第3話 1日目 18時25分 結菜の部屋と過去の狂気

「入るわね……お邪魔します……」

 

 と私は小さな声で言いながら結菜ゆなの部屋に入った。

 私は55才。娘の杏樹は23才。そしてこの部屋の持ち主、結菜は17才だ。

 孫という年齢より年上。でも死ぬ直前に親友が経営する居酒屋で働き始め、そこには高校生のアルバイトもいたので、現代の高校生が全く分からないわけではない。

 部屋の中はきれいに整えられていて、花柄のシーツが可愛らしい。

 机は白く、ベッドも白い。部屋全体が白で統一されていて若い女の子の部屋という感じだ。ベッドの上には可愛らしいぬいぐるみがたくさん飾ってある。

 机の上にはピンク色の財布や花柄の化粧ポーチが出された状態で置かれている。お父さんから自転車の前カゴに入っていた鞄は泥だらけになってしまったのでクリーニングに出している……と聞いた。部屋を見ていると入り口に立っている優太朗が口を開いた。


「ここら辺に座ってもいいかな」

「あ、どうぞ。そちらに座ってください。といってもこの部屋の持ち主ではないですけど……七日間宿に来たということにしましょうか」

「そうだな」


 私と優太朗は小さな丸い机を囲んで座った。

 日が落ちてきてカーテンを閉めた静かな部屋。外では烏が鳴き始めて夕方から夜になっていくのが分かる。

 ふたりで向き合って静かに座っていると、さっきまで全く落ち着かなかった心の中が冷静になってくる。

 目の前にいるのは日に焼けた身体が大きな男の子なのに、机の前で背中を丸めて小さくなり、正座をしている姿。これは優太朗の座り方なのだ。

 家でいつも、こういう風に身体を丸めて座っていた。

 私の前で居心地が悪そうに。

 色々とありすぎて流されていたが、目の前にいるのは離婚したばかりの男。

 どんどん冷静になってきて大きくため息をついた。お腹の中から息を全部吐き出した。身体の中が空っぽになるほど長く。

 そして机に肘をついて頭を抱える。


「……どうしてこんなことに。離婚したのに。あなたともう一瞬だって一緒にいたくない、そのために何年もかけて離婚して、やっと全てから解放されたのに、どうしてこんなことになるのよ。神さまはいじわるだわ。もういっそあのまま死にたかった。そしたら私はこんな言葉を口にしなくて済んだのに! あなたが病気だなんて知らず、離婚届を出したかったなと思いながら空を舞ってそのまま死ぬことが出来たのに」

「目が覚めた瞬間から思ってた。このやり取りをすることになると」

「当たり前でしょう? 冷静になるとこんなの無いわ。ねえ、どうやら私たちは幼なじみみたいだけど、お互いの部屋で静かに過ごすのはどうかしら。事故の直後は興奮してて、この状態を分かるのがあなただけで頼ってしまったけど、よく考えたら離婚した元旦那よ。一緒にいたいとは思わないわ」

「……本当か?」


 その言葉に足先から一気に身体中を沸騰した血が駆け抜けた。


「本当に決まってるじゃない! 私がどれだけあなたと離婚したかったか、何度も伝えたでしょう?!」

「遙が離れたかったのは、俺たちの過去だろう」

「何を言ってるのか分からない。特殊な状況に乗っかって好き勝手に言うのはやめて!! 私はあたなの全てがもうイヤだったのよ。いつだってあなたは何があっても見てるだけ、何も言わない。私たちはふたりでいるのにずっとひとりだった。もう何も要らないわ、私はひとりで生きていくの!」

「遙。『俺たち』の母さんはもういない。遙が愛した母さんは、もういないんだ。だって俺たちは今、瑞樹となんだっけ……」

「結菜!!」

「そう結菜だ。可愛い名前だな」


 そう言って笑う優太朗に心底苛立ち、頭をかきむしる。

 苛立つと髪の毛を引っ張る癖がついていた。頭全体が痛くなり、どこか落ち着く。いつもそうしていたので、円形脱毛症になってしまった。

 薄くなった部分はいつも産毛が生えていて、それを指先で触れながら髪の毛を引っ張るのが癖になっていた。

 何も考えたくない、痛みしか感じたくない。

 苛立ちながら髪の毛を引っ張っていたら、私の背中に掌が置かれた。そして背中をとん、とん、とんと優しく撫でる。

 そして最後に呼吸に合わせるように、とん……と落ち着かせるように置く。

 背中からじわりと温かさが伝わってくる。

 優太朗が私を落ち着かせるためにする行動で、さっきも病院でこうしてくれた。

 そうだ、この身体は結菜のもの。私のものじゃないから、大切に扱わないと。私は手を髪の毛から下ろした。

 髪の毛を引っ張った頭がクラクラして、気持ちが円を描くように落ちていく。

 いつから私たちはこんなことになったのだろう。

 もう考えることをやめた過去の世界に意識が戻っていく。



 私と優太朗の出会いは、私が22才、優太朗が32才の時だった。


 

 私は幼い頃に両親が離婚して祖母に育てられたが、祖母も高校卒業と同時に死去。飲食業界に就職した。

 働いていた居酒屋に品のよい女性が飲みに来ていた。名前は静子しずこさん。

 いつもシャキリと背を伸ばしていて、微笑むと目尻が下がって優しい笑顔。とても可愛らしい方だった。

 私を見かけるといつも話しかけ体調を心配してくれてた。髪型を変えたら最初に気がついてくれて、いつもステキだと褒めてくれた。

 お化粧の仕方を知らなかった私に基礎化粧から教えてくれた。そして「遙ちゃんは可愛いのに、いつも同じ服装でもったいないわ」と洋服も買ってくれた。

 会う時に頑張って履いていったヒールで踵を怪我したときは、その場で足に合う靴を買ってくれた。自分を大切にする方法の全てを静子さんから教わった。

 美容院に通う頻度、爪の手入れ、カラオケに、美味しいランチ、休みの日にはハイキングや遊園地、私の楽しい全てのことは静子さんから始まった。

 そんな日々の中で旦那さまであるじんさんを紹介された。私は両親という存在さえ知らなかったので、静子さんと仁さんご夫婦は理想そのものだった。

 若くから店長候補として働き、セクハラを受けることも多かった。その時店で助けてくれたのが近くにある製造会社で働く優太朗だった。

 そして実は息子なのと紹介された時に、この人と結婚したいと思った。この家の家族の一員になりたいと強く願った。

 私は先に静子さんと仁さんを好きになり、そのあと優太朗を知った。


「私は……あなたの両親が好きだったの」

「そうだな。遙はものすごく好きでいてくれて、それが嬉しかった」


 私の環境を知るとふたりは私を頻繁に家に招待してくれるようになり、本当の家族のように接してくれた。

 そして優太朗と恋をして結婚して、すぐに妊娠。杏樹を身ごもった。本当に幸せな日々……人生で一番幸せだったのは杏樹が三歳になる誕生日までだった。 


 あの日を、私は一生忘れない。


 杏樹の三歳の誕生日、私と優太朗と杏樹と静子さんで、誕生日プレゼントを買いに行った。

 仁さんは少し体調が悪いというので家で準備をしてるね……そう言っていた。

 熱もない、少し背中が痛いだけだ。大丈夫だから行っておいで。そう笑顔で手を振って。

 私たちは誕生日パーティーのためにあれもこれも買い込んだ。可愛いお洋服、欲しがっていたオモチャ、写真館にケーキ。

 両手に抱えきれないほどの荷物を持って帰って来たら、玄関で仁さんが倒れていた。

 靴を散らして、その真ん中に転がり落ちた黒い塊のように。

 きっと優太朗も私も叫んだはずだ。でもあの時間の記憶が飛んでいる。

 覚えているのは誕生日会のために買ってきたケーキが床に落ちて広がり、それを踏んで広げて中に入ってきた救急隊員の足跡だけだ。

 それは無限に白く伸びて魂の行き先みたいに。踏み固められた一週間前に降った雪のように汚く広がっていく。

 何より精神を破壊したのは、その後すぐに行われた現場検証だった。

 その時まで私たちは知らなかった。家で人が死ぬと不審死になり、警察による検証の必要がある。

 言ってしまえば「仁さんが殺されていない証明」が必要なのだ。

 警察に何度も聞かれて静子さんは呪文のように唱え続けた。「体調が悪いと言っていました」。

 警察は仕事だ。こっちがどう思うかなど全く意識せず「知ってて出かけたんですね」と言った。

 静子さんは「そうです、知っていました」と何度も言った。自分に言い聞かせるように。

 解剖の結果、仁さんの死因は急性大動脈解離だったと分かった。激しい痛みの中、這うように廊下を移動して、玄関で息絶えた。

 静子さんは繰り返し言った。

 体調が悪いと言っていたのに置いていった、もし自分が残っていたら救えたかもしれない、私が殺した。酷すぎる言葉で自分を追い込むことで楽になろうとしていた。

 それほどに仁さんのことを愛しすぎていた。

 そして私は、静子さんを愛しすぎていた。

 玄関で何時間も正座して仁さんの帰りを待ち、帰ってくるまで食事をしなかった。たまに正気に戻り「仁さんは死んだのに何をしてるのかしら」と仁さんの好物を山のように作り泣きながら食べた。やがて仁さんが死んでしまった事実を受け入れられず、他に女を作り出て行ったという妄想に落ち着いた。そして私に何度も仁さんを迎えにいくように言う。

「あの人頑固なところがあるから、遙さんに頼まれたら素直に帰ってくるわ」それを聞いて私は一晩外を歩き回った。どこにいるというのだろう、いるなら連れて帰りたい。

 雨の日も晴れの日も、熱帯夜も、桜舞う夜も、泣きながら夜通し歩いた。

 静子さんの期待に応えられなくて泣いた。

 はたと正気に戻り、自分が病気だと自覚する時間もあり、精神科や心療内科に行き、自ら薬を貰ってきていた。

 しかし年を重ねて、それでも帰ってこない仁さんを待ち、辛さから眠れる薬ばかり好んで飲むようになった。

 静子さんは夢の中で仁さんと会えるようで、長い眠りから目覚めると正気の時間が長かった。

 今考えるとこの時間が厄介だった。正気の静子さんは私にただ謝る。「こんなことになってしまって申し訳ない」「私は遙さんを幸せにしたかった」「こんな私は早く捨ててほしい」「あなたは最高のお嫁さん」……私が言ってほしい言葉を言う、そして一緒に出かける。

 私が何よりも求めていた静子さんとの静かな時間。

 そして再び妄想の世界に戻り、玄関で仁さんを待ち続けた。


 積み重ねた時間ゆえ。

 愛しすぎていたゆえ。


 私は静子さんを諦めきれず、板挟みになった優太朗は何も出来ず、どっちに取り繕うことも出来ず、薄氷の上で19年。

 4年前、静子さんは病気で亡くなった。私が全て因縁を引き受けるから神さま三人をお願いしますと叫びながら死んでいった。

 遙さん迷惑かけてごめんなさい、許してほしい、本当に大好きだったのよ、やっと会える。この時を待っていた。早く死にたい、早く死にたい。

 大好きな人が、愛している人が、喜びながら死んでいく姿を、私はただ見守った。

 良かったですね、やっと会えますね。私は会えなくなりますけど。

 杏樹が生まれて幸せだった3年、狂った19年間、静子さんが死んだあと4年、合計して26年、9490日の結婚生活だった。

 気がつくと私たち夫婦はもう夫婦の形などしていなかった。

 優太朗は膝を立てて静かに言葉を選ぶ。


「俺が何を言っても、何をしても、遙は俺を責めただろう。もう俺たちはどうにもならない状態だった」

「……そうよ。あなたが静子さんを強引に病院に入れたら即離婚していた。何もしなかったからこそ一緒にいたのよ」

「なあ遙、お前は俺より母さんを好きだったよな」

「そんなこと……」


 と言いながら、その通りだと思う。

 私はたぶん静子さんの息子だと知って、優太朗を恋の対象にした。

 息子だと知るまでは「優しい人」程度の認識だったが、静子さんの息子だと知って、静子さんに育てられた人をもっと知りたいと思ったのだ。

 知ってみると、酔っ払いに絡まれている時は、真っ先に私を守ってくれて、押しつけがましくなく優しい。私が困っているとすぐに話を聞きに来てくれた。

 いつも冷静で声を荒らげず、私と一緒にいてくれた。

 静子さんを誰より好きだったけれど、優太朗のことをちゃんと好きになり結婚した。その気持ちに嘘は無い。

 優太朗は私の手を包んだ。優しく両手で、大切なものを包むようにその掌から心を伝えるように。


「ずっと遙が好きだった。遙が母さんのことしか見て無くても、俺は遙が好きだった。好きだったから、母さんを必死に見ている遙に何も言えなかった、ただ見てることしか出来なかった。遙は……頑張って……ちゃんと母さんを見送っただろ?」

「……はい」

「俺はただ……待っていた。母さんが死んだら、俺を見てくれるんじゃないかって。でもそれは間違いだったと家を出るころに気がついた。ずっと君と夫婦だったのに、同士になれたのに、何もしてこなかった。母さんがいなくなったからと言って、そんな俺を君が見るはずも無い」


 優太朗は私の手を優しく両手で包み、


「ずっと君が好きだった。もう一度俺にチャンスをくれないか」

「そんなの……」


 呟きながら俯いた。

 何も静子さんの世話に忙しく、優太朗に構えなかったわけではない。静子さんに付随する全ての対応が気に食わなかったのだ。だから普通に暮らしていても破綻した可能性はある。でも前提条件が静子さんな時点で、私は本当に優太朗を全く見ていなかったのだろう。

 防ぎようがなかった不幸と、私も優太朗も愛していた人の狂気が関係を歪めた。

 優太朗は近付いて、ゆっくりと私を抱き寄せた。

 人に抱き寄せられる……その感覚自体が久しぶりすぎて戸惑うが、嫌な気持ちではない。

 それにこの抱き寄せ方……懐かしい。肩に手を置いて、ゆっくりと抱き寄せて、そして背中をゆっくり撫でる……すごく……昔に……こうやって甘く優しく不器用に抱き寄せられたのを今も覚えている。でも……と俯いていると、再び優太朗は強く言った。


「一週間だけでいい、俺だけを見てくれないか」

「……そんなに簡単に切り替えられないわ。26年を私の中からすべて消してしまえるほど甘い気持ちで離婚を決めたわけではないわ」


 そう伝えると、優太朗は私から離れて、


「そうだよな、そんな簡単に切り替えられないよな。俺は身体が楽になったのが大きい。こんな状況だけど心が安定してるんだ。打撲は痛いけど、筋肉痛程度に感じる。なにより前の身体の時にずっと痛かった内臓が痛くない。実はずっと辛かったんだ。腎臓だったから背中だったけど。もう鎮痛剤なしでは動けないレベルで、あの日も遙に気がつかれたくなくて、大量に飲んでいた。頭がぼんやりして何も出来ず、家ではずっと寝てたから体力もなくて迷惑をかけた」


 その言葉に弁護士事務所の優太朗を思い出す。

 常にぼんやりしていて、何をすればよいのか分からない枯れ木のよう。そして雨を見て口を開けていた表情を思い出して胃がギュギュッと痛くなり俯いた。

 優太朗はそんな私を見て、


「遙はずっと母さんを見ていたから、体調の悪さで気をひきたくなかった。余命宣告されたからこそ俺は家を出たんだ。自由になってほしかった」


 そう言われて黙ってしまう。何一つ知らずにいたが、優太朗の判断は正しい。

 私はどんなに嫌いでも病人を放り出せる性格ではない。静子さんを見ていた優太朗だからする命と引き換えの優しさを今頃知った。

 申し訳ない気持ちと、どうしようもなかった過去への悔やみから息が苦しい。

 どれだけ知らなかったことがあるのだろう。

 うなだれる私に優太朗は声をかける。


「宮永さん……いや違う。結菜……結菜だな」


 そう呼ばれてハッと身体に血が通って顔を上げる。

 私じゃない、自分の身体がその声に、その呼びかけに反応して顔を上げた。


「はい、私ね」

「この身体で結菜って呼ぶと、すごく心の奥のほうがじんわりと痛む。きっと結菜って呼んでたんだな」


 結菜と呼ばれると、私の意識とは別の部分が反応するのが分かった。

 今現実として、私は他の女の子の身体に入っているのだ。私の目の前にいる男の子の名前を口にする。


「瑞樹……ああ、そうね。私も口にするとすんなりと飲み込める。あなたのことを瑞樹って呼んでたのね。瑞樹」

「そうだな、馴染む。そう呼ばれるのが当たり前だと身体が言っている。とりあえず結菜と瑞樹の身体で一週間過ごすのは決まりらしい。短い間だけど、よろしく頼むよ」


 そう言って瑞樹は手を差し出した。その手は優太朗の手ではない……すごく大きくて長い指に、顔をあげると肌がよく焼けたカッコイイ男の子だ。

 でもそんなこと言ったら私は今、金髪の女子高校生なのだ。これが現実。ということは、間違いなく七日後に死ぬということなのだ。

 過去に捕らわれ続ける時間はない。

 私は瑞樹の手に触れて、優しく握り返した。するとキュッとその手を瑞樹が握り、


「温かい。遙の手は冷たかったから変な感じだ」


 その言葉に自分の手を頬に当ててみる。言われてみると体温よりも手のが温かい。私は生まれつき手が冷たくて、それでも健康に問題はなかった。

 飲食店で働き始めた時、料理の師匠に「食材が傷まない神さまの手だね」と言われたのを覚えている。

 遙ではない、結菜の身体で七日間。この人だけを見る。

 それはなんだか気恥ずかしくて、それでもずっと見て見ぬ振りして逃げてきた夫婦の時間の始まりだった。


 

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