ぼくはいぬー
やばいやばいやばい。そう呟きながら七尾8000号は汚泥でいっぱいの狭い通路を泳ぐように遅々と進んでいる。
七尾8000号は人間だ。七尾家の8000番目の男。先日、祖父の七尾7564号が大往生したので七尾家の最後の人間になった。
(ハッセン!変なところに潜り込むのはよしたがいいよー)
「うるさい!もう手遅れだ!」
8000号の耳に届く声は膨らんだ防塵防水ジャケットの中からきこえる。七尾8000号にしか聞こえない声。
(地上にもどろう〜♪地上がすき〜♪ぼくは地上が大好き〜♪かわいてるいし〜♪空気もおいしい〜♪)
「あーーー!!やめろやめろやめろ!」
七尾8000号は狭く汚ない地下通路で一人で喋っている。そうひとり。七尾8000号はひとりだった。
8000号はヘルメットに取り付けられたヘッドライトで狭い通路を照らす。よく見ると通路の左右は壁ではなくシャッターだ。何か良いものが中に入ってるかもしれない。8000号はシャンシャンとシャッターを叩いてみた。物資は大事だ。ここは地下に埋もれてもう300年近く放置されている建物なので食べられるものはないだろう。しかし生活に役立つものはあるかもしれない。
(すんすんすん!いいものがほしいね!)
またポケットの中から声。七尾8000号はポケットの上からそれを撫でた。ぎゅむぎゅむと柔らかい感触。8000号の相棒は湿気に弱い。そしていつでも陽気だ。
「多分何かの店だったんだろうなここは。シャッターをこじ開けてみる」
(きをつけて!何が入ってるかわかんないー)
七尾8000号は父からもらった紺色のバールの先をシャッターの隙間にねじ込み力をかける。少し隙間が広がる。さらにバールの先をねじ込み七尾8000号は体重をかけた。
「ぐっ!」
腹の底から漏れた声。シャッターは変形し、大人の腕が入る程度の隙間ができる。七尾8000号はバールを隣のシャッターに立てかけるとヘッドライトの光をポッカリ開いた闇の穴に差し入れた。
七尾8000号は眉毛を寄せて目を細め、鼻から深い息を吐く。がっかりした様子だ。
(しゃしんーしゃしんー)
光の届く範囲には写真の束や人間の形をしたアクセサリーような小さな装飾物しかない。七尾8000号が歴史学者であれば300年前の平和な時代を知る手がかりに小躍りしたかもしれないが、残念ならが8000号は明日のメシにも困っているサバイバーでしかない。
「クソっ!」
七尾8000号は苛立ち混じりにバールでシャッターを殴った。
(わん!!)
犬の声だ。七尾8000号は驚きおびえる。野生化した犬は人間にとって致命的な生き物だ。こんな狭い通路で出くわしたら骨の髄までしゃぶられるだろう。8000号はバールを握り、柔らかく膨らんだポケットを庇うようにシャッター側にむける。
(ハッセンこわいよー)
「静かにしてろ」
どうせ誰にも聴こえない声だが、8000号はたしなめる。しんと静まり返った暗い通路。七尾8000号のこめかみにぬるい汗がつたった。
(わん!わわん!!わん!だれだ!だれかいるのか!)
七尾8000号はバールを取り落とした。声は背後から……シャッターの中から聴こえる。犬ではない。犬はしゃべるものではないからだ。
「……」
取り落としたバールを拾い上げ、七尾8000号はシャッターの隙間に再びそれを突き立てる。塗装が禿げかけた金属の棒に全体重をかけた。シャッターがひしゃげ、バランスを崩して尻もちをついた8000号の上に覆いかぶさる。
(わん!ひかり!ここが東京ドーム?!)
崩れた写真が一瞬の花吹雪をつくる。ぽてん、と二重のビニールに包まれた柔らかいものが七尾8000号の上に落ちてきた。分厚いグローブでそれをつまみ上げる。
「いぬ」
白くて耳が長い犬のぬいぐるみ。なぜか学生服と呼ばれた服を着ている。大きな目、ペロリとはみ出た舌。
(いぬじゃない!シロナツだ!わん!わん!)
わんわんと怒り狂う声が確かに七尾8000号の耳には届いてる。この地に残されたぬいぐるみはなぜか8000号に話しかけてくる。祖父が死んでからそうなった。
(つれてこう!つれてこ!ここはさびしいよー♪)
ポケットの中からも声。
(そうだそうだ!ぬいぐるみは人間といるものだ!)
(いっしょにいこう)
(みんなでいると楽しいよー)
七尾8000号のバックパックがきゃいきゃいとにぎやかになった。8000号があちこちでひろったぬいぐるみが口々に歌ったりしゃべったり。8000号はビニールパックに詰められたいぬを検分する。小さなシールには『中古800円』と古い文字で書かれているが8000号には読めない。
(シロナツはあゆむが迎えにくるのをまってる。いかない)
口も動かないのにぬいぐるみはよくしゃべる。本当にしゃべってるのだろうか?8000号はうっすら自分が発狂しているのではないかと疑っている。
「……外で探したほうがいい。ここで待っててもこないと思うぞ」
(わん。シロナツはあゆむと東京ドームにいく)
「……東京ドーム?」
(ゆめの場所。いぬともだちもいっぱい。わん)
「そこに行けばいいのか?」
七尾8000号は首をかしげる。どうせ時間はたっぷりあった。空腹でくたばるか、野犬に齧られない限りはずっと自由時間だ。8000号はビニール袋に包まれたいぬをポケットにねじこむ。先住のチンチラのぬいぐるみが悲鳴をあげた。
(シロナツはあゆむと新幹線できた。駅ではぐれてしまったんだ……わん)
タイヤをキャタピラに置換した軽トラは七尾家の長子にのみ乗る資格が与えられる聖なる乗り物だ。七尾家は8000号をのぞいて全員死んだのでもう権威はないが。
助手席の真ん中にちょこんと転がるシロナツはポツポツと語る。
(しんかんせんてなにー?)
平和な顔をしたチンチラのぬいぐるみがのんびりとシロナツと七尾8000号に問いかける。
(はやい電車!)
「はやい乗り物だ」
七尾8000号は新幹線も電車も見たことがない。そもそも動いている乗り物は今乗っているこのキャタピラ付き軽自動車しか知らない。濃い緑の蔦や木々に潰された乗り物の残骸をたまにみることはあるが。
(東京ドームでホンモノのライブをみたいぬはほんとうの魂をもらえる……いぬはしんじてる。わん)
「……」
砕けたアスファルトに乗り上げ車両が激しく揺れる。ぽんぽんといぬは座席の上で跳ね飛んだ。
東京ドームと呼ばれる建物。苔と木々に飲み込まれているがその特徴的な曲線はとても目立つので本来の役目が忘れ去られても避難民の拠点として長らく機能していた。今は誰もいない。
(だれかいますかー♪だれかいますかー♪あゆむちゃんをさがしてます〜♪)
ポケットの中なかでチンチラのぬいぐるみが歌っている。いぬのシロナツは反対側のポケットで黙りこくったままだ。七尾8000号は朽ち果てたベンチの合間を慎重に進む。時折ブーツの下で何が硬いものが砕ける音がした。
「あゆむちゃーん」
七尾8000号はおそるおそる声を出してみる。ぬいぐるみのチンチラの声があゆむちゃんとやらに聴こえるかわからないからだ。
「あゆむちゃーん」
声に出しながらも七尾8000号はどんどんと不安になっていく。何しろ人間なんて早くに死んだ父の朧げな輪郭と大往生した祖父のシワシワな輪郭しか知らない。母の顔は見たことがない。あゆむちゃんとやらがどんな形なのがわからない。
トボトボと歩くうちに七尾8000号はドームの中央まで来てしまった。マウンドは背の高いイネ科の雑草で覆われている。破れたドームの天井から砕けた月がまばゆく海のようにゆらめく草原を照らしている。七尾8000号はじっと夜空を睨む。ふいにいぬのシロナツがしゃべりだした。
(わんわんわ。すてきなライブは終わっちまった……だからあゆむはここにこない)
「そうか……」
別の場所をさがそうか、そう言いかけた。
(おまえ踊れるか?うたえるか?)
「は?」
(踊れて歌えるか?)
「いや……」
(どこかに行ってしまったみんなを探して!ライブをやるんだよ!!わんわんわん!!)
(やまだはうたえるよー)
わんわんわわ!といぬのシロナツがほえる。のんびりとぬいぐるみのチンチラがしゃべる。
七尾8000号のながいながいひとり夢者修行の旅が始まった。
おわり
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