒いスーツと赤の蝶ネクタイを身に付けたーーウミウシのような異形の容貌をした宇宙人が立っていた。


 「こちらへ」

 耕助はその宇宙人に言われるがまま案内され、一台のパチンコ台に座る。そして宇宙人は台の横にある隙間を虹彩色の手で指し示して耕助に料金を要求するが、生憎耕助はお札を持っていないーーしかしその事を正直に伝えると宇宙人は首を横に振る。そして宇宙人は次に…耕助の右肩辺りの日焼け跡を指し示した。


 「そちらが料金となります」

 耕助はその宇宙人店員の言葉にぽかんとしながら、自分の日焼け跡を見る。それは先程少しほじくったおかげでめくり易くなっていて…爪を入れるとぺろりと一枚綺麗に剥がれてしまった。そして取れた皮を困惑しながら台の横の隙間に入れるとーー


 「わ」

 じゃらじゃらじゃら、という小気味良い音を立てて、台の上皿に銀色の玉が勢いよく溜まっていく。耕助はパチンコの事はよく分からないが、どうやら本当にこれでいけるらしいーーという事は何となく理解した。


 「右打ちして下さい」

 宇宙人が台の右下にあるハンドルを回し、やり方を教えてくれた。そして耕助はそれに倣いーーそこから小一時間、ひたすら銀色の玉を打ち込み続けた。

 

 ぱしゅん。

 ぱしゅん。

 ぱしゅん。


 耕助は欠伸をしながら玉が飛んでいく様子をぼぅと眺める。真ん中のモニターには何か変な映像が流れているがーー言語も分からず、映像の意味も全く分からないため、耕助にとってはただ退屈で空虚な時間だけが流れていた。


 「ごめん、飽きたし帰るね」

 「畏まりました」

 そして耕助はとうとう本格的に嫌気がさし、未だ後ろで見守り続ける宇宙人にそう告げて席を立ったーー

 その時だった。


 ぴりぱりぽりぷりぱりぽぽぽぽぽぽーーーーー

 突如としてその台から今までとは違う独特な電子音が流れ、耕助は思わず台のモニターを見る。するとそのモニター上ではーーこの世のものとは思えぬほど禍々しい色の渦巻きが、耕助を吸い込まんかのようにぐるぐると回る光景が映し出されていた。そして耕助はそれを見た瞬間ーー取り憑かれたように目の色が変わって、再び台に座る。


 「おめでとう御座います。当たりです」

 宇宙人の言葉は、もはや耕助の耳には入っていなかった。

 耕助はその渦巻きを食い入るようにしばし眺める。そしてーー

 快楽の極致へと誘われた。


 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁぁーーーー」

 耕助は全身をびくびくと陸に揚げられた魚のように震わせーーそして何も考えられなくなった。その間もなお、快楽中枢を無限に揺さぶるように電子音が脳内を巡り続けーー耕助は無意識に白目を剥き、ビクビクと身体を震わせる。まるで最高級の脳内マッサージーー今までに感じてきたあらゆるものとはレベルの違うその至高の快楽を、耕助は本能で堪能し続けていた。


 ぴ、ぽぽぽ、ぽぽ、ぱ、ぱぱぱぱぱーーーーー


 「うぁぁ、はぁ、あぁ、はぁぁーーーーー」


 ーーぱ。


 「……はぇ」

 電子音が終わって少しした後、耕助は我に帰った。そして緩み切った顔で振り向き、宇宙人の顔を見る。


 「先程の当たりは終了です。まだ続けられますか」

 そんな耕助の物欲しげな顔を見て、宇宙人が感情の分からぬ声で言う。そして耕助はーー

 また日焼け跡を台の横の隙間に投入し、ハンドルを握った。



~~~~~~



 その後も何回か当たりを繰り返しながら、耕助はどんどん沼にのめり込んでいきーー最初の当たりから述べ6時間、門限をゆうに超える夜7時まで打ち続けーーついに耕助の身体からは全く日焼け跡が無くなり、病的なまでに色白の肌になってしまった。


 「日焼け跡が無くなったため、今回は完全に終了となります。お帰り下さい」

 そう宇宙人に言われ、耕助は抜け殻のようになりながら外へつまみ出されるとーー名残惜しそうに雑木林を後にし、とぼとぼと自宅までの帰路についているとーーまた先程の快楽を思い出して脳が疼き、耕助は身を翻して雑木林へと戻る。そしてあのパチンコ屋があった場所に向かうとーー


 「あれ…」

 耕助は絶望した。そこにはどこを探しても大きな建物などなく…小さな廃小屋がただ一つぽつんと佇むのみだったのだ。そしてその廃小屋の中を見ても、ただ砂に塗れた掃除用具がごちゃごちゃと置かれているだけで何も無いーー


 つまりあれは、宇宙人が自分に見せた幻想郷だったのだ。

 その事実に気付いた時、耕助はどうしようもない不安に駆られた。


 「やばいな…」

 耕助はそう呟くとおもむろに快足を飛ばす。そしてその向かった先はーー雑木林から少し離れた所にある商店街だった。


 「あぁ」

 辺りが暗くなってくると、スナックなどのネオンの光が目立ち始める商店街。耕助は昔一度だけ夜にこの商店街に来た際の、このムーディーな光景を覚えていてーーまるで灯りに群がる虫のようにやって来たのだった。


 耕助はネオンの光を認識する度、そのスナックやバーの店内を片っ端から確認する。しかしどこを見ても当然台は無く、耕助はその度に肩を落として走り去っていたがーー遂に耕助はそれを発見した。


 「ありゃ」

 それは商店街に唯一あるパチンコ屋ーー耕助はそれを見つけた瞬間、まるで広大な砂漠の中にオアシスを発見したかのような感動に駆られーー期待に満ちた笑顔でそのパチンコ屋に入店する。

 しかし…


 「また大人になってからね」

 現実は耕助が思っていたより残酷であった。当然ながら耕助は小太りの店長に連れ出されーー入店を拒否されてしまった。耕助はまた絶望の淵に突き落とされ、店の前にひざまづいて顔を落とす。


 「欲しい」

 そして耕助はこの世の終わりかのような顔で下を向きながら呟くとーーまた、通行人の心配の声かけもよそに再び立ち上がる。そして脳内を支配する欲望を満たすために荒い息で走り出そうとするとーー突如として足がもつれ、耕助は商店街に倒れ込んだ。1号のおかげでSAS◯KE完全制覇を達成できる程に強化された耕助の肉体ーーしかしその肉体も流石に、ずっと走り続けて限界を迎えていた。


 「欲しい、欲しい、欲しい、欲しい」

 しかし耕助はまだ手を床につけて立ち上がり、ふらふらと歩き出す。その時の耕助の瞳はもう焦点が合っておらず、もはや正常な歩き方すらも分からなくなってきていたが…それでもまだその快楽への渇望を充たすため、足を進め続けていたーー

 その時だった。


 「ねぇ」

 と、耕助は誰かから呼ばれたような気がして横を見る。しかしそこには人影はなく、シャッターの閉まった古く小さな本屋がぽつんと佇んでいるのみだったがーー耕助はその場所を、よく知っていた。


 「卍金堂…」

 耕助は看板に書かれるその店名を小さな声で呟く。そして2・3・2・1拍子のリズムでシャッターをノックしシャッターを開けーーそのまま吸い込まれるように中に入って行った。


 「2号…」

 オレンジ色の暖かい光が、耕助を優しく迎え入れーー耕助は奥から出てきた2号の、その太陽のような異形の顔を見る。そして耕助は引き攣った笑顔を浮かべてーーただ一言だけ漏らした。


 「狂っちゃった」

 するとその瞬間ーー2号の顔が突如として変形し、黒く綺麗な長髪を靡かせた女性の姿になる。しかし何故か目元だけはぐちゃぐちゃと黒く塗り潰されていて分からないがーーそれに違和感を持つほどの余裕は、今の耕助には無かった。


 そして2号は耕助に近付き、その艶のある唇を近付けーー

 そっと口づけをした。



~~~~~~



 夜9時頃、耕助がぼぅとしながら家に帰るとーー母が般若のような顔で怒髪衝天しながら玄関で待ち構えていた。そして耕助は宙に浮くような心地のまま母に顔面百叩きをかまされーーそして蜂に刺されたようにこっぴどく腫れた顔で、夜ご飯のもんじゃ焼きを静かに食べる。先程まで耕助の脳を支配していた中毒症状は、今ではすっかり無くなっておりーー寧ろ何故あれ程まで虜になっていたのか分からなくなっていた。


 「まぁ耕助の年頃だとちょっとくらいは夜遊びしたくなるよな。気持ちは分かる」

 耕助を探しに行っていた父が戻ってきて一緒にもんじゃを食べながら、気を使うようにそう言う。しかしその父の言葉は耕助の耳には全く入らずーーその空っぽの脳にもんじゃの味覚情報のみを取り入れ、そしてその豊かな旨みを脳が処理した途端ーー耕助は無感情のままゆっくりと息を漏らした。


 「ふぅ…」

 後に耕助はその状態の事を『もんじゃタイム』と名付けた。




 《第二部 後編へ続く》

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