第46話 彼を超えるチャンス


もう後がない。学年末テストは、数日後に行われる。ハヤトは出席はするものの、未だに立ち直れていない。心配したクラスメイトたちが声をかけたり、遊びに誘ったりもしたが、返事は曖昧だった。弱った姿に母性本能をくすぐられた、あらゆる学科の何人もの女子生徒に呼び出されたりもしたが、彼は行く素振りを見せなかった。


今日もハヤトは授業後も帰らず、机で目を瞑り静かにうなだれている。オリビアは、誰もいない事を確認してハヤトの席に近寄った。教師たちの話を聞いてしまっていた。彼を表彰の候補から外す検討をし始めているという事を。


「ハヤト…皆もう帰ったわよ。テスト勉強するんじゃない?あなたもした方がいいんじゃ…」


「……もう、僕の事は放っておいていいんだよ」


ハヤトはオリビアを一瞥すると、またぼんやりと机に目を落とした。


「そんな事出来る訳無いでしょう。あなたは私のライバルなのよ?言ったじゃない、そういうの抜きにして戦いたいって。あなたがそうだと気が散るのよ。一緒にやりましょうよ」


「行かないよ。もう邪魔して困らせたくない。僕はレイに負けたんだ」


「………何よ、出来るんじゃない、遠慮…」


動こうとしない彼を見下ろす。オリビアも立ち去る事が出来ない。ハヤトのうつろな顔を見たまま、静かに時間が流れていく。


カラカラとドアがスライドされる音で、オリビアはハッとした。入口の方を見ると、レイが立っていた。真剣な目をして、口元を引き締めている。


「…オリビア先輩、行きましょう」


何かを察しているのか、いつものニコニコと無邪気な様子は無い。


「レイくん、少し待って」


「もう追い込みの時期なんですよ。時間の無駄です。ねぇハヤト先輩、彼女、連れて行きますね。いいですよね」


レイはこちらに向かって歩きながら、ハヤトに冷たく声を掛け、戸惑うオリビアの背中に手を添えた。聞いてはいるが、拒否はさせない、そんな言い方である。


「ああ…」


ハヤトは辛そうに顔を歪め、目を瞑ってレイを見ないようにした。レイはハヤトが何も言わないのを確認すると、オリビアを立ち止まらせないように、強めに押して教室から出す。


「ハヤト、自分の部屋でもいいから、テスト勉強だけはしっかりやるのよ。お願い……」


オリビアはレイに押されながら振り返り、ハヤトに訴えるが、返事は無かった。


***


今日も図書館は、がら空きだった。

この時期ならもっと人がいてもいいものを、人気があるのはいつだって宿舎の方の図書室だ。だからこそ、オリビアはここに来ているというのもある。


彼女は、もはや自分専用の席であるかのように、いつものお気に入りの窓際の席に座る。レイはその向かい合わせに腰掛け、教科書を広げた。真面目にテスト勉強を進めている。時々オリビアへ質問しては、分かった事をノートに記した。


オリビアは、レイに教える時以外はほとんど上の空だった。教科書を眺めても、内容が入ってこない。


窓の外に顔を向け、夕日に目を細める。いつの間にか季節も変わろうとしている。今にも沈みそうな暖かな陽の光が、彼女の手に力無く握られた羽根ペンに優しく当たって、黄色く輝かせた。


「オリビア先輩…どうしたんですか?全然進んでませんよ」


「あ…そうね、止まっちゃってたわね」


「別れたの?」


「えっ………」


「そろそろ教えてくださいよ、先輩たちの事。ハヤト先輩、あんなにうるさかったのに、どうして最近大人しいんですか?仲直り出来なかった?」


レイは探るような目つきで、こちらをじっと見ている。


「…いえ、付き合ってはいないのよ。言いそびれちゃってたけど」


「…………やっぱり。ハヤト先輩はああ言ってたけど、あの人の妄想だったんですね。気持ちの悪い人だ」


ハヤトが嫌いなのか、彼の話になった途端に表情を変えた。


「ふふ……相変わらずはっきり言うのね。ハヤトはかなり強引だし、独占欲も強い人で、最初はレイくんの事もかなり警戒してたわ。危ない、信じないって。あなたよりも、ハヤトに気を付けた方が良いぐらいだったのに」


「うえ、何ですか、危ないって。僕がオリビア先輩を襲うとでも?こんな場所で?そんな事する訳無いじゃないですか。その発想に驚きですよ」


その後に、ドン引きです、と付け足した。


「ええ、そうね。あなたはハヤトみたいな事はしないわね。ハヤトがおかしいのよ。皆が自分と同じだと思ってる」


「付き合ってもないのにあそこまで怒れるんだ…。そういう勘違い野郎には、きっぱり言わないと大変ですよ」


「そう、それで本気で怒ったら、信じられないぐらい落ち込んじゃって」


オリビアは笑った。だが、目が悲しげに揺れる。


「へぇ、だからあんな風になってるんですね。じゃあもういいじゃないですか?気にする必要ないですよ」


「そうなんだけどね……テストが、あるから。ハヤト、勉強にも身が入らなくなってるみたいで。このままだと表彰者から外されるわ」


「そんなの放っとけばいいんですよ。あいつが勝手にやってる事なんだから。オリビア先輩はあいつの心配なんてする必要ないんだって」


「あいつ、って言うの、やめてくれる?」


オリビアは優しく静かに言ったが、彼女の目を見てその内にある感情を感じ取ったのか、レイは慌てたように訂正した。


「えっ、あ、すみません……ハヤト先輩、失恋したくらいで大事なテストまで投げ出すなんて、普段よっぽど何でも思い通りにいってるんですね。だから、一度の失敗で、落ちるところまで落ちるんだ。可哀想な人ですね」


「……そうね」


「でも良かったですね、チャンスじゃないですか」


「チャンス?」


「1位のハヤト先輩は今、勉強が手につかない状態。という事は、2位のオリビア先輩が1位を取るチャンスです」


──私が、1位?


「そして、ハヤト先輩はトップクラスだ。普通科が、トップクラスに勝つまたとない機会でもある。オリビア先輩、今ですよ。ラッキーじゃないですか、ハヤト先輩が落ち込んでくれて。タイミングが完璧でしたね」


「あ……」


──こんな大事な時期に、ハヤトを…そんなつもりは無かったけど、同じ事だ。


「オリビア先輩は、悪くないですよ。誰にだって嫌な事のひとつやふたつ、あるものです。その度に何も出来なくなってたらキリが無いですよ。切り替えられないハヤト先輩が悪いんです」


口に手を当て眉を下げるオリビアを慰めるように、レイは優しく言う。


「それは、一理あるけど…」


「なに遠慮してるんですか?ずっと目指してたんですよね?今の順位に納得いってないって。羨ましかったんですよね?」


レイの矢継ぎ早の説得に、オリビアは戸惑った目を見せた。


──レイくんの言う通りのような気がしてくる。今彼に勝てれば、賞状も1位で受け取れる…。


オリビアは思い返した。成績表を開く度に目に入る数字の「2」に、どれほどの悔しさを感じてきたか。いつも首位にいる男の顔を見る度、どんなに憎らしく思っただろうか。


ずっと彼を超えたかった。この1年間、それしか考えられない程、過去の栄光にすがりついていた。あの日から何もかも狂ってしまっていたでは無いか。あの人に崩されたプライドを取り戻す、最大のチャンスだ。


オリビアはそう思いながら机に目を落とすと、クリスマスの日から使い続けている黄色い羽根ペンが目に入った。


──じゃあ私は、どうしてここまで諦めないでいられたんだっけ?


何も言えないでいると、ふいにレイに手を重ねられ、顔を上げた。レイは笑顔で、冷たい印象の目元を最大限に柔らかくさせている。


「僕もラッキーでした。ハヤト先輩が自滅してくれたので」


「自滅…?」


「だって僕、ただ勉強してただけなのに、ハヤト先輩が勝手に諦めてくれたんですよ。この間もあんなに怒ってたから、殴られでもするのかと思えば」


勝ち誇った顔で、こちらへ微笑みかけた。


「僕は、次のテストで必ず学年1位を取ります。だから…オリビア先輩も取ってください。一緒に最優秀賞、貰いましょう。そして、僕と付き合って下さい」


髪色と同じ、青みがかった灰色のその瞳と、視線が絡まった。



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