忍者やくしまる鍋焼きうどんのような物をつくる
「お疲れ様でした」
薬師丸チカコはタイムカードを切ると狭いロッカールームで白衣を脱ぎかけているかなり年上の先輩にぺこりとお辞儀した。
チカコの職場は駅そばの小児科の隣にある小さな調剤薬局だ。仕事終わりにスーパーに寄り、寒さで白くなった手をすりあわせながらアパートまで歩いて帰る。猫柄の黒いエコバックからネギの頭が顔を出す。うっすらと積もる雪にかわいらしいブーツの足跡が点々と残った。
微かにきしむ古ぼけた金属の階段で二階に上がり、アパートの扉を開けるとチカコはすぐにショートブーツを脱ぎ、白のロングダウンコートを壁に掛けてエコバックを床に置く。そして奥の部屋につながる扉にちらりと目をやると一息つく間もなく、まとめ髪をほどきながらするりと脱衣場を兼ねた洗面所へと消えていった。
ゆったりしたグリーンのシャギースカートとベージュのノルディック柄セータを脱いで、暖かいシャワーを浴びる。湯気が満ちる洗面所で手早く体と顔の保湿を済ませると髪をしっかり乾かした。曇った鏡には頬が火照ったメイクを落としてもなお唇がほんのり桃色のチカコの顔が映っている。花柄とレースがあしらわれた下着姿のチカコは大きな瞳を細めると、背伸びして洗面台の上の収納に両腕を伸ばした。
チカコは両開きの収納から真っ黒なジャージを上下取り出し速やかに着用する。そして完璧に乾いた長い髪をヘアゴムでくくり、黒いメタルバンドのツアーTシャツを一枚出す。チカコは丸い目を鋭くゆがませて鏡を睨み、シャツを裏表ひっくり返すと頭を突っ込んで襟口から顔を出した。完全に頭は通さない。ここがTシャツの忍者かぶりにおける一つのポイントだ。袖を頭の後ろで結び、首下で余っている布地を幾度か折り返すと鏡の前には忍者薬師丸が現れる。
薬師丸は音もなく短い廊下を歩き、合板が経年劣化で浮いた引き戸に手をかけた。
「オヤカタ様、ただいま戻りました」
そっと戸をずらすと薬師丸は膝をついた。オヤカタ様はつきっぱなしのエアコンの温風が程よく当たるカラーボックスの上にいる。その姿はカラーボックスの天板から尻がはみ出るほど大きな長毛の猫だ。白毛混じりのぽさぽさした黒毛。よくわからない道具……忍具がつまった木目調のカラーボックスの上で胸を張って座り、薬師丸を見下ろしてごろごろと喉を鳴らしている。
「薬師丸よ。指示した物はそろえたか?」
ふいふいとひげをゆらして喋ると、オヤカタ様は静かに畳の上に降りた。四畳半の狭い部屋の中にはエアコンと丸いちゃぶ台とカラーボックスしかない。いや壁に『薬学超越』と書かれた掛け軸が下がっている。
「は!ここに」
薬師丸は猫柄のエコバックから小麦粉や山芋、小瓶に入った粉状のスパイスいくつか、高麗人参を取り出し、ちゃぶ台に広げた。オヤカタ様は目をぱちぱちと何度か瞬かせると満足げに喉を鳴らした。
「よいよい。では今日は保存食の作り方を教えよう。ただの保存食ではない、一口食えば三日は寝ずに動ける上に風邪一つひかぬ」
にゃあにゃあと時折、猫言葉が混じる教えを薬師丸は必死に聞き取り、手順をなぞる。高麗人参と甘草と八角と山芋をフードプロセッサーにかけ、小麦粉とロイヤルマサラと魚粉を混ぜた物と合わせて日本酒で練る。名状しがたいにおいが漂い、オヤカタ様のひげはしおれたが、薬師丸は黒い覆面の下で涼しい顔だ。ジャージを肘までめくり、粘り気がある生地を力強く練っては潰している。頼もしい後継者の姿にオヤカタ様は満足げにまた喉を鳴らした。
オヤカタ様。今は猫の姿だが、以前は人であり高名な忍者であった。とくに薬学に秀でており、その手が作る軟膏は割れてしまった河童の皿ですら接着したという。一線を退いた後は里の長を務めたが、ある日老いを感じたオヤカタ様は忍道から外れ、自ら獣道に入った。そう猫として余生を生きることを選んだのだ。
山里を去り、街に降りて野良猫として生きて死ぬつもりであったが。
(才ある若者に出会ってしまっては仕方が無い)
薬師丸は背中を丸めて、ほんのり黄色い小麦粉ベースの生地をくるくると一口大に丸めている。
「よし!形になったな。そのままでは有毒ゆえ、あと数ヶ月寝かすのが肝要・・・・・・」
「お言葉ですがオヤカタ様・・・・・・生の小麦粉による消化不良でしたら加熱すれば問題ないと薬師丸は考えます。茹でましょう」
にぃ!とオヤカタ様は感嘆の声を漏らした。薬師丸はオヤカタ様に一礼すると中央が少しくぼんだ小麦粉団子がのった皿を持ち、三口コンロの前に向かった。オヤカタ様はふさふさした尻尾をゆらして後を追うが、台所の冷気にひげが震え、扉の前でピタリと前足をとめてしまった。
カレーを作るような鍋に水をはり沸騰させ、薬師丸はポンポンと団子を投げ込む。洗ったネギをざくざくと斜めに引き切りし鍋に入れると、薬師丸は少し首を傾げてから冷蔵庫を開けて透き通ったささみを三枚取り出した。これも斜め切りすると二枚分と半分だけ鍋に入れた。
「オヤカタ様、夕餉に茹でささみはいかがですか?」
「もらおう!」
薬師丸はぐつぐつと煮えて不思議なにおいをまき散らす鍋の隣に水を入れた小鍋を置くとコンロのつまみをひねった。
戸口で胸を張って座っていたオヤカタ様が畳に手足を伸ばしてまどろみ始めた頃、薬師丸は赤味噌を取り出し、鍋の中のお玉の上で味噌を溶いた。オヤカタ様のささみはすでに小皿の上で冷まされている。
薬師丸は梅模様の小皿をもう一枚取り出すと、つやつやにゆで上がった団子と赤味噌ベースのスープを少しよそった。Tシャツの黒覆面をずらすと柔らかい唇をそっと小皿に寄せる。スパイスと赤味噌汁が混ざった味は変わり種のカレーと言えなくもない。続いて小麦粉団子を噛んでみる。主成分だけならうどんも同然だ。
「うえ」
チカコは小さくうめいた。その味はまるで小麦粉と一緒にカレー粉と風邪薬を混ぜて練り上げた苦いすいとん。とにかく不味かったということだ。
おわり
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