第11話 2日目 19時9分 喫茶店で知った過去
「……なるほど。監督から『瑞樹がなんか変だから見てやって』って電話があったから、ついに肘のことがバレたかと思ったけど違ったんだね」
少し冷たい風がふく道を菱沼さんと私と瑞樹の三人で歩く。
菱沼さんは私たちが記憶がないというと「ここで話す話じゃないな。喫茶店に行こう」と歩き出した。
つまり大学関係者には聞かれたくない話……私たちはうつむいて小さな声でずっと話している。なんだかとても悪いことをした容疑者のように小さくなって背中を丸めて。
肘の事がばれた……つまり瑞樹くんは昔から肘が痛かったのだ。それを知っていたのはトレーナーの菱沼さんだけ。
当然だ。触れただけでどういう状況の事故にあったのか分かる人に痛みは隠し通せない。
黙って薬をくれて注射を打ってくれる時点で味方だろうと私と瑞樹は判断した。
中に別人が入ってるなど誰も信じられない話は出来ない。それでも肘に注射を打ってまで野球を続ける家に、どうしても疑問がある。
瑞樹は考えながら言葉を吐く。
「……夏の予選前までは覚えてるんですけど……一体何があったんですか? 俺たちが記憶がないと言うと『それならそれでいい』としか言わない」
「言いたくなる気持ちも分かるな。本当に地獄だったからな。いや、大切なことだ。薬を渡してたのは俺だから、俺がちゃんと話すよ」
そう言って菱沼さんは地下鉄の駅にある喫茶店に私たちを入れた。
そこはマスターひとりしかない洞窟のような店で、たまに地下鉄が通るたびに、どぉん、どぉんと波のように音を運んでくる。
そのたびに机が小さく揺れてオレンジジュースがかたたたたと振動して揺れる。
「上手くいかないものだよね……すべての歯車が悪いほうに回ってしまった結果だ……」
そう言って菱沼さんは語り始めた。
瑞樹のお父さんのお父さん……おじいちゃんは大学野球で頭角を現し、今は社会人野球の名誉監督を務める人らしい。
お父さんはあまり才能がなく高校生の時には野球をやめた。
傷心のお父さんを支えたのが、瑞樹のお母さんだった。
ふたりは結婚を考えたが、お母さんは身体が弱く、おじいさんは反対した。
おじいさん曰く、子どもの運動能力はお母さんから強く遺伝する。つまりお父さんに運動の才能があっても、子どもは強く生まれない。お母さんのほうに高い運動能力が必要で、そういう人と結婚しないと駄目だと強く言ったようだ。
でもふたりの意志は強く、やがて瑞樹が生まれた。お母さんは出産で体調を崩し、そのまま数年立つこともできないほど衰弱。
何年も入退院を繰り返した。
それでも少年野球をはじめて頭角を現す瑞樹をみて、元気になっていった。
お父さんは自分には野球の才能が無かったことをやはり悔しく思っていたことを瑞樹は知っていた。
なにより身体を痛めたことをお母さんには知られたく無かった。せっかく元気になってきたのに。
なにより瑞樹は野球が好きで、おじいさんに弱さを見せられず、出来る孫を演じ続けた。
無理をし続けた肘は緩やかに壊れ続け、瑞樹の肘は三年生の夏直前にもう限界だった。
菱沼さんは何度も止めた。この状態で続けられるはずがない。甲子園まで行ったとしても、その後なにもできなくなるぞ。
それでも瑞樹は「甲子園に出れば、ノルマクリアです。その時点で話もするし、ちゃんと検査しますから」と言って薬を頼み、注射を打ち続けた。
菱沼さんはコーヒーを飲み、
「今も覚えてるよ、七夕だったな。7/7。商店街の短冊に瑞樹が勝てますように……って書いてたからさ。あの日結菜ちゃんから電話がかかってきてさ。瑞樹が吐いててヤバイって。この番号にかけてくれって言われてるけど、何なんだって」
「えっ……」
「痛みからかなり多くの薬を飲んだんだ。すぐに結菜ちゃんが俺に連絡くれて助かったけど、その時に結菜ちゃんが全てを知ってしまった。吐いて倒れている瑞樹をみた結菜ちゃんは……もう半狂乱だったな。泣いて狂って叫んで、全部捨てろって薬をトイレに流して。正直どうにもならない状態だった。そして迎えた夏の予選……結菜ちゃんはさ、言葉たくみに瑞樹を呼び出して、私を殴って縛らないと行かせないってホテルに閉じ込めたんだ」
「そんな……」
「瑞樹くんは結菜ちゃんを痛めつけることなど出来ず、説得し終えるころには試合は終了してた。結菜ちゃんはもうあんな風になってほしくない一心だったと思う。そして瑞樹がいない中山は負けた。夏休みに入ったのもあり結菜ちゃんはおばあちゃんの家に連れて行かれた。ふたりの接触は許されず、結菜ちゃんはおばあちゃんの家を抜け出して瑞樹くんに会い……ふたりは事故にあった。これが瑞樹くんと結菜ちゃんが忘れている二ヶ月だ。地獄だろう。忘れたくもなるよ」
私は頭を抱えて泣いた。
お父さんのこと、お母さんのこと、そのふたりとおじいさんの関係。ひとりで頑張っていた瑞樹が可哀想すぎる。
自分さえ頑張れば……と秘密にしていたが、結菜はそれを知ってしまい、我慢できなくなったのだろう。
菱沼さんは続ける。
「肘のことを言えば結菜ちゃんの罪は少しは軽くなったかもしれない。でも結菜ちゃんは『私が瑞樹としたくなっただけ』と言い切った。監禁から解放された直後に薬を飲み、試合に向かった瑞樹を見て諦めたんだと言っていた。私のしたことは無駄だったと。バカみたいだと。だからもう私がただの変態女でいいですって言ってた。そしてその後、ふたりは事故にあった」
私は話を聞きながらずっと結菜ちゃんのことを思い出していた。
私の所に自転車で突っ込んできた結菜。「危ない!」って。たぶん思いつくとすぐに身体が動いちゃうのね。
目の前で事故にあってる私たちを見て身体が動いてしまった。瑞樹のこともきっとそう。薬を飲ませたくない、またあんな風になってほしくない一心で閉じ込めた。
たとえそれが犯罪だったとして、頭より身体が先に動いてしまう……素直だけど危ない子。
危ないけど……まっすぐで優しい子。それが結菜。
涙があふれ出して前が見えない。拭いても拭いても流れ出る涙をそのままに私はぼんやりと地下鉄で揺れる店内で涙を流した。
瑞樹も横でうつむいていたが顔をあげる。
「……菱沼さん、俺。起きたら記憶がなくて、普通に肘が痛かったので、そう両親に伝えてしまいました」
「えっ、隠してたことさえ忘れてたのか?!」
「はい。ただ痛くて、それを隠していたとは知らず言ってしまいました」
「親父さんはなんて?!」
「精密検査に行くぞって23時にいいはじめて焦りました」
「それで深夜に着信があったのか。折り返しても出ないから何かと思ったけど……。いやまて。これはラッキーじゃないか。よしじゃあ知られたならもういい。タイミングもばっちりだ。明日にでも検査に行こう。全体の筋力がかなり落ちてるからトレーニングも始めて、それに今の時点で検査すれば……」
「待ってください」
瑞樹は声を張り上げた。
空気を揺らすように足の下を地下鉄が走り抜けていき、革靴をびりびりと揺らした。
「一週間だけ待って貰えませんか。まだちょっと記憶が混乱していて何がなんだか分からないんです。すぐに検査してとか動けないです。一週間だけ待ってもらえませんか。腕以外の筋力トレーニングはして、復帰できるようにはしておきます」
私も静かに頷く。
そうだ。詳しい症状、いつからなのか、どう痛むのか……瑞樹本人ではないと対応できない。
菱沼さんはコーヒーを飲み干して水に手をかけた。氷もすべて溶けてしまったグラスは大量の汗をかいていた。それを掴んで飲み干す。
大きな喉仏が落ち着きも一緒も飲み込むように動いた。
「……そうだな。俺もずっと検査したいと思ってたからさ。瑞樹に触れながら答えも求めてきた。どこまでの状態なのか正直答え合わせを焦っていたんだ。俺が思ってるより酷いのか、良いのか。それによって変わってくるから……でも瑞樹は今地獄の二週間を知ったばかりだ。無理もないな。むしろ一週間後なら何人か専門医の予約が取れると思う。それでどうだ」
「はい。すいませんが一週間だけ待ってください」
「分かった」
そう言って菱沼さんは伝票を手に取り、立ち上がった。
深紅の古びた絨毯を歩き、乾いた鐘の音を鳴らして地下鉄のコンコースに出た。
生ぬるい地下鉄の空気が三人の間を流れていく。菱沼さんはポケットにレシートをねじ込みながら、
「瑞樹の親父さんには俺から話をしておく。薬と注射のこと。俺は看護師の資格を持ってる理学療法士だから法には触れないけど、大切な息子さんに親の確認もなくしていたことだ」
「俺が頼んだことなのに」
「怒られやしないよ。ただただ状態を心配してると思う。あの人も身体が弱くて諦めたから。それでも親父さんは瑞樹じゃなくて、他の誰かに愚痴りたいと思うんだ。悪いけど今から三時間くらいふたりでデートでもしてきてよ。その間に俺話しとくから。俺が予想する肘の状態も話しておく。それから帰ってきてくれ」
「お手数おかけします」
瑞樹がそう言うと菱沼さんはやっと柔らかい表情になって、
「結果的に良かったよ。検査できることになって。言葉は悪いけどこのタイミングで事故にあって良かったのかもしれない。あのままトライアル受けることになったらたぶん通ってたから……そしたら検査も休養も何もできなかった。神さまがくれたチャンスだと思って今は休もう。……辛かったね。今まで無理して……頑張った」
その言葉に瑞樹はうつむいた。目元に涙が見えた気がして、私は横に立って腕を握った。
それをみて菱沼さんは、
「事故の日。ふたりがどうして会ったのかは聞かないけど、ここから先はやめてくれよ。結菜ちゃんには助けられたけど、一歩間違ったらふたりで死んでたんだ。君は身体が先に動くタイプだからこそ口酸っぱく言っておく。決めるのは瑞樹だ。君は常にやりすぎる。もう少し考えて動いてくれ。ありすぎる行動力で人を巻き込みすぎだ」
「……はい」
私は静かに頷いた。
そう、決めるのは瑞樹。
それでもこの心の奥にあふれ出してくる瑞樹が心配で、どうしよもなく心配で、無理してほしくなくて、ただ横に元気でいてほしいという気持ちは、私のものではなくきっと結菜が持っているものだろう。もう全部やめちゃいなよ。そういってトイレに薬を流した結菜の気持ち、分かってしまう。
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