あるいは幸運なミステイク*同題異話SR短編集
かこ
始まりをいくつ数えた頃に――April
三年生からの忙しいの日々はあっというまで、気付いたら四年生になっていた。大学生らしく研究室に引きこもっていただけで一年が過ぎていたということだ。
この一年間はひたすら実験とレポート作成の繰り返し。研究室に来なくなった人もいるし、別の研究室に異動する人もいる。
片寄った生活をしていたら、人にさほど興味のない私は業務連絡の会話しかしていなかった。皆、自分のことに没頭しているからだ。
会話を最低限で済ませていたら思わぬ事態が起きた。
研究内容を書きこんだ模造紙を黒板に張り付けて発表したら、しかめっ面ばかりの教授の顎が落ちた。上級生も、教授の顔と模造紙を何度も何度も見ていた。見間違えじゃないかと確認しているようだ。
パソコンとプロジェクタを使えなんて言ってもいないのに、何が悪い。
仕様がない。人に頼る他ない。
研究室の人達はそれどころではないので、一から教えてもらうなんて贅沢な願いをする気にならなかった。研究室を除けば、思い付くのはたった二人だ。
藁にもすがる思いで図書館や食堂で
ページ作成から表示の仕方まで、文字の色の変え方、グラフの入れ方。高校のとき習ったよと言われたが、覚えていない事実が浮き彫りになるだけだ。
礼をしようとしたら、染みのついた白衣をくれと言われた。渡瀬さんは真剣だ。今まで面倒な冗談を言われたこともない。
とりあえず、何に使うのかと訊ねれば、
実験のレポートをつけたらひどく感謝された。なぜか虚しい気持ちにかられたが、ケチはつけないでおく。
手取り足取り一年かけて教えてもらって、なんとか一人で作れるようになった。
皆が作っているのだから確かに便利なのだろう。パソコンで作成した資料はメールで送ることもできるし、引用するのもコピー貼り付けでできる。しかし、保存し忘れた時の絶望も、データが消えるという恐怖も常についてくる。非常に面倒だ。
書き留めたら、なくさない限りどこにもなくならないというのに。
いくら不満を抱えても、発表資料は作らないといけない。それが毎週となれば頭も疲弊する。甘い物がほしくなって研究室を抜け出した。
理学部棟と人文学部棟の共有スペースのような中庭に出ると、太陽の光がまぶしい。研究室のカーテンをあけて、電気もつけているというのに、目は光に慣れていない。
「あ、
この大学できちんと私の名前を呼ぶ渡瀬さんに声をかけられた。
研究室ではふかがわと呼ばれているが、どうでもよかった。ふかがわだろうと、みかわだろうと私には変わりない。
「おつかれー」
名前を呼ばれ労われたが、特には用事はないだろう。彼女はいつだってそうだ。花柄のワンピースに若葉色のカーディガンを合わせた姿は薄汚れた白衣を着た私とは正反対のように見える。
何してるの、と訊ねられたので、最近の研究室の説明をした。簡潔に伝えるとすえ恐ろしいものを見るような目を向けられる。
「それ、ブラックって言うんだよ。人が来なくなったとか、ヤバイと思うよ」
「先生が正論言って、心がくじけてるだけ」
渡瀬さんが深刻な顔で言うものだから、事実を教えてあげた。
先生曰く、怠けようとする軟弱者が真理を暴けるわけがない、と。言葉の使い方はいささか過激だが、間違えではない。泣きべそをかく学生に対して裏で豆腐メンタルがと悪づいていたが、豆腐に失礼な気がする。
豆腐はやわらかいが、揚げや高野豆腐と姿を変え、あらゆる調理法で活躍する万能食材だ。
情けないは情けない、という表現のままでいいのではないだろうか。
「ねぇ、深川さんは就職するの?」
「しない」
唐突に聞かれたが答えは決まっていたので、すぐに返した。
渡瀬さんはわかりきっていることを確かめるような顔で続ける。
「院に進むの?」
「うん。渡瀬さんは就職するの?」
「するよ。勉強したいなーって感じじゃないし」
そう、と答えて少しだけ待つ。最近、彼女が話を聞いてほしそうにする雰囲気がわかってきたのだ。待つぐらいの情はある。
「実は、さ……何の仕事をしようか迷ってて。一本に決めた深川さんの意見を聞きたいな、と」
「いっぽんってどういうこと?」
意味がわからなくて訊ね返したら、渡瀬さんは少し慌てる。
「あ、えっとね。ずっと研究をするんだろうな、て思って」
「ずっと研究するかもしれないし、研究しないかもしれない。今は研究する選択肢があるけど、もし、いらないと言われたら研究なんてできない」
研究は『もしかしたら』の連続だ。『もしも』を実践して結果が出る。それの繰り返して仮定を結果としてまとめていく。
そして、わからなかったことが手に取るように明確な形になる。私達が行う実験は感情や人間関係のように理解を超えたものに左右されない。
だから私は好きでやっている。答えが必ずある。これほど楽しいものはない。
できるだけ研究に携われるようにしたいが、私の希望ばかりが通る世界ではない。だから、パソコンに立ち向かう。
「……決めても安定しないものなんだね」
肩を落とす渡瀬さんが不思議だった。
彼女は私より交流関係が広く世界が広い。選択肢はいくらでもあるはずだ。前に言っていた、選ぶのが大変ということだろうか。どれを選んだって、適応しそうなのになぜ立ち止まるのだろう。
二度足を踏む彼女を真っ直ぐに見つめて本心を告げる。
「自分のやりたいことに少しでもかすったら、やってみればいいと思う。やりたいこと、いっぱいあるように見えるから」
「そんな時間ないよ」
「時間がないと言ってる時間がもったいない」
当たり前のことを言っただけなのに、う、と渡瀬さんは呻く。
「始めもしないで、うじうじしないで」
「深川さん、かっこいい。惚れる」
「教授の受け売り」
「ああ、ブラックのボス」
なるほど、ボス。言い得て妙だ。確かに
「やっぱり、深川さんとは今年でお別れかぁ」
「また会えばいいよ」
そんなに残念がることなのだろうかと疑問に思いながら返す。
勢いよく渡瀬さんが顔をあげる。
「会ってくれるの?!」
「都合がつけば」
深川さんらしい、と言われ、なぜか息がしやすくなった。
(終)
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