第35話 諦めさせない
「もういい?」
「まだ。ずっと後ろ向いてて」
「嘘だ。絶対着替え終わってる…」
「あっ!」
制止も聞かず、ハヤトに振り返られた。着慣れないワンピース姿を見られ、オリビアは下を向き赤面する。
「やっぱり可愛いね」
「来なきゃ良かった………」
「なんで?凄く似合ってるよ。よく見せて」
ハヤトに顔を覗き込まれ、オリビアは視線を逸らした。
「ねぇ、ボトルは?早く返してよ」
「いいよ。帰る時にね」
──だと思った。この男がそう簡単に返してくれるはずがない。
「はぁ…でしょうね。だからちゃんと教科書持ってきたのよ。早くしましょうよ」
「え、もう?せっかくオリビアが可愛い格好で僕の家にいるのに、勉強ばかりじゃつまらないよね」
オリビアはジロリとハヤトを睨む。
「私に何かしたら、すぐ帰るからね」
「何かしてから帰ろうとしても遅いと思うけど」
「……もうボトルいらない」
入口のドアへ向かってスタスタ歩き出すオリビアにさすがに焦ったのか、ハヤトは慌てた声を出した。
「ごめんごめん!冗談だよ。しよう、勉強」
「ほんっとに…」
ハヤトが自分のノートを広げるのを見て、オリビアは怒りをこらえて座り直した。
彼のノートが初めて目に入る。用紙いっぱいにびっしりまとめたがるオリビアに対して、ハヤトのノートは綺麗な字で、要点のみをシンプルに書き込んである。
「うーん…どこやろう。僕もう全部覚えちゃってるんだよな…オリビア、君分からないところある?教えるよ」
「…じゃあ、魔法学の、200ページのところ…」
オリビアが教科書を広げて見せた。
「200ページ?ああ、ここ複雑だよね。いいよ」
「本当は嫌だけど、教えて貰ってあげる」
「不思議なセリフだな……」
ハヤトは自分の教科書をパラパラめくると、解説を始めた。
***
「大丈夫?」
「うん…ごめんなさい、もう一度教えて」
「いいよ、難しいよね。ここはさ…」
オリビアは、自分が思っていたより彼が丁寧に説明してくれる事に驚いた。いや、本当は知っていた。授業後に彼の机に教わりに集まる生徒を何度も見た事があった。
今まで意地を張って、ハヤトに何かを聞いたことはほとんど無かったが、実際に教えてもらうと理解しやすい。先生ならば授業スピードも考慮して、ある程度は分かっている前提で飛ばす事もある。しかしハヤトは基本から何度でも教えてくれる。
オリビアの理解が追いついていなくても、絶対に怒らない。
彼は教えるのが上手だ。皆が彼に聞く理由が分かる。教えるという事は、本当に理解し、かつ、忍耐力が無いと出来ない。
──私よりも彼の方が教師に向いているのでは?
改めて悔しく思う。もう気付いていた。自分なんかが敵う相手では無かったのだと。確かに学年2位の成績を維持しているが、脳の質が違う。1位との差は歴然だ。それを分かっていたけど認めたくなくて、ずっと気付かないフリをしていた。彼は、本物の天才だ。オリビアは、初めてはっきりとそう思った。
「あの……」
オリビアが、ハヤトの説明を遮って口を開いた。
「ん?」
「ハヤトって……本当に頭が良いのね…私、あなたに届く気がしなくなってきたわ…」
クリスマス以来、取り戻していたやる気を再び失っていく。あの時に貰った羽根ペンをテーブルへ置くと、ハヤトは驚いた顔をした。
「何弱気な事を言ってるんだよ。オリビアは頑張ってるじゃないか。努力は必ずついてくるよ」
「でも、あなた私に、僕には敵わないって、言うでしょ。本当はその通りなのに、私は1人だけムキになってた。皆はあなたを認めているのに。こんなに差があるのに。恥ずかしくなってきた…」
──突然目標が見えなくなる。だから嫌なんだ。ハヤトといると、自分の至らなさが浮き彫りになるから。
迷いが生まれて立ち止まったオリビアを見て、ハヤトは持っていた教科書を閉じ、羽根ペンを手に取った。
「…僕はね、オリビアのそういう所が好きなんだよ」
「……?」
「自分には到底及ばないような、遥か高みの存在に向かって、それでも一生懸命食らいついていく。そういうところに惚れたんだ」
「どうして?かっこ悪いでしょう。私は自分の必死さが好きになれないの。私も才能を持って生まれてみたかったわ。いつも余裕そうなあなたのように」
──知的で聡明なマリア先生のように。
「そんなにいいもんじゃないよ」
「そんな事ないわよ。あなたは私が欲しいもの、全部持ってる」
オリビアがそう言うと、ハヤトは少し微笑んでから、窓の方を見て話し始めた。
「僕は…小さい頃から魔法が使えて、1度聞けばすぐにどんな魔法も使いこなせる僕を、皆が天才だと特別扱いした。でもそれは、いい意味では無かったんだ」
「……」
「前の学校はね、ここと違ってかなりの少人数制だったんだよ。魔法学も無くて。同調圧力も強いから、人と違う僕を周りは不気味がった。まぁ、この性格だからというのもあるかもしれないけど。一言で言うと、嫌われてた」
ハヤトは笑っているが、寂しげにも見える。授業で妨害されたり、薬草を盗まれたりしても慣れているから気にしないと言っていたが、どれだけの嫌がらせを受けていたのだろうか。
「あ…あなた、揉め事起こして転校したって…」
「させられたんだよ」
「そんな…」
思ってもいなかった彼の過去に、開いた口が塞がらない。
「でもさ、良かったよ。プロピネスの皆は、優しいし。だけど僕を一見普通に受け入れてくれる人たちも、どこか遠慮がちな所を感じる」
「確かに、皆あなたに一目置いてるわ。いい事じゃないの?」
「僕は別に賞賛の言葉はいらないんだ。そして君も知っての通り、ここでも嫌がらせはゼロじゃなかった。だからね、正直最初は君もきっと仕返しみたいなことをするんだろうなって思ってた」
「さ、さすがにそんな事はしないけど…」
「だろ?君はどんな事をしてくるんだろうと思っていたのに、いつまで経っても君、全然何にもしなかった。どれだけ負けても、自分の力だけで僕に立ち向かってくれた。それが、僕は初めてで、嬉しかったんだよな」
「……」
「だから、オリビアが図書館で頑張る姿を見るのが好きなんだ。かっこ悪いなんて思う訳ないだろ。失敗してもめげずに立ち上がる君を。ツンとすましてるだけかと思いきや、誰も見てない所でなりふり構わず必死になって、上手くいったら大喜びするのが隠せない君を…」
1度離した羽根ペンを、ハヤトに再び握らされる。その上に、彼の手が優しく重なる。
「僕に敵わないって本気で思ってたら、応援なんてしないよ」
気が付いたら涙をこぼしてしまっていたオリビアを励ますように、ハヤトはぎゅっと彼女の手を握りしめた。
「君は、凄いよ。僕に劣等感を抱いたりしなくてもいいんだ。前も言ったろ。オリビアは十分、僕に無いものを持ってるよ」
「……ありがとう」
オリビアが小さくつぶやくと、彼はテーブルを回り込んで近付いた。
「オリビアは可愛いなぁ。自信持っていいのに」
ハヤトに抱き寄せられる。オリビアは素直に彼の腕の中に収まった。抗う理由が思いつかなかった。
***
オリビアが落ち着いたところで勉強を再開し、難しさにギブアップしたところで、お開きになった。紅茶の残りを飲む。冷めていたがスパイスのおかげか、体が温まっていく。
「さっきはごめんなさい、取り乱してしまって」
「そんな時もあるさ。僕こそ、これ。とっちゃってごめんね」
奪われていたボトルを返される。
「あ、そうだった…どうも」
いつの間にか目的を忘れて過ごしていた事に気が付く。
「オリビア、来てくれてありがとう」
「ええ、こちらこそ。紅茶も美味しかったし…ありがとう」
「…ああ」
「これ、寒い時期にぴったりね。ぽかぽかする。作り方教えてね……今度」
「もちろん」
──なんだか、ぽかぽかを超えて暑いような気もするけど、外は寒いからちょうどいいか。
ワンピースに上着を羽織って帰り支度をする。彼の魔法薬が並んだテーブルを通り過ぎて、玄関のドアノブを握る。
「……………あの」
「なんだい?」
オリビアは足を止めた。ソワソワと髪を触る。
──OKしてしまおうか。暴走もされなかったし、彼を嫌がる理由が、もう見当たらない。
「あのね、私………あの…………」
「?」
ハヤトが不思議そうに見てくる。
「……た、楽しかった!また学校でね!」
「えっ、うん」
「お邪魔しました!」
やっぱり、言えない。オリビアは逃げるように玄関のドアを開けて、駆け出した。
しかし、数歩走ったところに、何かが立っていた。
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