第6話 足跡


 ついていないときには、追加でついていないことが起きる。マーフィーの法則ではないが、私は確実にそうだと言える機会に遭ったことがある。

 あれは大学院生1年目の夏休みだった。その時は私は実家に帰っていたが、用事があって大学まで行くことになった。予想以上に時間がかかってしまったために出るのが夕方になってしまい、疲れていたのもあって今日は部屋に泊まって明日帰ることにした。帰省する前に掃除をして、生ものや賞味期限が近いものはすべて消費していたので、近くのコンビニで適当な物を買って部屋へと向かった。

 そうして部屋のドアを開けた瞬間に私は異様さに気づいた。ものすごい湿度だった。まるでサウナか温室に入った時のような。後で知ったのだが、3日前に真上の部屋でひどい漏水があったのだ。そのせいで、真下にあった私の部屋は湿度100%の環境になっていた。

 密閉された部屋が、真夏に超高湿度になって3日も放置されれば、何が起こるかは誰でもわかる。私の部屋は冗談抜きで腐海になっていた。

 ありとあらゆる物の上にカビが繁殖していた。寝具、水回り、歯ブラシ、食器、衣服。ほんのわずかでも栄養源となる有機物が付着していた物は、全てカビのベッドになっていた。その時の様子は、今でも思い出すたびに憂鬱になる。ドアを開けたら、そこは腐海でした。映画にするなら最悪の展開だ。

 ドアを開ける瞬間まで抱いていた、疲れたとか何時ごろに買ってきたものを食べようとか言う思いは一瞬で消し飛び、パニックになりかけた。それでも何とか状況を把握し、カビに侵された物を捨て、表面の有機物に繁殖しただけの物はふき取り、何とか部屋を(表面的には)正常な状態に戻した。発見が比較的早かったことが幸いしたのか、それとも浸食されやすいものが少なかったからなのか、カビが深く食い込んで取れなくなっていたものはなかった。布団のシーツはダメになったが、中身は無事だったのは意外だった。

 カビの生命力というか繁殖力はすさまじい。ゲームのコントローラーやカメラにも指の形にカビがついていたのには仰天した。それらを持った時についた手垢やわずかな皮脂を栄養にしてカビが育ったのだ。冷蔵庫の取っ手やベッドの近くの壁紙にもカビの手形がついているのには恐れ入った。


 真夜中までかかった人生史上最悪の掃除を終え、買ってきたものを食べる気力もなくしてシーツの無い布団の上に転がった。明日の朝一で管理会社に電話しなくてはいけない。ああちくしょう、なんでこんな目に……。そう思いながら無気力に天井を眺めていると、天井にも何かついているのが見えた。

 はびこったカビの大半は白カビだったので、白い壁紙の上に生えていても気が付きにくかった。壁はチェックして全て拭き取ったが、天井は盲点だった。まだやらないといけないのかとウンザリしながら雑巾とカビ取り洗剤をまた出そうとしたとき、おかしなことに気が付いた。

 カビが育つには栄養がいるが、壁紙自体は栄養にならないせいか、私が手を触れたことがない部分にはカビが生えていなかった。天井に触ったことはない。なのに、なぜかカビが繁殖している。

 もしかしてカビじゃないのでは?と思って、電気をつけたうえで懐中電灯を持ち、ベッドに立って天井をよく観察してみた。

 生えているのは確かにカビだ。一か所にまとまっているのではなく、幅10㎝、長さ20数㎝の、奇妙な形をしたスタンプをいくつも押したような形で天井に生えている。何だこれはと考えていると、その形が意味する物を理解した。

 

 誰かが裸足で歩きまわったかのように、天井に足跡がついている。目では見えないが、残された栄養をむさぼったカビによって形が明確になった。

 私はゆっくりと周囲を見回したが、当然ながら何も見えなかった。少なくとも人間の目には。

 それから乱暴に天井のをふき取って、必要な物を回収して部屋をでた。天井を掃除しているときに、何か見えない物に接触することもなかったと思う。その日は何とか見つけたホテルに泊まり、翌日に管理会社に連絡して保障してもらう手はずもつけた。

 実家に帰ってからすぐに次の部屋を探す手はずを整え、前の部屋には荷造りをする時だけ戻って、夏休みが終わる前に引っ越した。

 次の部屋では、天井に風鈴を下げた。それから何度か引っ越しをしたが、現在もその習慣は続いている。風もないのに風鈴が鳴ったことはまだない。

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