第21話 最終日 死
「お父さん、おはよう」
「おはよう、結菜。なんかすごかったみたいだね。瑞樹くんのご両親が夜中に来られて感謝されたけど……」
「ごめんなさい、私、昨日頑張りすぎたみたいで、21時には眠くなったの」
「帰って来たら部屋の電気が落ちててびっくりしたよ。また今日の10時に瑞樹くんと来るって。もう体調は大丈夫?」
「はい」
私は頷いて朝食を食べることにした。
昨日久雄さんが帰ったのは19時だった。そこから台所を片付けて落ち着いたのが20時。お風呂から出たら瑞樹に連絡をしようと思っていたのに、部屋に入り布団に横になったらすぐに眠ってしまった。もうやれることが無いと心の奥底から安心したのだろう。それにすぐ横に結菜が来ている感覚があり、それも落ち着いた。
泥沼のように眠っている間に、ずっと小さな島で船を待っている夢を見ていた。
夜の砂浜。海の近くだと音で分かるのに、潮の匂いはしない。ただ海風になびく髪の毛は真っ黒で、遙のものだと分かった。砂浜に座っていると横に山羊が来た。目が赤く身体は白い山羊。山羊は私の横に座り、一緒に海を見ていた。
山羊は一声も鳴かず、それでも何かを語りかけるように私の横に座っていて、体は温かくて柔らかい。抱きついていると身体全体が膜のようなものに包まれて、ただ深く眠った。
目覚めたら朝で、驚くほど身体がスッキリしていた。すごく元気で良かった。
私が、結菜が、今日を元気に迎えられて良かった。
寝不足で顔色が悪い結菜にするわけにはいかない。
人生最後の午前中がはじまった。
今日は晴天。
晴れ渡る青空に、まっすぐに昇ってくる太陽に感謝した。前は雨の日に死んだから、今回は晴れの日に死にたいと思っていた。
しっかりと胸を張って顔を上げる。
私はどこか満足していた。昨日好き放題料理したのも良かった。やはり私にとって料理は精神安定剤なのだ。
文化祭の準備も終わっているし、久雄さんとも話せた。
話してみて分かったけれど、確固たる信念を持っている人で、私の言葉がどこまで届いたのか分からない。それでも私と結菜が一緒になって言葉を伝えていたのが分かった。
あれが結菜の気持ちなら、これから先を自分の足でしっかり生きていくだろう。
そう強く思えたから、もうすることはひとつも無かった。
「はい、味噌汁。そういえば冷蔵庫に入ってた白味噌。あれは他に何に使えるんだ?」
「里芋と煮ると美味しいって書いてあったわ」
「へえ~~。そりゃすごいな」
「ゆずとか乗せて」
「ああ~~、良いね、良いツマミになりそうだ。今度作ってよ」
「分かったわ」
私は静かに頷いた。結菜にはまだ少し難しい料理かも知れないけれど、レシピを残しておこう。
この世界には料理で遊ぶ人と、遊ばない人がいる。結菜のお父さんは遊ぶ人ではない。
遊ぶ人は食材や調味料にこだわる。しかし家の冷蔵庫に妙な調味料は無かった。
でもお弁当も朝ご飯も普通に美味しく、働きながらこれを続けるのは本当に大変だと思う。私は料理が趣味で、仕事で、好きだから遊んでいただけだ。
朝食を食べて落ち着いたころ、瑞樹と、瑞樹の両親がきた。私が会うのはあの事故以来だ。
瑞樹のお父さん……稔さんは私の前の席に座り、頭を下げた。
「親父、なんだかすごく飯が旨かったって。久しぶりにあんな旨いもの食ったって、そればっかり言ってた」
私は静かに首を振った。
「買ってきたものばかりです。あとで瑞樹からLINEします。ほとんどがデパ地下に売っている商品ですよ」
「そうなのか……すごく、なあ? 昌子も頑張って作ってるんだけど、あんな風に親父がいうのははじめて聞いたから」
その言葉に横に座っている昌子さんは静かに頷いた。
本当に顔色が悪く、ほぼ土色だ。そして身体も細い。このまま倒れてもおかしくないような様子に心配になってしまう。
稔さんは瑞樹を見て口を開く。
「肘の病院の予約は、文化祭が終わる火曜日の夕方に取った。もう大丈夫か?」
私の横に座っている瑞樹はコクンと頷いた。そして、
「待ってくれてありがとう。でもおじいちゃんも言ってたけど、それほど悪く無いと思うから、お母さん大丈夫だよ」
その言葉に昌子さんは少しだけ顔をあげて笑顔を見せた。そして私に向かって、
「今度お料理一緒にしない? 白味噌の煮物、教えてほしいわ」
「いえそんな。本に載っている、そのままです」
「ううん。おじいさんと話してくれたこと、感謝してるの。あの後、家に来たんだけど……今まで見たことが無いくらい棘が無かったわ」
「良かったです、でも本当に、食事をしただけです」
それに大事なことを言い切ったのは結菜だ。私は場所と食事を作っただけ。
口を開いたらくそじじいばかり出てきそうになって笑ってしまったけど、どうしようもなく瑞樹を愛しているのが分かった。そしてその苦しみも。
瑞樹のお父さん……稔さんは私に静かに頭を下げた。
「……正直、結菜ちゃんが親父と話してくれて助かったよ。瑞樹と結菜ちゃんは長く一緒にいたのにこんな事になって、どうしたら良いのか分からないでいたから」
その頭の低さから、真面目な性格が分かる。
有名監督を輩出している久雄さんの息子なのに、野球ではなく、同じ会社で営業をしている稔さんの気持ちを想像して、少し心がチクりと痛む。
毎日肘のことを聞くのも仕方ないと思ってしまうのは事情を知りすぎたせいね。こうして何も言えなくなっていくのだ。
人の気持ちは人を縛る。それは愛しているからこそ、何よりも強く縛る。知れば知るほど言えない言葉が増えていくのを、私は知っている。
こんな世界でずっと稔さんを愛している昌子さん。こんなふたりに愛されている瑞樹なら、きっと自分で選んだ道を進んでいくだろうと思う。
それが野球なのか他の道なのか分からないけれど。
やがて稔さんと昌子さんは家に帰っていった。私は瑞樹を部屋に呼んだ。
私の予想が正しければ、あと1時間もない。
どういう風に私たちが死に、どのように結菜たちが戻るか、それは知らされてないからだ。
昨日は疲れたから瑞樹とゆっくりしたいと伝えると、お互いの両親は笑顔で許してくれた。
瑞樹は部屋に入り扉を閉めて目を丸くして笑った。
「結菜、おつかれさま。めちゃくちゃ本気だして料理作ったな。おじいちゃん驚愕してたよ、料亭より旨かったって」
「たぶんやりすぎたわ。だってもう最後の料理じゃない? もう楽しくなってデパ地下でいつもは買わない調味料と、高級食材をたくさん購入したわ。見て、レシート」
「おお、長い。これは過去の遙なら絶対にしない富豪の買い物だな」
「伊勢エビは一度だけお店で捌いたことあったんですよ、それが活かされました。出さなかったですけど中の味噌がもう美味しくて日本酒が飲みたかったですよ」
「ああ~。遙はカニも味噌が大好物で、お祝いの時には食べてたな」
「そうですよ、すごく美味しかったです」
私が笑顔で答えると、瑞樹は私の手を握り目を細めた。
「最後に楽しめて良かったな」
「優太朗を、あの後に呼ぼうと思っていたのに、お風呂に入ったら21時には寝てしまいました」
「驚いたよ。ずっとLINEが既読にならなくて。心配して夜お父さんたちと見に来たらもうぐっすり眠っていた。でも疲れたんだろうってみんなで話してた」
「おかげですごく元気な状態で結菜に身体を返せそうです。瑞樹はどう?」
「俺も体調はいい。もう恐怖もない。ただ……結菜にもう少し触れたいな」
「もう。昨日のこと、まだまとめてないんですよ」
「昨日辺りから見られてる感じがする。なんか変なんだ。口をついて知らない事実を言ったりする」
「! 私もです。そうですよね。昨日あたりから見られている気がします。だったらそこまで細かいレポートは必要ないですかね」
私は書いたノートを瑞樹に見せた。
昨日作った料理の手順や、買ったお店。それに私が何を話したか……事細かに書いた。そして私が想像する久雄さんの対応方法も。
あの人は頭が良い。だから子どもが理論で立ち向かうのは、不可能だ。
そういう人は仕事先にたくさんいた。ああいうタイプは石を投げると、もっと大きな石を投げてくる。だからきっと教えを請うのが正解だ。
出来ないことは出来ないという。無理なものは無理だ。方法を教えてほしいと聞く。
石頭の人間こそ、素直に頼ってくる人を適当に扱えないはず。懐に入ってから突破口を探したほうが良い。
もちろんこの先も付き合うのなら……だけど。
瑞樹と私は遺書を書き終えて机の上に置いた。もういつ何がおこってもおかしくない。
そしてふたりで布団に入った。
身体を密着させるとひとつになったみたいに気持ちが良い。目の前に瑞樹の綺麗な顔がある。
肌が黒くて綺麗な肌。私は両手でその顔を包んだ。
瑞樹は、
「……冷たい。冷たいな、これは結菜の手じゃない、遙の手だ」
「そうね。これは私の手ね」
「今も忘れられない、君とはじめてした時のことを」
「私の部屋だったわね」
「そう。遙の部屋。仕事終わりにさ、ああ、桜が咲いていたよ。遙の部屋の二階からさ、桜の木が見えただろ」
「ありましたね。ありました。大家さんに掃除をいつも頼まれて大変だったんですよ」
「遙を抱きたくて、どうしても抱きたくて。仕事終わりに送るって言ってついて行ったんだ。その時に電灯の下で桜が舞っていたのを覚えてる」
「満開の時期でしたね。暖かい春で、早くから咲き始めて。チラチラと舞っていた気がします」
「そうだ。雨がふった次の日だった。水たまりに桜の花びらがたくさん落ちていて、それを飛び越える遙を抱き寄せた」
「そんなことありましたね。そうでした。そのままキスされて、家の中に入りましたね。もうあなたったら必死で、まだ靴も脱いでないのに私を抱き寄せて、壁に押しつけて」
「ずっと好きだったから、もう我慢できなかった」
「しかもあのとき私、結構脱ぎにくい紐のブーツだったんですよね」
「そうだった! そうだったよ。なんか脱げなくてな。ふたりでキスしたまま、どうしようみたいになってて」
「ありましたありました。結局キスをやめて座ってブーツを脱いだんですよね」
話している間にどんどん呼吸が苦しくなっていくのが分かった。
そして過去の世界に戻っていく。はじめて一緒に目覚めた朝に、窓の外の桜を見た。私が簡単に作った朝ご飯を美味しいと食べた笑顔。
マグカップがひとつしかなくて、優太朗は湯飲みでコーヒーを飲んでいて、帰りに買ってこようと決めた朝。
私はこの人とずっと一緒に朝ご飯を食べるんだと決めた朝。
私の冷たい手に、もっと冷たい指輪を入れて結婚してほしい、君以外考えられないんだと抱きしめてくれた夜。
嬉しくて泣く私の頬から落ちる涙を指先で何度もぬぐってキスしてくれた優しい唇を今も覚えている。
優太朗は私の手を両手で包み、
「……杏樹が生まれた日もさ、陣痛で苦しんで、顔も真っ赤なのに、手は冷たかった」
「ああ、そうでしたね。私が怒りましたもん、つらくて叫んでるのにそんなこと言うから」
「いつも通りだって、大丈夫だって、いつもの遙だって伝えたかったんだ」
繋いだ手からあらゆる感覚が過去に遡る。そして生まれたばかりの杏樹が見えた。可愛い可愛い杏樹。
優太朗は忙しかったけど、家にいるときはいつも杏樹を抱っこしていた。
我が家の三軒隣にはピアノ教室があり、練習中のピアノの音が小さく聞こえてきていた。それに合わせて優太朗は歌いながら杏樹を寝かしつけた。温かい手で背中を撫でて優しく優しく。
幼稚園に入っても夜を怖がるから、ふたりで杏樹を挟んで一緒に眠った。もう眠ってほしいのにベッドの上でダンスして、ぬいぐるみで私のマネをしてみたり。
朝着た服のここがお気に入り、お昼のお弁当の卵焼きが美味しかった話、お迎えのときブランコに並んだこと、帰りのスーパーで買って食べたアイスの冷たさ。
杏樹が眠りにつくまで、私たちが三人でずっと話したあの寝室。
いつまでも続くと思ったあの日々は、杏樹が今日からひとりで眠ると言い出した日に突然終わった。
私たちは仲が悪く、決して良い親では無かった。今までのことを優太朗と共にノートに書き、謝った。本当につらい思いをさせてごめんなさい。
それでも杏樹のことを愛していると書き綴った。
杏樹が好きな料理のレシピを書けるだけ書いた。チキンカレーにハンバーグ、餃子に唐揚げ。全部私が作ったものが一番好きだと言ってくれた。
私が思い出せる杏樹の良いところも、全部書いた。どんなことがあっても笑顔で優しい、どこか冷静で正しくて美しい子。
一緒に行った場所も、服も、思い出も、思い出せる限りの愛を書いた。
この先祝えない誕生日のメッセージも書いた。毎年読んで思い出してほしい。もう一緒に居られないけれど、優太朗、杏樹、あなたたちと生きられて、
「本当に幸せだった」
そう伝えた瞬間、足先から痛みが燃え上がるように駆け上がってきた。
その炎は膝から太もも、お腹から心臓を貫き、内蔵をえぐりとり、頭の中まで一気に痺れさせて全身に鳥肌がたつ。
痛いという次元ではない、身体が燃えている。
戻った。
ここは間違いなく病院だ。
張り付いたように重たい瞼を引き剥がすように開くと、白い天井と人の影が見える。
ゆら、ゆら、と揺れるその影だけで分かる、杏樹だ。あらまあ、さっきまで幼稚園児だったのに大きくなって。
私は口元についているマスクを引き剥がした。アラームが鳴り響くのが分かるけど、もう聞こえない。
杏樹が泣きながら叫び、次々と医者が来るのがみえる。いらない、もう無理よ。
私は杏樹の手を握った。そして空気で乾燥して張り付いている喉から言葉を絞り出す。
「……可愛い杏樹。やっと会えた。こんなに痩せて。ちゃんと食べて? 私の娘に産まれてくれてありがとう」
杏樹が髪の毛を振り乱してお母さんと叫んでいる。口の動きで分かるわ。
そして杏樹は振り向いた。
そう、すぐ近くに優太朗がいるのね。
私は身体を動かすことだけを考えた。引っ張られる、地面に、ベッドに。それほど大量の管が自分についているのが分かる。
動けるような状態じゃない、それでも動くと決めたのだ。
そのまま横を向くと優太朗がいた。傷だらけでボロボロで片目しか開いていない。でも気がついたら私も同じような状態だった。
でも会いたかった、会いたかったわ、優太朗。
私は手を伸ばす。
もう少し、もう少し。
あとほんの少しがすごく遠い。
でもずっと、あなたに、あなた自身に触れたかった。
優太朗もそれに気がついて手を伸ばしてくる。
もう少し、ほんの少し。
指先を伸ばして、優太朗に触れた。
温かい。
優太朗の手。指先をなんとか絡める。じんわりと体温が伝わってくる。
ずっとずっと触れたかった。
でもなんでしょう、やっと見えたあなたの顔、傷でボロボロじゃない。
「優太朗、こんなに怪我して。痛くないんですか? 早く治しましょう」
「そうだな、遙。早く治して、一緒に出かけよう」
そう行って私の意識は途切れた。
どんどん沈み行く世界で、私たちは手だけは離さず、落ちていくと決めた。
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