まっかっかおじさん
貞弘弘貞
まっかっかおじさん
桜の花びらがはらはらと散り始めている朝の青空は眩しかった。
片側一車線道路の歩道には満開の桜の木が立ち並んでいる。
道路を渡る横断歩道には歩行者用信号機、車両用信号機が設置されており、多くの車が行きかっている。
横断歩道の脇に、緑色の腕章を付け黄色い横断旗を持った男、墨田周五郎が立っている。
歳は七十くらいで、がっしりとした体格をしている。顔には皺が多く、口を真一文字に閉じ、むすっとした表情はとても厳格な印象を感じさせる。眩しそうに目を細めているのでなおさらである。
周五郎が視線を前方に戻すと、道路の反対側で信号待ちをしている小学生の集団が目に入った。
車両用信号機が黄色になったとたん、生徒らが一斉に走って横断歩道を渡り出した。
「ばかやろう!」周五郎が叫ぶと、生徒らは「ワアッ!」と言いながら走り渡り、周五郎の脇をすり抜けていく。
「まだ青じゃねえぞ、クソガキども!」周五郎は顔を真っ赤にしている。
横断歩道のすぐ近くに小学校がある。歩道に面した正門から小学生たちが次々と登校してくる。
校長室では、校長が校長席に座り、その前に教頭が立っている。
「お願いしますよ校長。もう毎日のように苦情がきているんです」教頭はうんざりした表情で言う。
「何故だね。今までに生徒が怪我をしたりした事があるのかね? 教頭」校長は落ち着いた様子で答えた。
「それはそうですが……。あの男、生徒に何て呼ばれているか知ってます?」
「みどりのおじさんだろう?」
「いえいえ、いつも顔を真っ赤にして怒鳴る事から……」
周五郎は引き続き目を光らせていた。
歩行者用信号機が青になり、生徒ら数人が横断歩道を渡り始めた。
「左右確認してねぇだろうが!」周五郎は怒鳴りながら左右を確認する。
両車線とも車は停車している。手前の車の運転手がびっくりしたような顔をして周五郎の方を見ている。
生徒らはきゃあきゃあ言いながら小走りに横断歩道を渡っていく。その中の男子生徒が周五郎を指さして言った。
「まっかっかおじさんだぁ!」
顔が真っ赤の周五郎。赤になる歩行者用信号機。
周五郎の息が落ち着いてきた時、道路反対側で信号待ちをしている二年生の千絵の姿が見えた。
千絵は周五郎の方を見てニコニコしている。
歩行者用信号機が青になり、千絵は左右をきちんと確認し、ゆっくり歩いて周五郎の側まで来る。
「おはようおじさん!」千絵は明るい笑顔で言った。
「おう……」
「今日ね、お父さんが帰って来るの!」
「そうか……」
一年ほど前、千絵の父が単身赴任かなにかで外国に行った事を周五郎は聞いていた。それ以来いつも千絵は寂しそうにしていたが、今日は信じられないほどの眩しい笑顔だった。
小学校校舎の時計が午後三時を指し、チャイムが鳴り響いた。
校長室の窓際に校長と教頭が立ち、窓から外を見下ろしていた。横断歩道脇に立っている周五郎の姿が見える。
「しかし、謎の男ですよねぇ。なにやら離婚して一人暮らしだとか。子供はいるんですかね?」教頭はため息交じりに聞いた。
校長は目を空に向けてゆっくりと言った。
「いたんだよ……、娘が」
「ははぁ、母親に持って行かれたという事ですか?」
「いや……、事故でな」
「は……?」
周五郎の側で学校帰りの生徒ら数人が信号待ちをしている。周五郎のすぐ横に千絵がいる。
「もう家に着いているかなお父さん」千絵はニコニコしながら周五郎を見上げる。
周五郎は軽くうなずいた。
校長室では、校長が教頭の方を向いて話を続けている。
「もう十五年以上前になる。彼の娘はうちの生徒だった。当時、三年生だったかな……」
「私がここに赴任するだいぶ前ですね」
校長は窓から空を見上げる。
「放課後、娘さんは帰宅途中に交通事故にあって……、亡くなった」
教頭は驚きの表情をして窓から外を見下ろした。
「もしかして……、あの場所ですか?」
校長はゆっくりうなずいて、目線を周五郎の立つ場所に向ける。
「歩行者用信号は青になっていたが、トラックが突っ込んできたらしい」
「そんなことが……」
「それから数週間経った頃、彼はあの場所に立つようになったのだよ」
教頭は頭をかきながら窓を背に寄り掛かった。
校長は校長席に腰を掛けて、目を閉じた。
「娘さんの名前は何だったかな……」
この時間帯は交通量も多く、周五郎の目の前を多くの車が走り抜けていく。
その時、周五郎の横にいた千絵が驚いたように大声を出した。
「あ! お父さんだ!」
その声につられて周五郎が道路の反対側に目を向けると、三十代くらいの男が立っているのが見えた。片手を上げ、千絵の方を見て微笑んでいる。
おそらく千絵の父なのだろう。千絵を迎えに来たようだ。
「お父さん!」千絵は駆け出した。
周五郎は咄嗟に歩行者用信号機を見る。まだ赤であることを知ったとたん、全てがスローモーションになった。
右方向に目を向けると、幸い車は来ていない。しかし、左方向に目を向けると対向車線にダンプカーが高速に接近してきているのが見えた。
車両用信号機が黄色に切り替わったが、ダンプカーは速度を緩めるでもなく突っ込んできた。千絵は既に横断歩道の半分手前のところまで進んでいる。
周五郎は駆け出した。と同時に、手に持っていた横断旗をダンプカーめがけて投げた。
目の前で千絵が転んで倒れた。ダンプカーは二十メートル程まで接近している。投げた横断旗がダンプカーのフロントガラスに当たり、運転手が目を見開き驚愕の表情をしているのが見えた。周五郎はやっと千絵に追いついたかと思うと、千絵の両脇を掴み思い切り千絵の父のいる方へ投げ飛ばした。周五郎はそのまま腹を地面にたたきつけるようにして倒れる。
千絵は父の元へ飛んで行き、父は千絵を両腕で受け取り、そのまま後方へ倒れこんだ。
急ブレーキ音が大きく響き渡る。
静寂が訪れた。周五郎がゆっくりと目を開くと、目の前のアスファルトの地面に桜の花びらが一枚舞い落ちるのが見えた。
腹ばいで倒れている周五郎からわずか十センチのところにダンプカーは停車していた。
信号待ちをしていた小学生たち、千絵の父、周囲の人々らが驚愕の表情をして口をあんぐりと開けて微動だにできない中、周五郎はすっくと立ち上がり、ダンプカーを睨みつけると左手の拳を力いっぱいボディ正面に叩きつけた。ボディは少しへこみ、運転手は愕然とした表情で震えている。
周五郎は千絵を抱えて倒れ込んでいる千絵の父に近づいた。
「怪我は?」周五郎が聞くと、千絵の父は我に返ったように千絵を立たせ、体を確認する。
「大丈夫です!」千絵の父が答えると、周五郎は千絵の姿を見て一瞬安心したような表情をするが、次の瞬間、顔を真っ赤にした。
「ばかやろう! 信号は青にもなってねぇし、左右確認もしてねぇだろうが! 死にてぇのか!」
千絵はビクッと体を硬直させる。
「ご、ごめんなさい……、ごめんなさい……」千絵はうつむき、涙を流しながら体を震わせている。
周五郎は跪くと千絵の肩に手を置き、ゆっくりとやさしい声で言った。
「パパに会えてよかったな。気を付けてお帰り」
千絵は少し落ち着きを取り戻したかのように涙を拭き、笑顔になった。
「うん!」
「ありがとうございました。お体は大丈夫ですか?」と千絵の父が聞いたが、周五郎は頭を左右にゆっくりと振った。
「問題ない。手をつないで気を付けて帰ってくれ」
千絵の父が周五郎に深々と頭を下げ、千絵と手をつないで歩いていく。千絵は周五郎の方を見て笑顔で手を振っている。
その時、強い風が吹き、桜の木々を大きく揺らし、桜の花びらが盛大に舞った。
校長室では、校長と教頭が窓から外を見下ろしている。二人とも安堵の表情をしていた。
「いやぁ、危なかったですねぇ!」教頭はほっとしたような表情する。
校長は深呼吸をして、ゆっくりと校長席の椅子に腰を掛ける。しばらく目を閉じていたが、強風で窓ガラスがガタガタする音で目を開いた。
窓の外に桜の花びらが青空を背景に舞っているのが見える。
「そうだ、思い出したよ。彼の娘の名前は……」
視界を埋め尽くすほど桜の花びらが舞う中、周五郎が立っている。
校長は言った。
「『さくら』、だった」
周五郎の顔は、ほんのわずかに微笑んでいるように見えた。
(了)
まっかっかおじさん 貞弘弘貞 @SADA_HIRO
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