第9話 2日目 12時41分 お昼休みに触れた手に

「この先が部活棟みたい。さっき孝太が連れてきてくれたんだけど……ここは昔の喫煙所みたいで人が来ないんだってさ」

「なるほど。今の時代、先生も禁煙なのね」

「俺たちの時代は職員室で教師が吸ってたけどな」

「えっ……私のころは外で吸ってましたよ」

「ここでも10年の年の差が出たな」


 瑞樹は私を校舎から連れ出して、渡り廊下を歩かせて笑った。

 10月にしては太陽がまだ近くにあるような日差しが気持ちが良い。10月は秋なのか冬なのかと考えたら夏の子どものようだと感じる。生まれて少し経って育った二歳児のような元気な子ども。

 私がいた高校の渡り廊下は木の板が置いてあり、そこをジャンプして移動したけど、ここは緑色のシートが引いてあり、その上を歩くとキュイキュイと音がした。

 ふたりでキュイキュイと音を鳴らしながら歩く。校庭でサッカーをしている子たちの笑い声が響き、体育館横でお菓子を食べている子たちがいる。

 渡り廊下に落ちている落ち葉を避けながらキュイキュイと歩いた。

 その先に小さなスペースがあり、古びたベンチが見えた。

 昔懐かしの飲料水の宣伝が書いてあるもので座ると古びた音がした。

 ベンチの前には黒く焦げた場所があり、そこに灰皿があったのだろう。

 私はベンチに座り、横にある瑞樹の腕にもたれた。まだ午前中だけど、すごく疲れた。

 事情を分かっている人と、疲れを共有したかった。

 瑞樹は私の腰を引き寄せた。左側半分が瑞樹の体温で温かい。なにより腕が細くなくて弱々しくなくて、それが安心する。

 瑞樹は水がしみ出すように小さな声で、


「……疲れた。もう学校なんてきたくない。会話についていくのが精一杯だ。結菜とふたり……最後までゆっくりとただふたりで過ごしたい……と思っちゃうけど、この瑞樹かなり大変だ。その話がしたくてここまで来た」

「何か分かったの?」

「いやもう、昨日もメッセージで話したけど、家が変なんだよな。事故でぶっ飛ばされて一週間寝込んでた瑞樹に向かって『明日明盛大学に顔を出して練習に参加しろ。コーチには話を通しておいた』ってさすがに変じゃないか。俺、杏樹がこんなことになったら身体の心配以外しないよ。学校なんて行かせたくない。それなのに朝イチから『素振りはしたのか』って言われたよ」

「無理させすぎよね」

「そうなんだよ。それにさ、なんか退院時から思ってたけど、身体の打ち身は良くなったんだけど、肘だけがずっと痛いんだよな」

「え。それは事故で……かな」

「そうだと思う。外から見てもなんともないのに、少し無理すると肘がずくずくと痛んで、勘違いかと思いたかったけどこれはぶつけたんだと思う。ヤバいな、悪いことした」

「ええ……大学まで野球するほど長く続けてる人にそんなこと……どうしよう……酷くしてないと良いけど。一週間で本人と入れ替わるから本人が病院行ったほうがいいわよね」


 瑞樹は自転車で転倒した時に結菜を抱き抱えて転がっている。その時にきっと肘を強打したのだ。結菜がほとんど身体に怪我をしていないのは瑞樹が守ってくれたからだろう。

 野球は詳しくないけれど、肘を使うのは間違いない。私たちに関わったせいで大切な身体に傷を負わせてしまったとしたら申し訳がない。

 瑞樹は私の手を優しく握り直し、


「だから父親に『事故で肘を痛めたかもしれない。何か痛いんだ』って言ったら目をめちゃくちゃ見開いて驚いてさ。すぐに精密検査にいくから車に乗れって言い出して。夜の23時すぎてたんだぞ。おかしいだろ、全部が」

「ひょっとして瑞樹の家って野球の名門とか? お父さんが昔プロ野球選手とか?」

「父親の名前で調べたら何も出てこなかった。母さんはただ泣いてるだけ。なんか変だぞ。朝もおはようより先に『肘はどうだ』って聞くから、とりあえず事故のショックでつらいから一週間は休ませてくれって伝えたら『検査が終わるまで絶対に誰にも肘の痛みを言うな』って言われたよ」

「うーん……不確定なことは言わない方がいいのかしらね。それでももうちょっと心配するのが普通な気がするわね」

「怪我の痛みもあって何も出来ないから、明盛大学にはまだ行かないほうが良いんじゃないか思って孝太に言ったらさ『顔は出したほうが良い。礼儀にうるさいじじいだから。もうたぶん三回くらい約束ぶっ飛ばしてるぜ』って言われたんだ。だから放課後行こうと思って。結菜も一緒に来てほしい」

「分かったわ。文化祭の準備もあるみたいだけど……ふたりのがいい」


 朝、教室の入り口で困っていた時、肩を抱いて声を出して守ってくれたの、すごく安心した。

 私がそう言うと瑞樹は嬉しそうに目を甘く細めて、私の手に触れて、


「……正直なこというと、この身体は元気すぎるな」

「痛くないなら良かった。余命宣告なんて……全然知らなかったから……ごめんなさい」

「いやもう過去のことはどうでもいいな。わりとこの一瞬一秒がめちゃくちゃ大切で……目の前にいるこんな可愛い子が俺に自然と甘えてくれてるのがすごい。やばい高校生楽しい。正直このまま高校生の身体で結菜とアベックしたい気持ちがすごい」

「ちょっとまって、今アベックって言った? アベックってもう誰にも通じないと思うの。死語どころじゃないと思うの」

「恋人か」

「そうね、そっちならギリギリ……? カップル? なんて言うのかしら?」


 そう言って私は瑞樹の手を取った。

 過去をそう簡単に忘れられないのは間違いないけれど、高校にきて不安な時にしっかり守って貰えると、ただ嬉しい。

 それに静子さんから離れると、優太朗なりに愛そうとしていた事を思い出す。同時にそれを見ていなかった自分の過ちも。

 私たちは自然と手を繋いで、舞い降りてくる落ち葉や、昼休みのチャイムを聞いて昔を懐かしんだ。

 古びたベンチのきしむ音も飛び出しているトゲも全部愛おしい。



 そして私たちは放課後、明盛大学に向かうために高校を出た。

 明盛大学は大学野球の名門チームで、瑞樹のスマホにもコーチの連絡先が入っていた。そして事故にあった後もLINEをくれていたようだ。

 見ると体調を心配して、何より怪我を心配している。瑞樹はそれを見ながら、


「孝太はトライアルの話だと思うって言ってた」

「トライアル?」

「そう。大学の野球部はほとんどコネクションで入部が決まるんだって。野球部の部長と知り合いかどうかとか」

「そんな世界なのね。スポーツなんだから実力だと思ってた」

「な。俺も意外だったんだけど、コネがないとトライアルも受けられなくて、受けたらまあ合格するらしい」

「それは本当の瑞樹くんに受けてもらわないと人生台無しにするわよね」

「そうだよ、俺がそんな大切なもの受けられるはずがない。実は家にあったからボール握ってみたんだけど……なんだか身体は覚えててさ、変な感じだった」

「小学生の時からずっとでしょ? それって優太朗でいうところの読書とか?」


 優太朗は読書が何より好きで、常に活字を追っている人だ。

 私が働いていた店でも優太朗はずっとメニューを見ていた。そんなの読む所なんて無いはずなのに小さな文字まで全部見ていた。

 それを面白いなと思った私は優太朗のために日本酒の細かい紹介メニューを作っておいたら、すごく楽しそうにそれをずっと飲みながら飲んでいた。

 それを話すと、


「ああ。懐かしいな。あのメニュー。ウンチクがたくさん書いてあってすごく面白かったよ。俺ははじめて店で遙を見た時から可愛いなと思ってたから。『いつもメニュー見てるなと思ったから作りました』って言われた時、家で踊ったもん。嬉しくて」

「……飲みながらいつも何か読んでるから、だったら私が書いたものを読んでほしいなって思ったのよ」

「言ってくれたら良かったのに。もっと読んだのに」

「そんなの恥ずかしくて言えないわよ。作れって言われたって誤魔化したもの」


 あの頃は言えなかったことが、姿も違い、あと6日で死ぬかと思うと恥ずかしげもなく言える。

 伝えたら喜んでくれるということより、恥ずかしさが勝っていた。自分をよく見せたい、そう思っていたけど……それよりもっと繋がれば良かった。

 でもそれは結果論。だから今は話をしようと思う。

 過去に話せなかったことをひとつでも多く。


「はじめて優太郎の部屋にいった時も驚きましたよ。本棚がすごくて」

「そうだったな。俺の部屋にはじめて入ったとき、遙はすごく驚いてた」

「だって壁一面、天井まで本があって、そのすぐ横で眠っているから」

「俺にとっては、それが日常だったけど、たしかにあれは怖かったかもな」

「そうですよ、地震が来たら危ないですよ」

「遙にそう言われて、場所を移動させたんだよ」

「ベッドの位置を変えたんですよね、入り口すぐの所に」

「本棚ばかりで、他に置く場所が無かったからな」


 そういって笑った。

 部屋には2000冊以上の本があり、はじめて部屋に入ったとき、その本の多さに驚いた。その部屋に私を座らせて「これは読んだことある?」「これを読んでみてよ」と私に色々な本を貸してくれた。

 最初私たちには共通の話題が少なかったが、貸してくれた本を共有して、感想を話し合うことで打ち解けていった。

 あの日々のことを、ちゃんと覚えている。

 私は瑞樹の手を握った。


「……まだ戸惑っているけど、こうして昔の日々を振り返って、綻びてしまった時間を繋げるのは嬉しい」


 振り向くと目の前に瑞樹の顔があり、そのまま両腕を掴まれて引き寄せられた。

 おでこをコツンとしてぐりぐりと頭を押しつけてくる。


「……死ぬほど嬉しい」

「もう死んでますけどね」

「死んでるジョークが言えるほど余裕が出てきたなら、もう少し触れたい」

「もう、すぐ調子に乗る。ダメよ、借りてる身体なんだから。逆に考えてみてよ。私たちの身体に誰か入って好き勝手してたらいやでしょう」

「このふたりセックスしてたんだろ。少しくらいいいじゃん」


 いいじゃん? そんな軽い言葉を優太朗は絶対使わなかったのに。

 そんなことが楽しくなってしまい、私は笑ってしまう。


「サイテーです、サイテー。杏樹が高校生でそんなこと言ってたらどう思うんです?」

「男を殺す」

「お父さんに殺されますよ、あなた。あ。でも杏樹は高校生の時彼氏いましたよ」

「……初耳だが」

「知らないまま死んだほうが良かったことが世界にはありますね。卒業旅行もふたりで行ってますよ。遊園地。私はお土産を貰いましたが」

「初耳なんじゃが?!」

「じゃがってなんですか。仕事ばかりして家に居なかったじゃないですか。言いませんよ」

「ぐぬぬぬぬぬ……」


 あの頃の逆襲が出来て楽しすぎる。


 瑞樹とふたりで地下鉄乗り場に向かう。

 同じ東京なので、身体も住んでいる場所も違っても、こういう所に戸惑いがないのは生活を続けていく上で助かる。

 電車に乗り込むと、夕方ということもあり、結構混雑していた。

 強引に乗り込むと、瑞樹が自然と手すりの所に誘導して大きな身体で守ってくれる。

 そういえば満員電車にふたりで乗る時も、いつもそうして守ってくれていた。優太朗は瑞樹ほど身体が大きくなく細かったけど、それでも嬉しかったな。

 身体の半分だけ瑞樹にくっ付けて顔を見ると、すごくカッコイイ男の子が微笑んでくれて、これはまだ慣れない。

 

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