第12話 2日目 20時16分 思い出の場所と味を求めて

「三時間……どうする、瑞樹」

「そうだな、だったら東京タワーに行かないか?」

「!! 初デートの」

「そうそう。二十年以上行ってないけど、今も想い出の場所だよ。最後に結菜……いや、遙って呼んでいいか。二人きりでデートならそう呼びたい」

「いいわよ、優太朗」


 私はそう言って手を伸ばした。優太朗は私の手を優しく握って腕ごと引き寄せた。

 中は私なのに、その私を引き寄せるのが肌がよく焼けたカッコイイ男の子という現実になれないような、少しなれてきたような、曖昧ささえ気持ちが良い。

 明盛大学で菱沼さんと話し、地下鉄の駅で別れた。菱沼さんはそのまま「瑞樹の親父さんとお母さんに話してくるよ」と家の方向の電車に乗っていった。

 誠実な人で瑞樹が頼りにするのがよく理解できた。

 信頼できそうな大人がふたりの近くにいることが嬉しい。


 デートの目的地を東京タワーとした場合、最寄り駅は地下鉄のどこかになるのだが、私たちはなんとなく浜松町駅を目指した。

 私たちが付き合いはじめた時、はじめてデートに行こうとなったとき「やはりデートは東京タワーなのでは」というよく分からない考え方で選んだ場所だ。

 夜景ロマンチックデート……それっぽい。そんな短絡思考で選んだ場所だったけど、こうして再び行こうと思えるほどには記憶に残っている。

 東京タワーの周辺には、たくさんの地下鉄の駅がある。

 それにバスもたくさん走っている。あまりに多くの選択肢に戸惑い、一番わかりやすい浜松町の駅からふたりで歩いて行ったのだ。

 私たちは手を繋いで自然と山手線を目指した。

 優太朗は私を腕ごと引き寄せて頬にぐりぐりとおでこを押しつけてため息をついた。


「……きつい。さっき聞かされた話がきつすぎて、立ち直れない」

「分かるわ。だからみんなあんなに口をつぐんでいたのね。それに私たちが普通の空気で一緒にいるのも……あんなことがあった後だと妙ね」

「学校にいるやつらからしたら、監禁してた女の子と、試合に出られなかった男の子が事故にあって、そのあと仲良くしてるんだ。もう意味が分からないだろうな」

「本当にそうね。でも……涼花の気持ちも、孝太の気持ちも分かるわ。少しずつ崩壊は始まっていたかもしれないけど、それでも完全に事件としてなり立ってしまう監禁を忘れているなら……と願ってしまうわね」

「なあ遙。今日聞いたこと……みんなの前では知らないままにしよう。俺たちは何も知らない、聞いてない、その方が周りも助かるだろう」

「そうね。そのままのがいい」


 長く長く。それは地層のように積み重なってきた不安や恐怖、そして思いが、二ヶ月で爆発したのだ。

 有名監督のおじいちゃん。夢を諦めた息子であるお父さん。そして病弱なお母さん。そして期待ゆえに怪我をしてしまった瑞樹。それを知って黙っていられなかった結菜。すべての思いが絡まって、どうしよもなくなっていた。

 たった一言、何も知らなかった優太朗が平然と言い放ってしまった「肘が痛いんだけど」。あの一言が言えたら。

 ……ううん。こんなことにならなかったら、瑞樹くんはだまし続けたでしょう。そして最後まで近くにいたいと愛し続けた結菜も離れた。


「……結菜は、本当に死ぬ気だったのかもしれないわね。それで最後に会いたくて瑞樹くんを呼び出したのかもしれない」

「わからないな。死ぬ気だったとか……おいそれと妄想で話すことじゃない。絶望してたのは間違いないと思うけどね」

「でも死んだ時に会った……私は木彫りの人形だったけど、その言葉を覚えてる? 忘れられないのよ。抜けやすい魂と、そうじゃない魂があるって」

「そうだな。結菜と瑞樹のほうが死を願っていた可能性はあるな。俺たちは全くその気がなかったと」

「そりゃそうですよ。離婚届を出したくて、それしか考えてなかったですから」

 

 今のあの鉛色の雲と、足下を打ち付ける雨を覚えている。

 見ていないのに、今見てきた映画のワンシーンのように、あの雨の中地面に転がる私と優太朗を描くことができる。足下に転がる印鑑と離婚届が雨に濡れてぐずぐずと崩れていく。思考の海に沈み私の手を優太朗が握った。


「……瑞樹の身体に戻った瞬間、俺が思ったのは、離婚届を出す前で良かった、だ」

 

 その言葉に私は優太朗を見た。そこに居るのは端正な顔つきの瑞樹だが、私の目をのぞき込む優しさも、気持ち以上に伝わる視線の強さも、ぜんぶ優太朗だった。

 私は優太朗の腕を引き寄せて胸元に入る。そしてそのまましがみつく。

 そして壁側にそのまま優太朗を押していく。

 ここは駅構内だ。人がたくさん私たちを見ている。

 それでも、心が抑えきれなかった。

 優太朗は戸惑いながら、私をゆっくりと抱きしめてくれた。私の背中を優しく撫でて体温を移すように自分の世界に馴染ませるように、優しく掌を置いていてくれた。

 そして両腕を背中に回して、身体全体を抱きしめるように強く、優しく。

 私の身体を確かめるように、何度も強く抱きしめた。

 私は抱きしめられながら言葉を吐く。


「こんな風に、あなたとゆっくりデートを重ねていたら、こんな風に思いつくまま抱きつけていたら。もっと言える言葉が多かったはず」

「そうだな。その通りだ。何を考えているのか分かるからこそ、安易に触れられなくて、距離も分からなくなって、言葉が消えていった。今なら分かる。何を考えているか分かっても聞くべきだった。聞いてくれると、俺が開いていると、そう安心させるべきだったんだ。君の辛い気持ちを理解しているからこそ、何も言わなかった。俺たちはきっとずっと同じ気持ちを抱えていた」


 その言葉に隙間に押し込んで見えないようにしていた気持ちが顔を覗かせる。お互いに分かっていた。お互いにつらいねってただ無言で思っていた。事実辛かったけどそうじゃなくて、それを一緒に両手にもって「ほら」って見せ合うべきだったんだ。せっかくずっと一緒にいたのに。隣にいたのにただ背中合わせで、空に舞い上がる赤い風船を眺めていた子どものように。飛んだね、消えたねって話すべきだった。小さなことを全部ちゃんと見せるべきだった。話せる相手だとお互いが知るべきだった。

 心の真ん中にあった重たいものが、ゆっくりと消えていくのが分かる。

 ずっとずっと言葉を押しとどめていた何かが、外れた。

 私はため息をついて苦笑した。


「……しかしまあ、なんであんなに静子さんはおかしくなっちゃったのかしらね」


 その言い方は、午後のファミレスでドリンクバーを飲みながらやる気がなく吐き出したような適当さで。

 それを聞いた優太朗が爆笑する。


「……あははは!! そうだよな。それをちゃんと……」

 

 それだけいって優太朗の顔はくしゃくしゃとゴミ袋に捨てる前の紙の塊みたいになって、地面に投げ捨てた縄跳びみたいに歪んだ唇で、


「あのときにこうやって適当に話すべきだった。真剣じゃなくてさ、適当に、雑談みたいに。なんだったんだろうな、あれは。親父を好きなのは分かるけどさあ。完全に妄想の領域だったよな」

「妄想って次元じゃないですよ。一時期はすべてのものが私を責めてるように見えるって言ってて。あれは完全に精神病の症状でした。それなのに薬も効かなくて」


 静子さんは冷静な時間になると、自分がおかしいことに気がついていた。

 だから色んな病院に通い、薬を試していた。

 優太朗は静かに首を振った。


「遙はいつも病院に連れて行ってくれたのに……全部任せて、見ない振りしてた、ごめん」

「一緒に行っても無駄だと思ってました。だって私がいたって変わらないんですから、優太朗がいたってもっと変わらないでしょう。でもすごく辛かったから、一緒に行って、気持ちを半分にすれば良かったですね」


 精神病院や、心療内科の待ち合わせ室で、いつもひとり。

 膝の上で掌を強く握って、その時間を耐えていた。

 優太朗は、私を再び強く抱き寄せて、


「俺も統合失調症の患者の本とか読んで、調べて、どうしたらいいのか、どうしたら元に戻るのか、そして遙と杏樹と母さんと俺、四人笑顔で暮らせるか、そればかり考えていた」

「……ええ。私も。私もですよ。まったくもう。同じなのにどうして何の話もしなかったんでしょうかね」

「あははは!!」


 優太朗は私を抱きしめたまま、心底楽しそうに声をあげて笑った。静子さんがおかしくなってから、こんな風にふたりで笑ったことなど数えるくらいしかない。

 ううん……たぶん無かった。苦しみながらひとりで死んでいった仁さんのことを思うと、笑うなどできないと思っていた。夜中、誰もいない寝静まった時間に、仁さんが倒れていた廊下に何度も転がった。ここに転がって胸元をかきむしりながら、身体に傷が残るほど喉元を掴みながら、どんな景色をみていたのだろうと。それが分かれば、私はもう一度笑ってもよい気がしていた。


「……完全に病んでたわ、私のほうが」

「俺もだな。あれはアカンな」

「ねえ?」


 私たちは抱き合ったままあの頃話すべきだったことを話し合い、埋め合い、言葉を繋げた。もう全てが遅いけど、遅くないのだと思い知らせる。

 結局蓋をしたまま死のうとしていただけで、皮膚の下にはじゅくじゅくとした痛みが残ったままだったのだ。その痛みが少しずつ減っていくのが分かる。

 ふたりで手を繋いで浜松町から歩き始めた。この道は真っ正面に東京タワーが見えて、そこに向かって歩けば良いのだと知らせてくれるのが好きだった。


「ねえ優太朗。あのラーメン屋さんあるかしら。お腹が空いたわ。この身体やたらとお腹がすぐのよね。菱沼さんと話してるときもミックスサンド食べたい……って最後には思ってたわ」

「わかる。めちゃくちゃ腹減るよな。あのラーメン屋ってあれか。俺たちが帰り道に我慢できずに食べた店だな。オシャレなフレンチ食べたのに全然足りなくてな」

「そうですよ! オシャレで素敵な店だったけど、量が少なくて!」

「そうそう。あの頃は『全然足りなかった』って言い合えてたな……食べたいな、あるかな」

「行ってみましょう。私ね、今お財布に入ってるお金は結菜ちゃんのお金だから……って思ったんですけど、よく考えた私たち、かなりのお金残して死にましたよね?」


 ちょうど離婚するために財産をすべて洗い出していた。

 私は静子さんと仁さんが暮らした家を売ってよいのかずっと苦しかったけど、杏樹に「この家要らないよ。私絶対住まないし」と言われて目が覚めた。

 杏樹にとっても良い想い出はすくない家となっていたと気がついて売りに出していたが、更地にしたほうが売れるかもしれないと言われて工事を申し込んでいた。

 買い手が来ていると連絡も入っていたし、かなりの金額になるだろう。

 何が良かったって、離婚ついでに遺産相続の手続きも済ませていて、私の分はすべて杏樹にしてるから何の問題ない。

 

「私、毎日ノートに状況を書いてるんです。だから使ったお金もレシート共に貼り付けておきます。それを私たちが死んでから杏樹に精算してもらいましょう。暗証番号もパスワードも書いておけば、さすがに信じるでしょう」

「信じる?! このわけがわからない状況を? でもまあ、100万円とか使うわけじゃないし、いいよな」

「良いに決まってますよ。さあ行ってみましょう」


 話ながら浜松町に到着して、まず驚いた。駅が全然違う。

 こんな大きな駅では無かった。もうどこから出て良いのか分からない。

 幸い東京タワーの表示が見えたので、表示に従って駅からなんとか出て、再び驚いた。覚えていた景色と全く違う。ほぼ知らない街になっていた。

 優太朗と私はまるでお上りさんのように口をぽかんと開けた。


「……ここは浜松町、よね?」

「そうだな、合ってるんだけど……俺たちがきた時と全然違うな」

「こんな大きなビル、無かったですよね?」

「モノレールって、こんな風に行ったか? 全然覚えてないな」


 ふたりして方向さえ見失いそうになったけど、今はGoogleマップがあればすぐに分かる。

 駅から外に出てしまえば、東京タワーが遠くに光って見えて、あっちの方に歩けばよいとすぐに分かった。

 方向は分かるけれど、ある店はすべて変わっているように見えた。

 ラーメン屋さんも、ここら辺にあった気がするという記憶があるだけで、そこに店は無かった。仕方なく歩いていると別のラーメン屋さんが見えた。

 さっきラーメンの話をしたこともあり我慢出来なくなり、優太朗とふたりで入ることにした。

 店内に入ると、油の匂いが食欲を刺激する。

 もうここ何年も外のラーメン屋で食事をしたいと思わなかった。

 お店のラーメンは味が濃く、油も多い。だから半分食べただけで、胃が辛くなってしまうのだ。だからこんな風に匂いを嗅いだだけで食べたくなる……これこそが若い身体だと納得してしまう。

 それにお店の人たちがラーメンを手際よく作っているのも見えてワクワクしてしまう。油がたっぷりついたメニューに、少しベタベタしたままの机。飲み放題の水に入った氷と、チャーハンを勢いよく炒める音。全てが懐かしい。

 店内を懐かしく見ながら出てくるのを待っていると、隣のサラリーマンたちは餃子を食べながらビールを飲んでいるのが目に入った。


「……すごく美味しそう。優太朗と外でビール飲んだのって何年前かしら」

「誰かの葬式だったんじゃないか?」

「現実味がありすぎてげんなりしてきたわ」

「遙と俺が一緒に出かけて酒飲むなんて、それくらいしかないだろう。それに隣では飲んでないだろうな。ああいいな、ビール」

「ですよねえ。でも高校生の身体で、しかも優太朗は瑞樹の将来有望な身体ですよ、何を言ってるんですか」

「飲みたいって言い出したのは遙じゃないか。死ぬ前に飲めないかな」

「ちょっとまってくださいよ、病院の私たちの姿覚えてます? なかなかすごかったですよ。あんな状態で『ビールください』って最後に言うんですか? アル中じゃないですか」

「面白そうだ。ああ、ラーメンだ、旨そう」


 私たちはビールを諦めて割り箸を割り、ラーメンを食べた。

 それは味が濃いラーメンで、大きなチャーシューが四枚も乗っていた。そしてモヤシもネギもたっぷり。卵も半熟で、麺も太い。

 遙と優太朗の身体では、絶対に食べきれないようなものだったが、この身体で食べると美味しくて、ふたりで汁も飲み干し、顔を見合わせて笑ってしまった。全てが新鮮だ。


 そして手を繋いで東京タワーに向かって歩き出した。

 遠くに見えるのに意外と近くて、それでも遠い。でも歩いていると近付いてくるキラキラと輝くオレンジ色のタワーを見ていると、目的地に向かって明確に歩いている感覚が気持ちが良い。あそこにいくのだ、と迷いが消える。

 

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