第15話 覗かれた記憶

ビクトールに正式な許可をもらったリリアーナは、もう気後れすることなく秘密の研究室に通えるようになった。フローラに目を付けられ前より慎重にしなければならなくなったが、この習慣をやめるのは最早できなくなっていた。


最初のうちは、彼女を見ると必ず眉間に皺を寄せていたビクトールだったが、最近ではすっかり当たり前のように受け入れている。証拠の残らない毒薬を作れとしつこく迫ることもなくなってきた。


(もしかして忘れてくれたのか? いや、杖を向けられてショックを受けてたから今でも好きなんだろうな……)


気になるなら本人に直接尋ねればいいのに、なぜかそれができなかった。以前の方がもっと本音を言えていた気がする。お互いの距離は前より近くなったはずなのに、なぜ言いたいことが言えなくなってしまったのだろう。


この日は、注文を受けた魔法薬を調合するのに忙しかった。持って来た昼食も食べる暇なく紙袋ごと放置されていた。傍で見ていたリリアーナはそんなビクトールを心配していたが、ふと自分の持って来たチーズクッキーを口に入れてやろうと思いついた。


「何も食べないと体が参っちゃうわよ? これなら甘い物苦手なあなたでも平気じゃない?」


リリアーナはそう言って、クッキーを持った手を彼の方に伸ばした。とその時、ローブの袖が実験器具に引っかかって、調合していた薬を倒してしまった。慌てて倒した瓶を元に戻し、ハンカチで濡れたテーブルを拭こうとしたが——


「やめろ、触るな!」


しかし、ビクトールの警告は一瞬遅かった。その薬は、元々は経口的に内服するものだが、経皮吸収もされるという変わった性質を持っている。そしてその薬を含んだ者に触れると、過去の記憶を盗み見ることができる効能があった。そんな危険な薬をリリアーナが触れてしまったのは想定外だった。


ビクトールは咄嗟に杖を出して、魔法でリリアーナを眠らせた。魔力の少ないリリアーナは、防御も殆どできずまともに食らってふらっと意識を失った。力が抜けて倒れかけた彼女の体をビクトールは受け止めソファに寝かせた。


(くそっ! まただ!)


つい最近も同じような状況になったばかりなのにと、ビクトールはほぞを噛む思いだった。解毒剤を作るのも時間がかかるし、自然に薬が体内から抜けてくれるのを待つしかない。幸い量が少ないから短時間で済むだろう。でも、今のまま彼女を外に出すのは危険だ。ここに置いておくしかない。


そのために魔法で眠らせたのだが、急にやましいことをしているような気分になった。先日もだが、無防備な姿を晒したまま横になっている状況は、待たされる身としては非常に辛い。普段きつい顔をしているのに眠っている時の顔はあどけなかった。まぶたが閉じられ長いまつ毛がくるんと上を向き、起きている時は常に引き締まっている口元の緊張も緩んでいる。ビクトールは見惚れてぼーっとしてしまった。そして、無意識に手の甲で彼女の頬にそっと触れた。


その瞬間、強烈なイメージが彼の中に侵入してきて、反射的に手を引っ込めた。


(何だ? 今のは……リリアーナの記憶か?)


それは彼が想像していたより、はるかに重苦しいイメージだった。彼女の記憶を盗み見てはいけない。そう思ったが、ふと内面を覗きたい衝動に駆られた。大胆かと思えば繊細、厚かましいかと思えば傷つきやすい、この二面性は一体どこから来るのか、それが知りたくなった。しばらく心の中で葛藤してから、ビクトールはためらいがちにリリアーナのほっそりした白い手を握った。


最初に出て来た映像は、ビクトールが見たことがないような立派な庭園だった。幼い少年が、涙の跡が生々しい少女に「魔法ができなくたって他を頑張ればいいよ」と声をかけている。少女は衝撃を受けた様子で、相手の少年に羨望の眼差しを向けていた。その表情からするとすっかり魅了されたようである。


(子供の頃のリリアーナと王太子か? これが初対面だったのか)


次はどこか豪華な屋敷の庭だった。時間は大幅に経過してどうやら最近の出来事らしい。大規模なティーパーティーのさ中、庭園の温室にリリアーナとフローラが二人きりで会っていた。


「はっきり申し上げます。ルーク殿下との婚約を解消してください。私たちは愛し合っています。あなたとの間にはない、真実の愛です」


「何を言ってるの? 国の最高責任者は愛だ恋だとうつつを抜かしている暇はないのよ。為政者にとって一番大事なのは国民です。自分のことは後回しにして国を最優先しなければいけない、妻はそんな夫を身を挺して守る義務があります。あなたにはその覚悟はおありなの?」


「ハッ! 一人の男性の心もつかめない癖になにを偉そうな! 自分では何一つ成し遂げられないでしょう? 私はこれから何千何万の民を救う未来が約束されています。役立たずのあなたとは違うんです」


フローラはそう言うと、杖をリリアーナに向けて呪文を唱えた。不意打ちだったこともあってまともに抵抗できなかったリリアーナの身体は見る見る間に小さくなり、一匹のカエルへと姿を変えた。フローラはゲラゲラ笑いながら、そのカエルを踏みつぶそうとした。


「身を挺してルークを守るですって!? 自分の身も守れないのに? とんだお笑い種ね!」


すんでのところで交わしたリリアーナは、植え込みの影に逃げ込んで危うく難を逃れた。あれは本当に殺す気だった。肝を冷やしたリリアーナの心にビクトールの心がシンクロして、彼もまたぞっとした。


フローラは、地面に落ちたリリアーナの服を回収してどこかに捨てて証拠隠滅を図った。そしてルークに、リリアーナは途中で機嫌が悪くなって先に帰ったと報告した。ルークは、「わがままな女でどうしようもないな、あんなのが婚約者だとは嘆かわしい」と憤慨し、それからは専らフローラが彼を慰めた。その頃、カエルになったリリアーナは馬車に轢かれそうになりながら、ほうほうの体で自分の家に戻って魔法を解除してもらった。


元に戻った時のリリアーナは、全身泥まみれで至るところに生傷があった。魔法を解いたのは兄のナイジェルだったが、ボロボロになった彼女を見て笑いが抑えられないようだった。年頃の若い女性が裸体を晒しているのに貴族というのは何の配慮もないのか。ビクトールは自分のことのように腹が立った。壁の方を向き顔は見えないが、大きな布をかけられた肩が小刻みに震えているのは見ないようにした。きっと忍び泣きをしていたのだろう。父には話してくれるなと懇願する彼女が痛々しかった。


その後は、しばらく学校を休んで怪我を治した。聖女に頼んで治してもらえばと勧められたが、フローラの息のかかった場所へは絶対に行きたくなかった。ルークにフローラのことを訴えたが、もちろん信じてもらえず、逆にリリアーナを嘘つき呼ばわりする始末だった。


ルークのリリアーナへの当たりは更に厳しくなった。人がいる前でも彼女を怒鳴りつける場面も出て来た。そんな時、リリアーナはきっとルークを睨みつけ、それから挑むような笑みでにこっと笑った。意地でも憐れまれるような雰囲気を作ってやらないという、無言の反撃だった。そんな彼女がより憎くなるのだろう。しおらしく首を垂れない彼女にルークはほとほと愛想が尽きた。終いには、殆ど無視するようになり、公の場でもフローラと親しくするのを隠さなくなった。そして例の婚約破棄だ。


場所はリリアーナの家に戻った。公爵家からルークとフローラへの制裁をとしつこく頼み込むリリアーナを父は冷たく見下ろした。


「相手が聖女候補では分が悪すぎる。国王もルーク殿下の意向を黙認する方向だし、我々としてもそちらに乗るしかない」


それを聞いた途端、リリアーナの目から光が失われた。


「……分かりました。自分の身は自分で守れということですね。それでは私でもできることを致しましょう」


それでここに来たのか。今に至るまでの経緯が分かって、ビクトールはやっと腑に落ちた。どんなに強がっていても、ふとした時に見せる迷子の子供のような表情の正体が。勝気な性格の裏側に、数多くの挫折や孤独感が積み上がっていたのだ。


でも、もう一つ気になることがあった。それはずっと前の過去の出来事。知りたい過去を自分から選んで探し出せるのか自信がなかったが、ビクトールはもう一度、彼女の両手を合わせ、それに自分の両手を重ね合わせて目をつぶり集中した。


(…………!)


見えたものの余りの衝撃に慌てて手を離し、ビクトールは床にどかっと腰を下ろした。


(なんだ、これは……こんな澄ました顔をしてとんでもない爆弾を持っているじゃないか!)


彼が見たのは、今より若いリリアーナと、よく似た女性だった。その女性がリリアーナに何か言い含めている。そして彼女がかけた術は——。今見た出来事の本当の意味をリリアーナは知っているのだろうか? まだ子供だったから未だによく分かっていないかもしれない。ビクトールは、リリアーナという人間を見くびっていた。正確に言うと、彼女の背負っているものの正体は想像を絶した。


見た目は裕福で何一つ不自由ない貴族なのに、寄る辺のない孤独を抱えているという意味で、彼女は自分と同じ種類の人間だ。王太子妃になるはずだった人物と、最下層の平民との間に共通点があったなんて。そんなことを考えているうちに、彼女はもぞもぞ動き出し、ううーんとうめいた後、目をぱっちりと開けた。


「ごめんなさい、薬を駄目にしてしまって。あなたの実験の邪魔はしないと約束してたのに。私どれくらい寝ていた?」


どうやら薬のせいで寝ていたと勘違いしているらしい。ビクトールは静かに首を横に振った。


「薬ならいくらでも作れるから心配しないで。それより体は大丈夫?」


「私は大丈夫よ。体が丈夫なだけが取り柄なの」


そう言ってリリアーナは笑ったが、ビクトールは笑うことができなかった。しばらくじっとうつむいていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げ、無表情のまま抑揚のない声で思いも寄らない提案をした。


「なあ、証拠の残らない毒薬、作ってやろうか?」


大釜で何かが煮えたぎる音以外は、全ての時が止まったように感じられた。リリアーナは金縛りにあったようにそのまま動けなくなった。


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