保健室へ潜入せよ

 A組の教室前を通り過ぎ、踊り場の男女トイレを尻目に校舎の一階へ。その終端は右手に木の引き戸がある廊下につながっている。

 〈Psychicサイキック〉のAR校舎案内図によれば、ここは第一理科室。オリエンテーションで見学した際、クラスメイトの女子が気持ち悪がって移動をかしたせいでじっくり観察できなかった場所だ。


「リンちゃん、聞いた? この学校、理科室が三つもあるんだって!」

「今日、特進科も同じルートで説明を受けた。よほどの馬鹿か、寝ていなければまだ短期記憶に残っているはずだが」

「美術室は二つ、技術・家庭科用の教室と調理実習室は別。音楽室なんてメインとサブのほかに防音室が三つもあるんだよ! 用事終わったら――」

「断る」

「……一緒に探検しない? って言おうと思ったけどやめとく」


 探検? なるほど、それもお前の目的か。だったら私から希望を言おう。

 澪の無事を確かめたら、第一から第三理科室まで制覇するぞ。壁際の棚にホルマリン漬けのびんがずらりと並ぶ壮観な光景を目に焼きつけるんだ。


「リンちゃんはキョーミ持った施設ある?」

「ダントツで理科室だ。腹開きのカエル、ネズミの心臓、ミミズの神経標本……壁一面に並ぶ生体を間近で見られるなら科学班への入部も辞さない」

「おおぅ……もしかしてグロ系がお好きな感じ?」

「生物学的知見から好奇心、探究心を刺激された結果だ。これまで生きてきて、一度じかに自分の身体のを見てみたいと思ったことはないか?」

「まっ たく ない です」

「なら、お前とは分かり合えないな」


 この学校には普通科と特進科、総合ビジネス学科の三つに加えて、任意で専攻を設定できる。具体的には農業、工業、スポーツ科学、それに家政コースだ。

 某サッカー馬鹿を例に挙げると、奴は普通科の授業に加えて学生アスリート向けの特別科目を履修し、文武両道を目指していくことになる。全国的に見ても、ここまで幅広い分野をカバーする高校はほかに類を見ない。

 それに加えて、学年が上がれば同じ学科、同じ教科の時間でも選択科目により別の教室と教員が必要になる。多数設けられた実習用の教室とだだっ広い教員室は、その多彩なカリキュラムに対応するためのものだろう。


「時間の無駄だ。先を急ぐぞ」

「あ~い……と言いたいトコだけど、別にゆっくりでも良くない?」

「なぜだ」

「だってこの時間、保健の先生いないもん」


 突き当たりを左に曲がると、朝に通った昇降口の前に出た。表彰コーナーを通り過ぎ、廊下を右に曲がって、宿直室の方向へ。朝はいていなかった入口のデジタルサイネージが点灯し【会議中 入らないでください】とある。

 そこを横目に通り過ぎ、私たちは保健室の前にたどり着いた。半信半疑でドアノブに目を向けると、確かに責任者の不在を告げる白い横長の札が掛かっている。

 

「ね? 今井ちゃんは部屋に。ドヤァ」

「くだらないことを言ってないで、質問に答えろ。なぜそれを知っていた」

「ふふーん。実はウチ、終礼前のホームルームで担任にキレられたから、仮病使ってサボりに来たのさ。ずーっと見張られてたんで、みおりんの様子は確認できなかったけどな。すまぬ」

「例の現国教師か。何をどうして怒られた?」

「〝山ピッピ〟って呼んだからじゃね? 知らんけど」

「間違いなくそれが原因だな」


 朝に小林から指摘されたのを思い出し、右手のこぶしでドアを三回叩く。少し待ってみたが反応はない。工藤が「失礼しま~す」と言って扉を開けた。

 室内は白を基調とした清潔な空間にまとめられ、さながら町医者の診察室のようだった。入ってすぐの診察スペースにある簡易ベッドと、保健室登校の生徒用と思われる数組の座席についても特筆すべきことはない。

 右手の奥が目的地。ゆっくり休めるベッドが三台置かれているところだ。手前の二台は空で、一番奥だけ仕切りの白カーテンが閉められている。


「澪、いるか?」

「反応――ないね。まだ寝てるんじゃない?」

「だとしても寝過ぎだ。叩き起こす」

「リンちゃん、ステイ! そっとしといてあげなって!」


 呼びかけても声どころか、衣擦きぬずれの音すら聞こえてこない。様子を見に行こうとしたところで、工藤に腕を引っ張られ制止された。


「生徒が気を失って倒れたというのに、付きっきりでる者がいないとはどういうことだ。発作を伴う病だったら人命に関わるんだぞ!」

「みおりんは何か病気持ちなの?」

「持病などあるものか、至って健康体だ。考えられるとすれば貧血だが、普段の食事でしっかり鉄分を摂取できていれば可能性は低い」


 澪は、私と同じ内容の健康的な朝食をったはずだ。その時点で急性低血糖・高血糖の線も消える。ごく軽微な発病因子を私が見落としていたのか?

 そんなはずはない。澪は健康診断の結果を返されると「これ、どういう意味?」とデータを見せて、私の解説を聞きたがる。だから私は、彼女の健康状態を本人の次によく知っていると言っても過言ではないのだ。

 その私の医学的知識を総動員しても、発病に至る身体的要因は考えられない。ならば、こんなに長時間目を覚まさない理由は――


「きっと、状況的にショックで寝込んでるだけだよ。クラスメイトに殺されかけて、大事な本まで壊されたんだもん」

「本?」

「ほら、これ。『もろびとこぞりて』ってやつ」


 促されるままに近くの机を見やると、アニメ調の絵が描かれた一冊の単行本が目に留まった。ソフトカバーの表紙はぐちゃぐちゃに乱れ、頭からネコ耳が生えた女の顔には小さな穴が開いている。裏表紙まで貫通する深い穴だ。


「アイスピックみたいな道具で刺されそうになった時、みおりん、とっさにこれを盾にしてさ。ギリギリで顔に刺さらずに済んだんだ」

「この本に命を救われた、ということか」

「だね。これ書いた人が聞いたらびっくりするだろな~」


 誰のことだ、とわざわざき返すまでもない。たい焼き男からミドルネームを抜いただけの名前が表紙に出ているのを、私の目はすでにとらえていた。

 澪には推しの作家がいて、その影響で趣味の延長ながら本格的な小説を書くようになったことは知っている。だが、肝心の推しの名を聞いたのはこれが初めてだ。

 偶然の一致にしては出来過ぎているが、あの男に澪が敬服するほどの文才があるとは思えない。百歩譲って本を書いたとしても、サッカー論か自伝、人生観、メンタル論が関の山じゃないか?


「ちなみにリンちゃん、この人知ってた?」

「いや。知らない」

「そっか~。コバっちも本読まなさそうだから知らない説。もしかして意外と売れてな……あ! みおりんには今のナイショね」


 それに、この女――金髪だ。色味こそ違えど、二色という点は佐々木と共通する。名前はまったく違う。だが、チャラチャラした見た目で根が善人なところは瓜二うりふたつといっていいほど似通っている。

 考えれば考えるほど分からなくなる。出口の見えない迷宮に迷い込んだようだ。澪を呼べない今の私が頼れる者、正解にたどり着くヒントは一人しかいない。


「工藤七海――お前、何を知っている?」


 金髪ギャルは私の問いに目を細め、得意げに口の端を吊り上げた。

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