川岸家の日常(下)

「すみません。何度も呼び鈴を押したんですが」

「朝からうるさくして悪かったね、いらっしゃい!」


 背中の半ばまであるサラサラの黒髪に、切れ長の黒い目。幼なじみのひいき目で見ても、高嶺の花って表現が最適解の美少女。おまけに親はどっちも医者、学校の成績も中学三年間ずっと学年トップ。天は二物にぶつを与えず、なんて絶対ウソだ。

 逢桜高校でも特待生にあたる「模範生」になったのに、将来の夢はマッドサイエンティスト。十代にして人生を達観した、変人を地で行く天才児ギフテッド――それがこの水原みずはら鈴歌すずかである。

 まさに天上天下唯我独尊、大人でさえも扱いあぐねるエキセントリックジーニアスから、あたしは幸か不幸か同類項なかま認定されているのだった。


「お邪魔します。おじさん、何か手伝えることは?」

「うーん……残ってるのは配膳と後片づけぐらいかな」

「そうですか。分かりました」


 そんな天才は玄関で黒のローファーを脱ぎ、スリッパにき替えると、廊下で大の字になっているあたしを見下ろしてこう言い放った。


「澪。パンツ見えてる」

「ぎゃああああああ――!」


 あたしの悲鳴をBGMに、お母さんは笑いながら「バーカ!」と捨てゼリフを吐いて家を出ていった。

 程なくして車のドアを閉める音が聞こえ、家の前の側溝がガタガタ鳴る。学校に向かうワンボックスカーを敷地の外に送り出したんだろう。


「ここは『頭打ってないか?』っててくれるところじゃないの?」

「私は生命医科学に興味があるだけで、医者志望ではない。それにバ……澪は健康体だから、この程度は問題ないと確信している」

「今、バカって言った? 絶対言いかけましたよねあなた!」


 うちはメゾネットタイプのアパートで、水原家とは壁一枚で隣り合わせ。物音が聞こえないから、おじさんとおばさんは夜勤から戻ってきてないみたい。

 鈴歌のうちは昔からこうだ。夜に子供が独りになることを心配したクソババアが「うちでお嬢さんを預かりましょうか?」とお節介を申し出て、あっちの親御さんがあっさり快諾。その翌日から、我が家に鈴歌がやってきた。

 それ以来、隣のクールビューティーは保護者が留守だとうちに来て、一緒に食卓を囲む仲になったのだ。


「気のせいだ。ベルナルド、おはよう」

「ワフン【おはよ~】」

「話まだ終わってないんだけどなあ!」


 大声でわめきながらゆっくり身体を起こすと、弟がカバンの取っ手をくわえて持ってきてくれた。よっ、やればできる子! 忠犬ベルナルド!


「ありがと、ルナール。離して」

「ウ~……【や~だよ~だ!】」


 ところが、ちゃんと褒めてから「離して」と言ったのに、相手はうなりながら目をキラキラさせている。あれ? ちょっと待て。何だかイヤな予感がするぞ。


「離しなさい。はーなーしーて。これはおもちゃじゃないの!」

【いーやーだー! これで遊ぶー!】

「こやつ、姉のものを盾にしおったな。鈴歌、アレ出して」

「了解した」


 鈴歌はダイニングの椅子にカバンを置くと、そばにある飾り棚の下段を探った。取り出したるは秘密兵器、押し潰すと鳴く黄色いニワトリのフィギュア。通称コッコちゃんだ。

 対面キッチンのカウンターにおかずのった皿を並べていたお父さんが、この後の展開を悟って吹き出した。


「ちょっ……澪、朝からそれはダメだって!」

「新品のカバンがお亡くなりになったらもちろん弁償してくれるんですよね、一徹課長補佐! イヤならコッコちゃんの使用許可を出しなさい!」

「お父さんは次長です!」


 どうでもいい反論には耳を貸さず、あたしは鈴歌に目で合図を送った。視線を合わせた相手が小さくうなずく。カバンを取り戻すにはもう、これしかない。

 天才の手に握られたニワトリはウォーミングアップがてら数回息切れを漏らし、間抜けな声で鳴き始めた。


『ホッ、ホッ、ホォ~……ワァァァァァァ~……』

「くくっ、あはははははは!」

【あっ、それ好き! ちょうだいちょうだい!】

「単純なヤツめ。隙あり、奪取! ミッションコンプリート!」


 大型犬が口を開けた瞬間に、がっちりつかんだ本体を引き寄せる。宙を舞った持ち手がやけに輝いて見えるのは、きっと新生活が楽しみすぎるあまり〈Psychicサイキック〉の動画撮影用エフェクターが誤作動したせいだ。

 フッ、ついに至ってしまったか……念じるまでもなく、あたし好みに脚色された世界をる妄想力の奥義にして極致。自給自足のイマジナリーワールドに。

 時間にしてコンマ数秒、フラッシュ自画自賛で気分は最高! 上機嫌で天井を仰いだ瞬間に、悲劇は突然降りかかった。


 ――べちゃっ。


「くさっ! くっさぁ! あんた、ちゃんと歯磨いてんの!?」

「ワン!【もちろん!】」

「小さい頃から慣らしたせいか、むしろ嬉々として磨かせてくれるよ」

「犬も人間も所詮しょせん。ケモノ臭がするのは当たり前だぞ澪」

「顔面よだれダイレクトアタック食らってから同じこと言ってみろや!」


 顔にべっとり張りついた、通学カバンの真新しい取っ手。あたしが使い古す前に、残念ながら生臭くネバネバする透明な液体でコーティングされてしまった。

 戦利品を引っぺがして顔をしかめるあたしに、鈴歌がウェットティッシュの入った箱を投げ渡してきた。その間にお父さんが洗い物を終え、頭上の食器棚からキャニスターに入ったドッグフードを取り出す。


「覚えてろ、このヤンチャ坊主! 次やったら動物病院でいい子になる注射な!」

「キャイン、キャイン!【やだー! 病院キラーイ!】」

「獣医学界にはそんな画期的な治療が?」

「あったらうちの壁と柱にあんな歯形つかないよ鈴歌ちゃん」


 ルナールのごはんをはかり、飲み水と一緒にステンレスの皿に載せて床に置くのはあたしの役目だ。その間に鈴歌は人間用の食事を配膳し、ルナールに「待て」をさせる。


「それでは――いただきます」

「いただきます」

「ルナール、よし!」

「ワン!【いただきま~す!】」


 こうして、あたしたちは穏やかな朝を迎えた。〈Psychic〉の仮想ディスプレイでいつものワイドショー動画を流し、食卓を囲んで話をする。

 家族と、愛犬と、幼なじみに囲まれた幸せな日常。それは危険と隣り合わせで、日暮れとともに崩れ去るつかの間の夢。

 ――今日、その夢が壊れることを、あたしたちはまだ知らない。

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