Ⅵ
「リリス様、
玉座の間に踏み込んできたのは、猛牛の頭を持つ、ミノタウロスの屈強な戦士・アステオだった。
厚い筋肉の鎧に包まれた体も、歪曲し天に向かって生える角も、ゼオギアより二回りほども大きい。その体にも角にも、無数の古傷が刻まれている。
リリスは、歴戦の部下に向かって、何も問題ないと答えようとした。しかし先程の驚愕が後を引き、口をパクパクと動かすばかりで言葉が出ない。
アステオは女王に迫る若い戦士を眼光鋭く睨みつけると、巨大な斧を担いだまま、地響きのような重い足音を響かせ詰め寄っていく。
「おのれ若造、やはり王の座を狙うか……! リリス様に手出しはさせん!!」
女王を慕う重臣の一人であるアステオは、荒い鼻息をつくと、巨大な身の丈に相応しい大斧を振りかぶる。
同時に、リリスの前で跪いていたゼオギアはゆっくりと立ち上がり、巨漢と正面から対峙した。
斧が勢いよく振り下ろされ、若い戦士の脳天を割る――その寸前。
ピタリと動きが止まる。ミノタウロスの眼が大きく見開かれた。リリスもまた、息を呑んだ。
ゼオギアは眉ひとつ動かさず、指先のみで斧の刃先を摘んで受け止めていた。舞い落ちてきた花びらでも捕まえるように。
「き、貴様ッ……!?」
揃えた指先に刃の一箇所を挟まれているだけだというのに、アステオが斧を押そうと引こうと、微動だにしない。
戦況の判断にも長けた将として、アステオは目の前の、自身より遥かに小柄な戦士が、格上の相手だと瞬時に悟った。
日除けの布でも捲るように斧を軽々と持ち上げながら、ゼオギアは巨躯の懐に入るように大きく一歩踏み出した。
アステオの全身に緊張が走る。
「美しい……」
「「……は?」」
感嘆に浸る呟きと、惚れ惚れした表情に、リリスとアステオ、どちらの口からも気が抜けたような疑問符がこぼれる。
筋骨隆々とした牛頭の戦士を見上げるゼオギアの眼差しは、先程リリスを見つめた時と全く同じ。深い敬愛に満ちていた。
「名将アステオが歴戦の勇士であることは知っていたが、こうして間近で見るその姿の、なんと雄々しく猛々しいことか。稀代の彫刻家が彫り上げたかのような、均整のとれた逞しい肉体……王の覇道を切り拓くため、極限まで己を鍛え抜いたのだと、見るだけでわかる。その体を彩る傷痕も、紛れもなき忠誠心の証であり、勲章。さすがはリリス様を長きに渡って支えた猛者……素晴らしい」
羅列される賞賛は、やはり女王に向けられた囁きと変わらない熱を帯びていた。アステオは途中で遮るのも忘れて、牛の口をぽかんと開けていた。
やがて、ゼオギアは決めた、とばかりに大きく頷く。
「俺が魔王となった暁には、貴公が欲しい」
「!!??」
アステオは激しく動揺した。その言葉にだけではなく、己を見つめる金の瞳に。
その熱に浮かされた眼差しが、雄弁に物語っていた。彼の言葉の全てが、戯れでも挑発でも悪い冗談でもないことを。
そして、先程示された実力をもってすれば、己を屈服させることなど容易いということもわかっていた。
「ま、待て……私にも、将として立場というものが……それに、妻と子どもたちも……」
動揺のあまり言い訳するように口走りながら、アステオは後ずさった。刃はとっくに手放されているが、再び斧を振り下ろすことは頭にない。
後ずさった分、またゼオギアが踏み込んで距離を詰めてくる。
「ほう、そうか。さぞ魅力的な細君と、可愛らしい子どもたちだろう。貴公は良き夫、良き父でもあるのだな。ますます素晴らしい……わかった、家族ごと引き受けよう」
「なっ!?」
家族にまで目をつけられて、アステオの気勢は一気に崩れた。屈強な全身をぶるりと身震いさせる。
「よ、よせ! 家族には手を出さないでくれ……わ、私ならば、何をされても構わぬから……!」
野太い声に悲痛の響きを込めるミノタウロスを、ゼオギアは慈しみを込めて見つめながら、抱き締めようとするように両腕を伸ばす。
「可哀想に……そのように怯えることなど何もない。非道な真似は一切しないと約束しよう。貴公も、貴公の家族も、まとめて俺が――」
「ちょちょ、ちょっと待つのじゃ!!」
このままでは泣きが入りそうなミノタウロスを見かねて、我に返ったリリスが急いで口を挟んだ。
「アステオ、下がれ! わらわが扉を開けるまで、
リリスは、この得体の知れない男に部下を近づけてはならないという直感のもと、そう命じた。
かくして人払いがなされ、玉座の間はリリスとゼオギアの二人きりとなった。
そして、リリスがうっかり「おぬしは誰でもあのように口説くのか?」と訊いてしまったばかりに、当時ゼオギアが認識している魔族ひとりひとりについて、彼らの魅力と、彼らをいかに愛らしく想っているのかを、延々と聞かされ続ける羽目になった。
結果、彼の談義を聞き届けるまで丸三日を要し(本人はまだ全てを語りきれていなかったそうだが)、リリスはこれまでの長い人生で経験したことのない類の疲労感に苛まれつつも、ゼオギアという男についてどうにかこうにか理解した。
何のことはない。
少女の姿をした老王だろうと、筋骨隆々の戦士だろうと、老若男女、美醜、人型・異形の区別なく――彼は全ての魔族に深い愛情を抱いている。それだけのことだった。
ただ、その愛情には、欲や劣情を伴うことがない。
ある時は優れた存在に対する敬意であり、ある時は小動物や幼な子に対する慈しみであり、ひたむきな姿を支えたいという想いでもあった。
そして共通していることは、彼らへの強い庇護欲だった。
「歴代の魔王に誓う。俺がこの魔界を――貴女も、他の皆も、守ってみせる!」
丸三日語り倒したにしては気力を保ったままの(むしろ、なぜかどんどん生き生きしていく)ゼオギアは、力強く宣言した。
対して、ぐったりと玉座にもたれかかりながら、リリスは疲弊しきった頭で考えた。
自身が王の座を退く以上、後を継ぐ者は必要だ。それなりの猛者でなければ困る。
ゼオギアの実力は、間違いなく当代随一。彼女が産んだ子どもたちであろうと、他の魔族であろうと、敵う者はほぼいないと見ていいだろう。
魔族たちを想う深い愛情も、上に立ち導く者にあって困るものではない――たとえ、多少行き過ぎた部分があったとしても。
ならば、申し分ないではないか。
というか、引き下がる気もなさそうだし。正直もう疲れたし……。
こうして、魔王の座はリリスからゼオギアへと引き継がれた。
ただし条件として、ゼオギアの過剰な愛情表現を抑えるため、リリスは王妃という名目でお目付け役を申し出た。
ゼオギアが先代魔王を口説き落としたと言う噂は、ある意味、正しかったわけである。
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