蜘蛛女とゲーマーのダンス

 九月一日。二学期の始まり。教室の窓際に椅子の無い席が一つ増えていた。


 もうすぐ朝礼だというのに教室はざわざわと喋り声でうるさい。日に焼けて登校してきた生徒たちはみなどこか浮ついている。そんな中、吉野美弥は机に突っ伏して居眠りをしていた。吉野の夏休みはゲーム三昧で最終日も高校生が追い出される18時ぎりぎりまでゲームセンターに入り浸り、帰宅しても遊び納めとばかりに明け方までコントローラーを離さなかった。長い夏にもかかわらず日の下で一切遊ばなかったので、短い髪の合間から見える耳たぶも首もスカートから伸びる足も一切日焼けの跡がない。


 白髪が多い初老の担任が教室に入ってきても吉野は気が付かずに眠っている。担任の後ろに続いて静かに入ってきた転校生の姿にクラスメイトが全員凍りついても、吉野は夢すら見ない深い眠りの中。


「ミソネさんはお父さんの仕事の都合で地獄から引っ越してきました。仲良くするように」


 初老の担任の低くかすれた声が静かな教室に漂う。二年三組一同、誰も一言も声を発しなかった。地獄から来た転校生は美しい少女だったけれどその足は人間のそれではなかった。学校指定のブレザーのスカートから、黒い靴下を履いた細い八本の脚が伸びている。


「時地ヶ原ミソネです。よろしくお願いします」


 ぺこりとお辞儀するとミソネの腰まで伸びた真っ黒な髪がつややかに光をたたえながら華奢な肩を滑り落ちる。そして人形のような長いまつげに縁取られた瞳でぱちぱちと瞬きする。淡い紅色の唇。まるで映画の中の女優のような美しさ。しかし、優雅な上半身と違って、下半身からは靴下越しにもわかる硬く冷たそうな異形の脚が伸びている。八本の脚はかすかに震えて小さく足踏みしたり、足同士をぶつけあったりしている。


「ミソネさんの席は吉野君の隣だ・・・・・・おい吉野!起きろ!」

「わ!ごめんなさい!」


 吉野は反射的にあやまり、ばね仕掛けのように立ち上がった。教室の一番後ろの教卓から見て左から二つ目の席。ミソネは吉野の方に顔を向けるとゆっくりと右に首をかしげ、すいすいと八本の脚を動かして机と机の間を歩んでくる。陶器のように真っ白な手をスカートの上に重ねて置いて、その姿は下半身さえ見なければ正座のまま平行移動しているようにも見えた。吉野は事態が飲み込めず、きょろきょろとあたりを見回す。吉野の右隣の窓際には椅子がない机が一つある。夏休み前にはなかったものだ。変だなとは吉野も少し思っていたが、睡魔に負けて関心が薄れていた机だ。


「よろしくお願いします」


 ミソネは吉野を見て唇の両端をあげると、ちょうど腰が席に着くような高さになるように机の前で脚を器用に折りたたんだ。一人立ち上がったままの吉野はペコリとあいまいに頭を下げると脱力するように席に着く。ガタンという尻が椅子に衝突する音が静かな教室に響いた。



 地獄から来た転校生の話はあっというまに学校中に広まった。休み時間になれば他のクラスからも生徒がやってきては無遠慮に窓越しのミソネの姿を眺めてはざわざわと何かを話しあっている。当のミソネはそちらに顔を向けることもなく、国語の教科書のページを無表情でめくっている。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を黙読し眉一つ動かない。隣で座っている吉野の方が生徒たちの好奇心にあふれた視線に耐えられず、ついに席を立った。

教室の扉を雑に開けると扉の向こう側に張り付いていた何人かの生徒が慌てて左右にはけた。その合間からニヤニヤ笑った坊主頭の少年が吉野に肩をぶつけてきた。


「なあ吉野。あいつに話しかけてみろよ」

「……うっさい」


 むちむちとした小太りの矢野は腹を突き出して笑う。吉野と矢野、小学校からの幼馴染で家も近くけっして仲は悪くないが、時々うざがらみをしたり突っかかってきたりしてうっとうしいと吉野は思っている。吉野は矢野の肩をパンチするが、小柄な吉野のこぶしなどでは大柄な矢野は揺るぎもしない。ニヤニヤ笑いがむかついて、吉野はわざと矢野の足を踏んで教室から離れた。



 残暑もあっという間に過ぎ去る。十月も末。吉野は立てた教科書の影で大あくびした。目を閉じればまぶたの裏側に宇宙が広がる。それは昨日の晩、遊んでいたしていたシューティングゲームの画面だ。

しばらく目を閉じて宇宙を飛び回ったが、うっかり眠ってしまいそうだったので隣のミソネに目をやった。ミソネは大きな瞳で瞬きもせず黒板を見つめ、手元のノートにシャーペンを滑らせている。きれいな文字だなと吉野は思った。まるでプリンターから出力される活字のようだ。

ミソネはほとんど喋らない。何時も静かにクラスの隅の席にいて、休み時間でも一人で教科書を読んでいる。給食の時間も一人だ。みんなと同じ給食は食べずに、持参してきた漆塗りの高そうな重箱から何か黒いクッキーのような物をつまんでは食べている

蜘蛛の下半身は奇妙だが静かで存在感のないミソネ。クラスメイトはすっかりその存在に飽きていた。もはやわざわざ教室まで様子をうかがいに来る者もいない。

ミソネの顔をぼんやり眺めていた吉野はそのまま視線を下げ、ミソネの黒いソックスに包まれた脚を眺める。その足先は人間とは違って細く、尖っている。


(ジョロウグモかな……)


 住んでいる団地の階段先の暗がりなどによく巣を作っているジョロウグモの姿を吉野は思い浮かべた。すいすいと細い脚を動かし、踊るように糸で編まれた巣の上を自在に歩き回る蜘蛛の姿。その姿。

 ミソネの姿を目にした時から吉野は一つ気になっていたことがあった。それを確かめるには声をかけて遊びに誘わなければならない。しかしミソネの浮世離れした雰囲気に気圧され、吉野はもう二ヶ月近くも声をかけそびれていた。

 吉野は息をつき、筆箱の中からサイコロを一つ出した。これは吉野なりのおまじないだ。


(サイコロ振って一が出たら、絶対今日話しかける)


 小指の先ほどのサイコロを吉野はそっと転がした。



 放課後を告げるチャイムが鳴ると、ミソネはさっさと教科書と筆記用具を鞄にしまって地面を滑るように教室を出て行く。吉野は慌ててゲーセンで取ったキーホルダーや缶バッチまみれの鞄に教科書やノートを雑に詰め込んでその姿を追った。

 廊下の窓から差し込む夕暮れの陽光と天井の蛍光灯の明かりを受けてミソネの八本の脚がつやのある廊下に複雑な影を作り出す。部活へと向かう生徒や帰宅する生徒がミソネの横をすり抜けていく。


「ミソネさん!」


 ミソネの脚がぴたりと止まる。ミソネは上半身をひねり吉野を見下ろした。吉野は息を呑む。蜘蛛の下半身に乗ったミソネの上半身。頭はほとんど天井につきそうだ。


「どうかしましたか?」


 ミソネが右に首をかしげる。その声は想像したよりも冷たくはなく、吉野は内心ほっとした。


「あの、今日ヒマ?一緒に来てほしい場所があるんだけど……」


 隣の席にもかかわらず、ミソネとはほとんど会話らしい会話すらしたことがない。緊張のあまり、吉野の顔は紅葉のように赤くなっていった。


「……」


 唐突すぎたかな、と吉野の心臓の鼓動がきしむ様に早くなっていく。


「ごめん……急だよね。忘れて!」

「どこに行けばいいのでしょう?案内していただけるのですか?」

「いいの?!」

「はい」



 がががと不快な音を立ててボロい自動扉が左右に開くと、薄いタバコの臭いと安い消臭剤の香りと微かな埃っぽさが混ざった臭気が溢れてくる。吉野は嗅ぎなれたにおいに肩の力を抜いた。

 格闘ゲーやにレトロシューティングゲームの筐体が広いフロアに迷路のように並んでいる。それに目を引くレーシングゲームの大型筐体、かわいいぬいぐるみや駄菓子が詰め込まれたクレーンゲーム。吉野が小遣いを握りしめて訪れるゲームセンターには新作からレトロゲームまで幅広くそろっている。そして、それらがそれぞれ好き勝手に音と光をまき散らしている。


「ごめんね。うるさい?」


 吉野は声をはった。そうしないとミソネの耳に声が届かないからだ。ミソネは首を左右に振った。


「いいえ。地獄よりは静かですよ」

「そっか」


 ミソネは吉野の背丈に合わせて蜘蛛の脚を曲げ、吉野に手を引かれてゆっくり歩いている。客たちは一瞬、ミソネの姿に驚いた顔をするものの、すぐに目の前のゲーム筐体に目線を戻す。


「これこれ。あのさ、ミソネさんにこれをやってほしいの」


 吉野は一台の大型筐体の前に立った。激しいトランスミュージックに合わせて筐体の足下のタイル状のパネルが点滅し、大型モニターの中では荒いポリゴンでモデリングされた露出が激しい女とドレッドヘアのサングラスの男が激しく踊っている。


「何をすればいいのですか」

「えっとねこれは音楽に合わせて踊るゲーム。まあ一回見てて」


 吉野がモニターの下のスリットに百円を滑り込ませると、ファンファーレと歓声が鳴り響き、足下のパネルが交互に点滅し始める。吉野は慣れた様子で足下のパネルを何かの順番に踏んでいく。するとまばゆい光を放つモニターの中のカーソルが上下に動いた。パネルはスイッチだ。流れる文字列……膨大な曲名の中から吉野はお目当ての曲を選び出す。


「ライク ア スパイダー。これこれ!」


 吉野はぴょんと跳んで、二枚の光るパネルを踏んだ。これが決定ボタンがわり。画面の中ではアニメ調にデフォルメされたピンクの蜘蛛がぴょんぴょん跳びはね、アジアンで明るいダンスナンバーが流れる。吉野は軽く膝を曲げると曲に合わせてランダムに光るパネルをリズミカルに踏み始めた。

 ミソネは瞬きもしない黒めがちな瞳でぴょんぴょんと光るパネルの上を跳ね回る吉野をじっと眺めている。曲のBPMが早くなるにつれ、ミソネの八本脚が床をトントンと叩き始めた。ミソネは不思議そうに右に首をかしげた。吉野が曲の最後の音にあわせてパネルを思い切り踏めば、画面にはパーフェクトの文字。吉野はミソネに向かって右手を振って見せた。


「よし!フルコンボ!ミソネさん!」

「はい」

「やってみよう!」


 ミソネはまた首をかしげる。しかしすっと脚が動き、吉野と入れ替わりでパネルの上に立った。


「とりあず同じ曲で……あ、光ってるパネルを踏めばいいから」

「はい」

「じゃあ、いくよ・・・3、2、1」



 つややかな黒髪がミソネの足さばきに合わせて美しい曲線を描く。ミソネはさっきから同じ曲ばかり、『ライク ア スパイダー』を何度も踊っている。


「やっぱり」


 吉野は近くのベンチに腰掛けてふふと笑みを浮かべた。蜘蛛の八本脚が人の二本足なんかより精密に美しくリズムを捉えている。それは一部の無駄もない、蜘蛛が巣にかかった獲物を捕らえる動きだ。吉野が予想通り、蜘蛛のミソネにはダンスのセンスがある。


「吉野さん。ミソネはうれしいです。たのしい」


 踊り続けながらミソネは器用に腰をひねって吉野を見つめた。そして陶器のように真っ白な手が硬い外骨格に包まれたひざ下に伸び、細い指先が真っ黒な靴下の先をひっぱって、一本一本足先を隠す布を引き抜いていく。


「あ……」


 吉野の口から声が漏れる。まるで線路の遮断機のバーのような鮮やかな黄色と黒の縞模様の足がスカートの中で揺れている。吉野はもうミソネから目を離すことが出来なかった。


 ミソネは両腕を吉野に向かって伸ばす。


「吉野さん、ね、一緒に踊りましょう」


 吉野はふらふらと立ち上がった。


おわり

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