第6話 青の魔女の権力闘争
例の一件以来、リリアーナは、廃校舎の実験室にぱったり来なくなった。あんなことがあっては当然だ。ビクトールは、その記憶ごと頭の中で封印した。もう彼女は来ない。平穏な生活が戻ってよかった。それだけだ。
もう彼女のお喋りに悩まされず実験に没頭できるのだから、いいこと尽くめのはずだった。なのに、やけに静けさが耳に障る。窓やドアがあるところ以外は四方を薬品棚に囲まれ、居心地のいい場所だったはずなのに、やけに寒々しく感じる。すぐに慣れるだろうと気を取り直したが、慣れ親しんだ場所が居心地悪くなる不思議な感覚は、なかなか取れることはなかった。
結局実験に集中できず、実験室を飛び出して学校の中を散歩することにした。こんなことは初めてだ。いつもは周りの生徒から避難するように実験室に駈け込むのに、その逆の行為を自ら行うなんて今まであり得なかった。
魔法学校にいると周りが貴族ばかりなので、平民のビクトールはそれだけで居心地が悪い。授業の時間以外は彼らと同じ空間に身を置きたくなかった。貴族の前でも恥をかかなくて済む最低限の礼儀作法を身に着けたはずだが、いつメッキがはがれるか怖かったし、どうせ見えないところで自分を馬鹿にしてるんだろうという予感もあった。実際、彼と仲良くしようとする人間はいなかったし、遠巻きにじろじろ観察されている自覚はあった。
所在なげに学校の中を散策していると、偶然食堂の前を通りかかった。ちょうど昼休みで昼食を摂りに多くの学生が出入りしている。ふと中を覗くとリリアーナの姿を認め、ビクトールは思わず足を止めた。彼自身は食堂を利用することはない。奨学金には食費までは含まれておらず、彼の経済状況では利用することができないからだ。その代わり、家から申し訳程度のバターを塗った固いパンを持って来て実験室でかじっていた。
リリアーナは、一人ぽつねんと座って食事していた。遠くではルークとその取り巻きのグループが楽しそうに談笑している。その中にフローラも紅一点で含まれていた。一人黙々と食事をするリリアーナと、大勢の仲間に囲まれて楽しそうなフローラ。その余りにも鮮やかな対比に、ビクトールは目が離せなかった。
しばらく観察していると、リリアーナの方に変化が起きた。一人の女子生徒が彼女に話しかけて来たのだ。
「あら、リリアーナ様、食堂でお食事をされるのは久しぶりですね。最近とんとお姿を拝見しませんでしたから」
相手はビクトールの知らない女子生徒だった。つんと澄ました口調のせいか、どこか棘のある言い方に聞こえる。
「どこで食事をしようが私の自由よ。あなたたちにとやかく言われる筋合いはないわ」
リリアーナの口調もまた険があった。相手を突き放す時の言い方だ。
「もちろんそうですわ。でもここにいるのは、少々苦痛かと思いまして。元婚約者とその恋人が仲睦まじくしているのを見せつけられるのは、気持ちいいものじゃないでしょう?」
一人がそう言うと、周りにいた他の女子たちも一緒に笑った。一体これは何だ? ビクトールは、目の前で繰り広げられている光景が信じられなかった。
「婚約破棄があったからって、あなた達には一切関係ないのよ? これで貴族社会の勢力図が変わったと思ったら、とんだ思い違いね。無礼を咎められる前に私の視界から消えなさい」
リリアーナは氷のように冷たく言い放った。ビクトールに見せる尊大な態度とも違う、全てを拒むような冷酷さだ。しかし、少女たちへの効果は乏しいようだった。
「勢力図が変わらないのなら、ルーク殿下とフローラ様には何らかの制裁が与えられたはずだけど、そうはならなかった。これが全ての答えよ。潮目は変わったの、リリアーナ公爵令嬢」
するとリリアーナは目にもとまらぬ早さで立ち上がり、傍らにあったコップを持って少女の顔面に水をぶちまけた。びしょ濡れになった彼女はかっとして、リリアーナのトレーにあった皿を投げつける。そのせいでリリアーナの服はソースまみれになってしまった。
辺りは一時騒然となった。ルークとフローラも気付いたようで、こちらに怪訝な顔を向ける。いたたまれなくなったリリアーナはトレーを持って立ち上がり、片付けをしてからそそくさと食堂を出て行った。
「服を汚してしまってごめんなさい。洗浄の魔法を使えばすぐに落ちますわよ。十分な魔力を持っていればの話ですけど」
立ち去るリリアーナの背中に、女生徒は追い打ちの一言を投げかけた。それを聞いた他の女子たちがまた笑い声を上げる。
リリアーナは一目散に食堂を出て行ったので、ビクトールの存在には気づかなかったようだ。ビクトールはしばらく呆気に取られてその場を動けなかったが、はっと我に返るとリリアーナの後を追いかけて行った。次に見つけた時は、彼女は人気の少ない水飲み場で服に付いた汚れを取っているところだった。
「濡れるからよせ、汚れを取ってやるから」
ビクトールがいることに気付いたリリアーナは、反射的に身をこわばらせたが、彼の言われた通りに水道の蛇口を閉めた。ビクトールは懐から杖を取り出すと、汚れを取る魔法をかけ、次に乾燥の魔法で服を乾かした。心地のいい温風がリリアーナの髪をふわっと巻き上げる。
「あ、ありがとう……さっきの見ていたの?」
「うん……偶然食堂の前を通ったんで。なぜあんな無礼なことが許されるんだ? あんた公爵令嬢なんだろう? 普通は遠慮される立場じゃないか?」
「婚約破棄があっても、ルークとフローラに何のペナルティもなかったからよ。普通あんな一方的な切り方をしたら、公爵の父が黙っていないはずなのにそうじゃなかった。周りの人間も肩透かしを食らって、それなら私を見くびっても大丈夫だろうと判断したわけ」
「そんな……! 貴族社会ってそんなもんなのか?」
「そんなもんなの。これで分かったでしょう? 私の置かれた立場がどんなものか」
そう言うと、リリアーナはくるっと向きを変えてつかつか靴の音を立ててビクトールの前からいなくなった。今までしつこいくらいに絡んでいたことから考えれば、余りにも素っ気ない態度だ。
しかし、数日後に彼女は実験室に再び姿を現した。手には大きな紙袋を抱えている。また例のパンのようだ。
「あの……先日のお礼をしようと思って」
ドアの前に立ったままもじもじして中に入ろうとしない。先日の一件が彼女に大きなしこりを与えてしまったことを思い知らされ、ビクトールは申し訳ない気持ちになった。
「大丈夫だ、何もしないから」
ビクトールは顔から火が出る思いで言った。あんなことするんじゃなかった。そう後悔したがもう遅い。
ビクトールの言葉を受けてリリアーナはおずおずと部屋に入って来た。
「はい、これ。あなたの好みが分からないから同じものにしたわ。お口に合わないなら弟さんたちにあげて」
「……別にお礼するほどのことでもないのに」
「してくれたことに礼を尽くすのが私たちの流儀なの」
そこまで言うなら……とビクトールは紙袋を受け取った。
「礼は言う。が、毒薬の依頼は聞けない。それが条件ならこれは受け取れない」
「そうじゃないわよ! それとこれとは別! もちろんまだ撤回してないけど……」
リリアーナは落ち着かなそうに目を泳がせながら答えた。そんな彼女を、ビクトールは椅子に座ったままじっと見つめた。目の前にいる彼女は、恐ろしく大胆なことをやってのける人間にはどうしても思えなかったのだ。
「なあ、王太子を殺すなんてやめないか? 別に自分の命が怖くて言うんじゃない。そんなことをしても何一つメリットがないじゃないか。それより、自分が幸せになる道を探す方がよっぽど建設的じゃ——」
「それじゃ駄目なの! どうしても気が治まらない。見たでしょ、私がどんな立場に立たされてるか。ルークがしたことなのに私ばかりとばっちり受けて、こんなの理不尽すぎる!」
リリアーナがここまで言ったところで、突然ドアをノックする音が聞こえた。二人ははっとして動きを止める。リリアーナは咄嗟に実験室の隣の小部屋に逃げ込んだ。そこは器具を洗浄するための部屋として使われていた。
「やあ、久しぶり。調子はどうかな、天才魔術師どの?」
扉の向こうから聞こえて来た声に、リリアーナは呆然として立ち尽くした。ルークの取り巻きの一人、ギャレット侯爵の嫡男のカイル・ギャレットが声の主だった。
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