「ち、ちくしょう! もう少しだったのに……!」


 森の中を駆け抜ける影がひとつ。

 その顔立ちこそ、黒々とした髪と三白眼が特徴的な以外は人と変わらない、二十代半ばの小柄な男。

 しかし、盗賊のような身軽な装いに包まれたその体には、人間とかけ離れた箇所がいくつもあった。

 尖った耳、口元から覗く鋭い牙に、鱗の生えた長い尻尾。

 最も目を引くのは、二本の脚。腿から先を獣の毛に覆われ、爪先には蹄――それは、山羊の脚だった。地を蹴り跳ねるような独特な駆け足は素早く、並の追手を寄せ付けない。


 魔族軍の 斥候せっこう・ギギラ。魔力こそ大したものではないが、人に変身して紛れ込み、偽の情報や不和をばら撒いて内側から戦力を削ぐことを最も得意とする、卑劣な男だ。

 今回も、代々勇者に強力な武器をつくってきた伝説の鍛冶屋一族の村へ潜り込み、武器を作らせないよう村を混乱に陥れるつもりだった。

 だが、到着した勇者一行はいち早くその企みを察知し――


「うッ…!?」


 木立の間を縫うように駆け抜けていたギギラの腿に、矢尻が突き刺さる。魔族特有の青い血が飛び散った。


「やはりな。予想通りの動きだ」


 大木の太い枝の上に、フードを被った人影が佇み、構えた弓を下ろす。

 魔族軍の中で一番の逃げ足を誇る斥候に追いついた――正確には、行く手を読んで先回りしていたのは、弓の名手・ロビンだった。


 ギギラは咄嗟に木影に身を隠し、すぐさま脚から矢尻を引き抜く。


「チッ、こんなもんで仕留めたつもりか――うわっ!?」


 再び駆け出そうとしていた山羊の脚は、膝からガクンと力が抜けた。ギギラの体が大きくよろめく。

 もとは狩りを生業としていたロビンの、特製の痺れ毒が矢尻に仕込まれていたのだった。


 体勢を立て直そうともがくギギラに、今度は氷の つぶてが無数に飛んでくる。

 そのうちの、男の拳大の礫が、痩せた横っ面に勢いよくぶつかる。甲高い悲鳴を上げた魔族はもんどり打ち、地面をザザッと滑るようにして倒れた。


「その一撃は、アンタが騙した人たちの分よ! 少しは人の痛みってもんを思い知って、反省したら!?」


 魔族に向かって高らかに言い放ったのは、 ロッドを片手につばの広い帽子と膝丈ほどのローブを纏った少女・エリィ。若いながらも魔力と才能に恵まれた魔法使いである。


「こンのぉ……偉そうに説教しやがって、小娘が……!」


 地に臥した魔族の斥候は、しかしすぐに頭を起こし、血の混じる唾と悪態を吐き捨てながら立ちあがろうと身じろいだ。


 しかし起き上がるよりも早く、その痩せて尖った顎先に刃の切っ先が突きつけられた。

 男はヒッ、と息を呑む。


「君の悪事もここまでだ、ギギラ」


 軽装の鎧を身につけ、剣の柄を握る精悍な若者こそ、アレク――当代の勇者。

 かつて人間界が魔族に征服される寸前になった時、人々を率いて立ち上がった先代勇者の血を引く若者だった。


「もう二度と、人々を陥れる真似はしないと約束すれば、命までは取らない。誓うかい?」


 正義感に燃える瞳が、卑劣な魔族を見下ろしている。

 切れた唇から青黒い血を流しながら、ギギラは青ざめた顔をして(魔族の肌は元々青白いが)切っ先が顎に刺さらない程度に小さくコクコクと頷いた。


「ち、誓うッ、誓いますッ! だ、だから、命ばかりは……!」

「……わかったよ」


 哀れにも震える声で紡がれた命乞いに、勇者はややあって剣を下ろす。

 その直後――ギギラの緑色の瞳がきらめいた。


「――なんてなァ!!」


 次の瞬間、魔族の長い尻尾が蛇のように鎌首をもたげ、勇者の腹に狙いを定めて、鋭利な先端で素早く空気を裂く。

 しかし、青年の鳩尾に突き刺さる前に、剣の刃によって尻尾が跳ねあげられた。硬い鱗に覆われた尻尾は切り落とされはしなかったが、金属音を立てて弾かれる。


「何ィっ!?」


 ギギラの目が見開かれる。

 速度は尻尾の方が上だった。不意打ちを予測して動かなければ間に合っていない。


「ふう……危なかった」


 アレクは間一髪だったとばかりに息をつく。相手の攻撃を読み切る“目”が並の剣士を超えていることに、無自覚の様子だった。天性の才覚である。


「またコイツの泣き落としに騙されるところだったの? しょうがないわねぇ」


 呆れたようなエリィに、勇者は「ごめん……」と困った顔で謝る。

 素直な態度に気をよくしたのか、エリィはふふん、と鼻を鳴らした。


「ま、そういう優しさがアレクのいいところなんだけどねっ」

「やれやれ、エリィはアレクに甘いな」


 いつのまにか木の上から降りてきたロビンにからかわれて、エリィは「はぁっ!?」と素っ頓狂な声を上げて食ってかかる。


「べ、別にそんなんじゃないわよ!」

「ムキになることはないだろう」

「何よ〜、スカしちゃって!」

「ふふっ……」

「あーっ! いま笑ったでしょ、アレク!」


 ムキになるエリィ、涼しい顔のロビン、賑やかな仲間たちに思わず吹き出すアレク。

 三人のやり取りは、同じ年頃の若者たちと何も変わらなかった。


「ヒ……ヒャハハハッ! 勇者ご一行って言っても、仲良しこよしのガキの集まりだなぁ!」


 和やかな勇者一行の空気を、ギギラは うずくまったまま小馬鹿にして嘲笑う。


「なんですってぇ!?」


 三人の中で最も気性の荒いエリィが、きっと眉を吊り上げて杖を魔族に向けた。

 先程お見舞いされた氷の礫の痛みを思い出して、魔族はギクリと身を強張らせる。


「どうやら、もっと痛い目に遭わなきゃ反省しないみたいね! 今度は氷漬けにしてあげる!」

「殺すなよ、エリィ。生け捕りにして、魔族の情報を吐かせてやる」


 ロビンも進み出て、今度は弓矢でなく、近接戦闘向きの短刀を抜いて構える。


「降参した方がいいと思うよ。二人とも、怖いんだから」


 勇者は心底同情するかのように勧めるが、魔族がどんな動きをしても即座に対応できるよう、自然と構えが出来ている。


 じりじりと迫ってくる三人から逃れようとするギギラだが、脚に回った毒で未だ立ち上がることもできず、蹄が虚しく土を掻くばかりだった。


「くそぉ……っ」


 これまでかと、ギギラは顔を歪めて牙をきつく噛み締めた。


 その時――


 ゴオォッ、と突風が吹き荒れた。

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