火星の秋子

氷川省吾

風呂は2億3000万km彼方に

第1話 風呂は2億3000万km彼方に①

「お風呂に入りたいの」

 唐突に発せられた言葉に、食卓に着いていた5人の動きが止まった。皆の視線が、言葉の主である小川秋子に向けられる。

 秋子の視線は真剣そのものだった。長らく日光に当たっていないせいで陶磁器のように白くなっている肌と、切れ長の目の中で光る黒曜石のような瞳のコントラストが目を引く。

 そして今はその目が据わっていた。


「……秋さん。どうしたんです、いきなり?」

 向かいに座っていた長池誠が口を開いた。この場にいる6人のうち、秋子と誠が日本人で、後は世界中のいろいろな国から集まっている。

「限界なのよ。風呂なしの生活は」

 秋子はそう言って、箸で皿に乗っている魚の背骨をへし折った。今晩のメインディッシュであるティラピアのバジルトマトソース煮。トマトソースの中に残ったティラピアの骨が2つに分断された。

「いや、そういわれても……。ねえ、班長」

 誠はそう言って、メンバーのリーダーを務めるジャック・アンドレの方を見た。フランスの生まれの伊達男で、年は秋子や誠らより15ほども上だ。

「タオルで体をふくときにお湯が使えるだけで十分だろう。半世紀前なんか、それさえできなかったんだから」

 諭すように言うジャックの方を、秋子はじろりとにらみ、魚の頭をつまみ上げた。秋子にとって、年齢の違いは言うことを聞く理由にはならない。

「フランスなんか王宮にだってトイレも風呂も作らなかったでしょ。そんな国の人間ならそう思うかもしれないけど、日本人は違うのよ。入らないのが異常なのよ。500年前から毎日入るのが普通だったんだから」

 そう言って魚の頭を口の中に放り込み、丸ごとかみ砕いて見せる。威勢の良い音が響いた。


「日本は軍隊が野外用風呂を装備しているんだったっけ? 軍艦にも風呂があったよ」

 アレックス・ボーンが手の中でフォークを回しながら笑って見せた。アメリカ海軍で勤務していた時に横須賀にいたことがあるせいで、その辺の事情はよく知っている。

「素敵じゃない。あったら私も入りたいわ」

 香港から来たシアン・メイは肯定的にみている。彼女は地質と採掘の専門家だった。二人だけの女性メンバーなので、秋子とは奇妙な連帯感がある。

「そう、入りたいの。誠ちゃん、日本人ならわかるでしょ」

「そりゃあ、入れるなら入りたいけれど……」

 ここではねぇ。話を振られた誠は、そう言いながら上を見た。

 ゆるくカーブを描いた白い天井。風呂がある世界はそこからさらに遠く、今のところは2億3000万km彼方にある。後1年たてば8000万km程度に近づくが、それでも遥か彼方だ。

「ここが火星だからって関係ない。私は風呂に入りたいの。それですべてなのよ」


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