第8話 2日目 10時45分 世界史と箱庭と、見えなかった愛

 教室とは箱船のようのものだと思う。

 四角くて白い。みんな前を向き、横を振り向いたり話したりしない。

 前に立つ教師の静かな声と固い芯がノートに文字を刻んでいく音が響く。

 小さく区切られていて、その他に世界など存在しないような閉鎖感があるからこそ、知識と一対一で向き合う勉強なんてことが出来るのだろう。

 他の選択肢が見えた瞬間、きっとこの箱船は周りが海だと気がついて海底へ沈む。

 思考で遊んでしまうほどには慣れないけれど、この年になって受ける授業はとても面白くて驚いた。

 大切なことを簡単に分かるようにまとめてある。一時間の中に起承転結、上手にまとめられていて万人に与えるものとして正しい。


 静子さんは心療内科にかかり、薬を長く飲んでいた。何種類の薬を試しただろう……もう覚えていない。

 一番身体にあった薬は、静子さんを深く眠らせた。糸が切れた凧のように布団にパタリと横になり、眠り続ける。呼吸を確かめるほど身動きひとつせず。ベッドの一部、そこに置かれた人形だと言われても誰も疑問を持たないほど棒のように。

 そして起きた瞬間に正気になる時が多く、私はその時間を待ち望んでいた。

 私とだけ話してほしかった。だから起きるのを横に座って待っていたかった。

 静子さんの寝室こそ私の箱舟だった。カーテンレールの上に飾られたたくさんの写真が静子さんを優しく見下ろしている。

 若い頃の静子さん、すごく可愛い。上品なワンピースを着て静かに微笑んでいる。これを撮った時の話を仁さんから何度も聞いた。

 ううん、聞かせてもらった。ふたりの出会い、ふたりのデート。ふたりの話を私は好んで聞いた。聞いているのが好きだった。

 ふたりの結婚式の写真、新婚旅行。一番新しいのは銀婚式のもので、それはベッドサイドに置いてあった。静子さんは恥ずかしがりながらもピンク色の可愛いドレスを着てほほ笑んでいる。

 はやく仁さんを連れてきてよ! と一日50回言われても、起きた時に「おはよう、遥さん。今日のお天気はどうかしら。サミットにお買い物行く? 今日の晩ご飯は何にしようかしらね」とほほ笑まれたら許せてしまう狂気と幸せの箱舟。

 私はあの瞬間を求めて、静子さんの横を離れられなかった。

 私はいつも横に座り、本を読んでいた。好きだったのは世界史。

 箱舟を愛しながら、そこから他の場所に行きたかった。

 それに長い歴史を読んでいると自分の人生などちっぽけに感じられてそれも好きだった。たいしたことではない、ありふれた不幸に自分をはめ込みたかった。

 よくある不幸なら耐えられる。そう思いながらただ世界史の本を読んでいた。

 四冊も、五冊も読んで気がついたのだが、一部を細かく読むか、全体を読むか、本によってかなりちがう。私は世界のことをなんとなく全体的に知りたかった。適した本が分からず困っていたけれど、今目の前で展開されている世界史の授業は、まさに平等に説明される世界史の話だった。

 すごく面白い。何がどう、どこに連動しているのか、よくまとめられていた。

 しかし結菜の教科書は開いた形跡は薄く、ノートに至っては開いてもいなかった。本当にこれはただの母親目線だけれど……教育費の無駄だわ。

 私はなぜかみっちりと詰め込んであった文房具を使ってノートを書いた。シャーペンのように細い消しゴム、カラーのシャーペンの芯。どれもこれも私が高校生の時には無かったものだ。ノートに書くという行為そのものが気持ち良く、黒板をそのまま書き写した。

 学生だったころにもこんなに丁寧に書いていない。大人こそ高校生をすべきだわ。


「……げえ。結菜。マジで頭ぶったね」


 私が書いたノートを見て涼花が目を丸くした。

 私が同じように涼花の立場でもそうしただろう。結菜は全く勉強をしてなかったのだから。

 シャーペンを筆箱に戻して机の上を片付けて、


「そうね。かなり派手に。間違いなく死んだと思ったわ。空を飛んでる自転車が見えたのよ」


 これは遙の最後の記憶。でも間違いない真実だ。

 涼花は私の机に腰掛けて目を輝かせた。


「え。マジで死んだの? あの世が見えた? 異世界転生みたいに女神が出てきてチートくれた?」

「木彫りの人形だったわ。ものすごく下手くそな、子どもが掘ったみたいな適当なものだった。それが話すのよ」

「ええええ?! マジで? てか本当にそんなことあり得るの?! なんて言われたの?」

「ミスしたから戻すって。ちょっと待っててって。すごく偉そうだったわ」

「なんじゃそりゃあ~~~うそうそ、本当なの?!」

 

 涼花が膝を叩いて大声で笑い、周りに何人も女の子たちが集まってきた。男の子たちは瑞樹を取り囲んでいる。

 女の子たちは口々に「死後の世界ガチであるんだ」「妄想じゃなくて? え、瑞樹も一緒に見たの? じゃあガチじゃん」「悪いことカウントしてる感じ?」「ポイント制度?」「美形だった? カマ持ってた?」と次々を質問して目を輝かせた。

 私はそれを聞きながらただ一言。


「なんでこうなったんだろうって思ってた。本当にこれで終わりなのか、そんなの信じられなくて、許せなかった。今すぐ戻りたいって強く思ったわ」

「一回死んだからこんなに落ち着いちゃったの?! 話し方とか雰囲気とか、私のお母さんみたいなんだけど」


 そう言ってクラスメイトの女の子は笑った。そうね、あなたたちのお母さんより間違いなく年上だけど、そんな感じ。

 それでもどうしようもなく後悔したの、すべてを。残り少ないと分かっていた人生なのに後悔した。


「死なないと分からないものね」

「ヤバイ。リアリティーの塊じゃん」


 同じような悲鳴が瑞樹のほうでも上がっている。ふたりが同じ世界を見てきたんだから信憑性は高いと思ってもらえそうだ。

 そんなことに信憑性が必要かどうか分からないけれど。

 お昼休みになり、私は涼花と一緒にお弁当をたべることにした。

 涼花は鞄からコンビニで買ったものを取りだし、私はお父さんが作ってくれたお弁当を取りだした。

 涼花は私が取りだしたお弁当を見て目を細める。


「父弁復活だ~」


 このお弁当を作ったのがお父さんだと知っている。それを聞いて私は、お母さんのことを涼花経由で聞こうと思った。

 私はおにぎりを食べながら、


「ね、涼花。私が七日間寝込んでた時、お母さんはどうだった?」

「あ~~、相変わらずだったみたいよ。いや、更に悪化? もう狂ったみたいに働いてたって」

「……働く?」


 やっぱりおかしい。どうして娘が意識不明で病院に入院しているのに狂ったみたいに働けるのだろう。

 涼花はコンビニで買ったパンを開けて口に運んで、


「病院の駐車場まではくるんだけど、中には入ってこないって。乳児院に泊まり込んで仕事してるって修司くんが呟いてた」

「……乳児院」


 乳児院は保育に欠ける赤ちゃんを面倒みている場所だ。お母さんはそんな所で働いているのか。それは大変な仕事だ。赤ちゃんは24時間目が離せないのに、きっとひとりやふたりじゃないのだろう。

 でもやっぱり……やっぱり違和感を感じるのは、私が母親だからだろうか。

 娘が入院して意識不明の状態なのに、病院の駐車場まではくるんだけど、中には入ってこないって。

 今朝の様子も含めておかしなところが多すぎる。

 涼花は、


「結菜が戻らなかったらマジでヤバかったかもね。私、姉ちゃんの子どもがあそこの子ども広場遊びに行ってるから、一回話してもらったのよ。そしたら『結菜のためにしてることだから大丈夫』って言ったらしいよ。入院費のことかなって姉ちゃんと話してたけどさあ。まじでミラクル社畜でしょ、結菜の母ちゃん」

「……なるほど」

「まあ乳児院、人少なくてヤバイんでしょ? いやーー、マジでマリアさまだね」


 涼花はそう言ってサンドイッチを食べた。

 なるほど。少しこの家の状況が見えてきた。結菜のお母さんは乳児院で働いている。だから朝が早く、基本的な家事はお父さんがしている。

 結菜のためにしていること……結菜や瑞樹が目覚めなかった時に保険を払う必要があるから、働いてるのかしら。

 でもそれは昔からで、尽くしすぎてるから、結菜は皮肉も込めてお母さんの名前を『マリアさま』にしているのだろうか。

 もし杏樹がそんなことになっていたら、病院から一歩も離れたくない。いつ何があるか分からない。目覚めたら真っ先に会いたいと思ってしまう。

 一見上手く回っている家庭に見えたけど、朝もう出て行ったお母さんを見てお父さんは何か言いたげだった気がする。

 お父さんも抱え込んでいるものがあるのかも知れない。

 本当に、夫婦なんて外から見ても、本当に何も分からないものね。

 私はお弁当を口に運びながら心の中で苦笑する。


 私たちは家の中では全く話さない状態が10年以上続いたけれど、外では普通の夫婦を演じていた。

 私が働いていた居酒屋は優太朗が働いていた製造会社の近くにあった。

 優太朗は私のことを気に入り会社の人たちに「次こそ告白する」と三ヶ月言い続けたらしく、会社の人たちからとても祝福されて結婚した。

 そして静子さんと仁さんのこともよく知っていた。

 最初は元気付けるため、その後は気を遣って、私たちは会社の人たちと深い付き合いを続けた。 

 誰かの結婚式、会社のパーティー、食事会、送迎会、上司の還暦祝い、栄転、葬式……月に一度は外で飲んで食事をしたり、皆さんが気を遣ってくれた。

 それが分かっていたから断れず、私は出かけるときは静子さんをケアスタッフに任せた。

 本当は預けたくなどなかった。家を出たくなかった。私の居場所を取られたくなかった。

 私しか面倒を見られない静子さんでいてほしかったのだ。

 ……こうして考えると、私は本当に静子さんのことしか考えていない。

 優太朗はいつも集まる会があるたびに、私に服を買い、美容院に行ったらどうだ? と声をかけてくれていた気がする。

 私は面倒だとしか思ってなかったけれど、今考えれば気分転換してほしかったのだろう。

 なにより自分の方をみてくれる短い時間だったのかも知れない。

 冷静になると、優太朗は、優太朗のやり方で、私をずっと見ていたのだ。

 

 木彫りの人形の言葉を思い出す。

 『共に生きたのか?』……生きていない。図星だ。

 だからこそ、口の中に血の味がするほど悔しかったのだ。


 優太朗は私のすぐ横で、ずっと見ていてくれたのに、全く気がつけなかった。

 ため息をついていると、机の横に瑞樹がきた。 


「ちょっといいかな」

「もちろん」


 私は笑顔で立ち上がった。

 過去は共に生きられなかった。でも今この瞬間だけでも、瑞樹……いや、優太朗と共に生きたい。

 そう思い始めていた。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る