第13話 


 「どうしたの?」

 由衣の声がした。それを起点として意識が収束していく。自分が寝ていたのか起きていたのか分からない。不思議な感覚だ。ただ彼女の声を頼りに意識の綱を引く。

 古書の香りが鼻腔をくすぐる。ボブヘアーからいい香りがする。ここは図書室か?

 ―――おれは確か電車で……どうして電車に乗ってたんだ?

 「すまない。なんだか意識がはっきりしないんだ」

 「大丈夫?」

 由衣は心配そうな顔をしていた。

 頬がかゆい。熱い線がくすぐっている。熱い線?

 おれは手の甲で顔を拭う。拭うと顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。台風の直後の用水路のように涙が止めどなく流れてくる。

 「……あれ? おかしいな」

 手に持っていたスマホからは以前に撮った映像が流れていた。

 そうだ。由衣と映画制作の会議をしてて、それで、今まで撮ってきた映像を見て、それで、それで?おれはなんで泣いてるんだ?

 いや、たしか蝉が鳴いていた。山があった。坂もあった。

 「すまない。今日の会議は終わりにしよう」

 おれは立ち上がる。思いのほかいきよい良く立ってしまったため、椅子が地面に擦れる。

 思い出したのだ。夢だったのかもしれない。しかし、今は彼女に会わなければならない気がする。なんとしてでも彼女に会いたい。

 おれは図書室から出て、直ぐに走り出す。心臓が臆病そうな音を立てている。

 廊下には屋上でのカップルが手を握って歩いていた。

 「すまないが、クルミを見なかったか?」

 「クルミ? あの小さい子じゃない?」

 「それなら、さっき下駄箱で見ましたよ」

 「どうもありがとう!」

 おれは階段を駆け下りていく。

 廊下を走る。

 急がなければ。

 手遅れになる前に。

 自転車置き場には行かず、そのまま正門を抜ける。

 いた!

 毛並みのいい大型犬のような後ろ姿。

 日が下がり始めたものの、蝉は以前勢力を増していた。

 この十字路では事故は起こらない。だが、走らなければいけない。路面は凸凹しているため、何度か転びそうになる。それでもおれは彼女の元にいく。

 「クルミ!」

 おれは彼女の手首を握る。細く柔らかい。

 「えっ!」

 クルミは泣いていた。目を腫らし、鼻水が出ている。両手で涙を拭っていたのか、手首は少し濡れていた。

 「なんでいるんですか」

 「なんでお前が泣いてるんだよ」

 彼女の顔を見た途端、涙が溢れそうになった。

 「手首が痛いだけです」

 「ああ、すまない」

 おれはとっさに手を離そうとするが、止めた。

 彼女はそれについて何も言わない。

 「おいて来ちゃっていいんですか?」

 「一日ぐらい許してくれるだろ」

 どうせ自転車を置き場に人はこない。

 「じゃあ、帰りましょう!」

 クルミはいつものように楽しげに笑う。少し弱っている様子だったが、楽しげな雰囲気が伝わってくる。

 その後、我々はたわいのない話をする。

 おれはなぜクルミが死ぬ夢を見て、彼女がなぜ泣いていたのかは分からない。聞くこともできた。しかし、我々はたわいのないいつでもできるような話をした。彼女は生きていて、おれをからかう。それでいいじゃないか。




 クルミを家までおくり、自分の通学路にもどる(おれと彼女の家は反対方向にあるのだ)。

 信号で止まり、青を待つ。

 彼女の手首を握っていた手を空で何度か握る。確かな手は彼女の細い手首の形でとどまり、また開く。

 ―――クルミは生きている。

 その事実を飲み込み、安堵する。すると目頭が熱くなる。

 そういえば、由衣には恥ずかしい姿を見せてしまった。彼女の前では泣きたくはなかった。きっと、彼女のことだ。泣いてた理由なんて深くは聞いてこないだろう。もし聞いてきたらなんて言おう。クルミが死んじゃう夢をみて、泣いてしまった?なんだか女々しいな。

 




 

 

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