泥の中の記憶

篠岡遼佳

泥の中の記憶



「おーい、クロトくん」


 森の入り口を守るように建っている、質素ではあるが、頑丈そうな家の中。

 なぜか丈の合わない灰色のローブをずるずると引きずり、上の階に向かってから呼びかけている若い男性がいる。


「クロトくん! 起きておきてー!」

「……うぁい……せんせい」


 寝間着のまま目をこすって起きてきたのは、黒髪の少年だった。

 はふ、とあくびをして、


「今日の準備してたら遅くなっちゃって」

「それは仕方ないね」


 先生と呼ばれたローブの人物は納得し、すぐに人好きのする笑顔を見せた。


「さあ、まずは顔を洗っておいで。

 ここでの最後の朝ごはんだよ」




 記憶とはおぼろげなものである。

 クロトの最初の記憶も、とても曖昧で、今でも夢だったのではないかと思っている。


 ――記憶は、匂いからはじまる。

 鉄と、泥と、雨と、草や木材が混じった、やや不快な匂い。

 

 そのくぼんだ草原に、ひとりで立っている。

 手も足も泥で汚れており、寒さを感じて身を包むものを引っ張ったら、ただ布を纏っていただけだった。


 ただ何をする気もなく、しばらくぼう、としていると、大勢の気配がした。

 まだ草が生えている盆の縁を乗り越えようとしている。


 クロトは、それをやはり不快だと感じた。

 誰にも近づいて欲しくない。

 自分を守るには、



 なのに、次の瞬間には、


「やあ、こんにちは」


 ずるずるのローブを着た、男が後ろにいた。

 はじかれたように体勢を変える。

 逃げなければ。そう思ったが、足が動かない。動かせない。


「ごめんね、ちょっと話を聞いてくれるかな」


 男は汚れるのも構わず、泥の中に膝をついた。


「君がクロトくん?」


 ――そうだっただろうか?


「うーん、ちょっと状態が悪いみたいだね。

 ……一個師団をならしてしまったのは、どうやら本当みたいだけど」

「………………?」


 あなたはだれだ、と聞こうとしたが、喉が詰まっているように声が出せない。

 

「うん、僕は……そうだな、『先生』と呼んでもらおうかな」


 先生?


 街の学校の先生みたいに威張ってもなければ、鞭で打擲する先生にも見えないのに。


 ……街の学校? なんだそれは?


 自分の思い出したことに、自分で疑問を持つ。

 どうやら記憶もめちゃくちゃになっているらしい。


「いいんだ、無理に思い出さなくていいよ。いつかでいいんだ。

 ともかく、栄養が必要だね」


 栄養?


「そうとも。僕といっしょにきてくれないかい。

 君にしかできないことを、秩序をもって使えるように」


 男は、おそらく泥まみれだろう、こちらの頭を撫でた。

 するとかぶっていたローブから、髪と表情が見えた。


 明るい琥珀の瞳に、長く伸ばしている銀髪。

 そして人好きのする、あたたかく優しい微笑み。


 ……そうか、この人について行けばいいんだ。


 自分自身のすべてが、そう言っているように感じられた。

 クロトは頷き、その銀髪にそっと手をのばした――。






「……最後と言っても、先生」


 焼いたベーコンを同じく焼いたパンに乗せ、クロトは肩をすくめる。


「先生のところについて行くのと何が変わらないんです?

 結局先生は本当に先生だった、っていうオチが、このあいだの手紙で判明したわけですけど」

「難しい文章も読みこなせるようになって、先生はうれしい!」

「パンくず落ちるから、テーブルの上で食べて下さい」

「もう……クロトくんはしっかりしてるなあ」


 なにかというと、先生はうれしそうに微笑む。


「いいじゃないか、一緒の学校に通えるわけなんだからさ」

「俺は……なんだか複雑です」

「大丈夫、栄養満点に君を育てた自信が、僕にはあるよ」


 こちらの黒髪をいつものようにくしゃくしゃに撫でて、先生は言う。


「学校へ行って、いろんな人と触れ合おう。

 そして、いつか君は思い出すだろう。いろいろなことを。

 そんなとき、どうしたらいいのかも、学んでいこうね。

 君は僕に愛されて、生きていくんだからさ――」









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泥の中の記憶 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ