決戦の後

 紫暢にとって、前世での暮らしは決して良いものではなかった。常に兄と比べられ、苦しい日々が心を纏う。

 優秀な兄とは対照的に、紫暢は相対的に平凡な人間だった。地元では名家で知られる桶皮家において、比べられるのは日常茶飯事。あらゆる面での力量の差は結果になって表れ、試験の結果も紫暢がどうにか全教科で平均点を越すところを、兄はいとも簡単に全教科で満点に近い数字を叩き出す。一つの分野に耽溺するでもなく、目が向きうる限り全てを完璧にこなした。必然的と言うべきか、両親の愛は全て兄に向けられた。

 どうにか振り向いてもらおうと、小学生までは色々なことに取り組んだ。しかしスポーツや習い事であっても紫暢が一つやる中で兄は三つをより高いレベルでこなした。そして紫暢は子供ながらに思ったのだ。自分は要らない子なのだと。

 それから紫暢は自分に期待しなくなった。不甲斐なさが自尊心を傷つけることもなくなった。以後、どれほど屈辱的な結果を食らっても、次に切り替える、などと体の良い言い訳で躱し続け、しょうがないと流し続けた日々の中で得たものは、及び腰の精神だった。

 いくら順応しても、慣れることはない。順応とは違和感や不利益だったものを、無視して無いものとするわけで、今思えば、摩耗し続ける精神を無意識のうちに守ろうとしていたのかもしれない。

 そんな中、両親と弟は突然の交通事故で亡くなった。その報せを耳にしたとき紫暢の心に去来したのは、悲しみや絶望、後悔などではなく、安堵だった。家族を全員失って、この先どのように生きていこうか悲嘆に暮れるでもなく、安堵である。そんな自分を紫暢はどうしようもなく嫌悪した。

 その時の奸邪な自分の本質が、槍の様に突き刺さってくる。避けようのないそれは、浮遊感とともに鮮明に刻み込まれた。その苦しみを切り裂くように、前に進む。しかし、大海原で溺れた人間のように、紫暢の身体は思い通りにならなかった。


「兄を見習って努力しなさい」

「なんでこの程度のことすら満足にできないの?」

「情けないお前を俺が鍛えてやろうか?」

「兄の邪魔だけはするな」

「お前は一家の恥晒しだ!」

 過去に受けた言葉の刃が烈風となって無防備な紫暢をひたすらタコ殴りにする。

『なんで不出来なお前が生きてるんだ』

『お前が死ねば良かったのに』


 亡霊と化した父、母、兄は仇を見るような目で紫暢を呪う。交通事故で亡くなったことに安堵し、あまつさえ喜んでしまった贖罪なのだろうと思った。

 想像を絶するほどの苦しみが、紫暢の心を襲う。やはり本質は変わらない。過去の自分を決して許さず、積極的に己を苦しめようとする。そんな自分を見るのが好きで。それが心の安寧を手繰り寄せることに繋がっている。


「もう、許して、ください」


 それでも、謝罪の言葉は圧迫された心から飛び出た。

『お前は一生苦しみ続けるんだ』

 冷笑を帯びたその言葉は、弱りきった紫暢の心を沼の奥底まで押し込む。満足に動けない身体は本能的に上へ上へと手を伸ばす。届かないのが分かっていてもーー。

 絶望に身を委ねていた紫暢は、伸ばした手を包み込む温もりを確かに感じた。地獄の中の微かな光明は、紫暢の心を癒す。


「シノブ、貴方は救われるべきですわ」


 それは、粉々に砕け離散していた心の欠片を補修し、新たな息吹をも吹き込むような言葉だった。



「え?」


 呆然として口を半開きに保ったまま俺は思考を停止していた。

 いつの間に悪夢から冷めたことに胸を撫で下ろしつつも、尋常でない冷や汗によって服が水気を多く含んでいることに気づく。

 これまでの反動は悪夢を見たり、数日間身体に力が入らない程度だったが、これほど大規模に行使すればやはり反動は格段に上がる。おそらく『恐慌魔法』の使用は、本人の心を弱らせる。

 ミーシャちゃんの手が差し伸べられなければ、俺の心は闇に堕ちていただろう。もしかしたら一生目覚めないほどの裂傷を心の負っていたかもしれない。


「貴方と出会ってから、私は貴方の側に居ましたわ。これまでの不幸を全て吹き飛ばすくらいに、とても楽しかったですわ。でも時折心配になることがありましたの」

「心配?」

「ふとした瞬間に暗い表情を浮かべて、まるで自分を許せなくて誰かに裁かれるのを待っているような。そんな危ない色を感じましたわ」

「あはは、よく見てるね」


 俺は軽く笑うが、ミーシャちゃんは決して表情を乱さない。


「過去にどんなことがあったのか、私は知りませんわ。でも、そうだとしても。貴方は救われるべきですの」

「……そうなのかな」

「ええ。貴方はルメニア存亡の危機に一人で立ち向かい、見事救ってみせましたわ。多くの吸血鬼の生活を、夢を、希望を守りましたの。お姉様も父上にそのことを伝えに行きましたわ。きっと、称賛を受けるでしょう」


 それは都合のいい予測に過ぎない。反人間国家感情が深まった今、わざわざ人間を称賛する意味がない。適当に吸血鬼に誰かを英雄にすり替え、俺を始末する。そんな未来だって考えられるのだ。


「……俺は攻めてきた東方連邦軍と同じ、人間だ。称賛を受ける謂れはないよ。それに、俺はルメニアを守るためではなく、ミナに恩を返すため、ミーシャちゃんの居場所を守るために戦っただけだ」

「理由がどうであれ、国を救ったのには違いありませんわ。お姉様はシノブの功績を父上に伝えるでしょう。父上は穏和な方ですわ。きっと認めるでしょう。それでももしすり替えようならば、お姉様は父上を許しませんわ。そして貴方は称賛を受けるべきですの。人間が国を守ったとなれば、クラムデリアのみならず王都・リューメルドですら、待遇は改善されるはずですわ」


 ミーシャちゃんの父君は人間を遠ざけて確執を回避することで、保護政策を採ってきたという。そして忌み子とされる混血児のミーシャちゃんを無理に排斥せず、王女としての地位を認めた。

 クラムデリア辺境伯家の権威も加味すれば、確かにその可能性は大いにあるのだろう。だからといって、それを喜ぶ気にはなれなかった。


「……」

「聞かせてくださいまし。貴方の心を蝕む闇を。力にはなれませんが、共有することくらいならできますわ」

「……ありがとう」


 その言葉が、今の俺には何よりも暖かかった。





 それから俺は、誰にとってもおそらく退屈であろう自分語りで、自己満足に耽った。

 ミーシャちゃんの顔を直視できず、ひたすら下を向いたまま感情を吐き出す。

 それをミーシャちゃんは遮ることなく、ただ耳を傾けてくれる。

 そして思いのままつのったものを吐露し終わると、しばらくしてミーシャちゃんは俺の手を取った。


「……貴方が気に病むことなんて、少しも無いですわ。きっと私でも、そう思いますもの」

「ごめん、つまらない話を長々としてしまって」


 ミーシャちゃんは首をふるふると横に振る。


「私たち、やっぱり似ていますわね」

「どこが?」

「私も自分には力がないと、早々に諦めていましたわ。そしてどれほど研鑽を重ねたところで、周囲の称賛は得られないことに気づきましたの」


 自嘲を含んだ笑みを浮かべる。ミーシャちゃんは期待を受ける以前に、生まれによって期待される権利すらも剥奪されたのだ。俺よりもっと肩身の狭い思いをしてきたはず。俺は自分の努力で変えられたはずなのだ。ただただ努力が不足していた。ミーシャちゃんとは状況が違う。もし兄と俺が全く逆の能力であれば、俺はむしろ両親の寵愛を受けていただろう。

 そんな否定の心情を読み取ったのか、ミーシャちゃんは慮るような瞳でギュッと俺の手を握った。


「シノブ、貴方はちゃんとカッコいい殿方ですわ。ずっと見てきた私が言うのですから、間違いありません。こう見えて私、人を見る目には自信がありなますの」


 胸を張って、得意げな表情を見せる。俺は少しおかしくなって、自然と口角が緩むのを感じた。


「実は最初、貴方をお姉様に取り入った邪悪な人間とまで思っていましたの。でも武闘大会で私のために戦ってくれて、今日も私の居場所を守るためと言って一人で闘ってくれましたわ。私にとって貴方は、世界で一番、誰よりもカッコいい殿方ですわ」


 神々しいまでの後光を放ちながら、『恥ずかしいですわね』などと頬を赤らめ、告白めいた言葉を言い放つ。きっとそんな意図は無いのだろう。俺を励ますための慰藉の言葉に過ぎない。

 でも、それが本心であることも伝わってくる。心の奥底から勇気が沸々と湧き上がるのを感じた。


「この世界に来てから、俺、助けられてばっかりだな」

「それはお互い様、ですわね」


 ミーシャちゃんと顔を合わせて、軽快に笑い合う。底無しの闇から救い出してくれたミーシャちゃんに、俺はこれからも寄り添って、力になってあげたいと心から思った。

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