喫茶 時間旅行
曇戸晴維
ホットケーキ①
私にはぐだぐだと考える癖がある。
今日もいつものようにぐだぐだと考えていた。
いや、考えていた、というのは言い過ぎで、単に脳内で愚痴を言っていただけなのかもしれない。
確かに経営理念や社会奉仕活動に憧れて入った会社の業務は10年以上勤め上げてもやりがいなんてものは感じたことはないし、毎日毎日満員電車に揺られて、たまの休みといえば動画投稿サイトを見て延々と時間を潰し、自分でもわかるほどに疲れ果てている。
自分のことなんて何にもできない。
精も根も尽き果てるとはこの事かもしれない。いや、これは大袈裟か。
そんな私には友達はおろか彼氏なんてものもできるはずもないし、齢二十九にして、なんというか、もう行き詰まっている感じがすごい。
孤独に苛まされ、それを解決する行動力を発揮するような元気もなければ、もはや生きる意味さえ何処かに忘れてきた。
そんなことを考えながら街を歩く。
帰る気にもならず、ただ、ぼーっとしながらその辺をぶらぶらしている。
すると、いつの間にやらオフィス街を抜けて、あまり来ない商店街の方まで来てしまった。
元気がなかろうが生きる意味を失ってようが、こういうとき人は冷静なもので、「明日もあるし、そろそろ駅に向かうか」なんて思って角を曲がる。
見慣れない路地裏。
石畳でできた道は、古くてボコボコしていて、底の薄くなった靴では足の裏が痛い。
そこで私は立ち止まってしまった。
「帰りたくないなあ」
溜め息と一緒に漏れた、一言。
そこにふわっと不思議な香りを感じた。
甘いような、スパイシーなような不思議な香り。
それに釣られて顔を上げると、そこには古びた喫茶店があった。
赤煉瓦の外壁に緑のオーニング。
出窓には分厚いレースカーテンが引いてあって、店内は見えないが明かりが灯っているのがぼんやりと透けている。
カーテンのこっち側に、ぽつんと佇むフランス人形と目が合った。
その子もなんだかひとりぼっちに見えてしまって、私は親近感を覚えた。
歴史を感じさせるような扉の横にランプと立て看板がひとつ。
ランプが灯っていないから、たぶん営業時間外なのだろう。
立て看板には
『喫茶 時間旅行 本日、平成22年』
と、書いてあった。
「平成22年……えっと2010年だから、13年前?」
だれも答えてくれる人などいないけど、疲れ切った私には口に出さなければ年号の計算なんてできなかった。
当時の私は十六歳。
高校生になったばかり。
「そういえば、高校生になってからは一人でよくおばあちゃんの家に行ってたなあ」
そんなことを思い出すと、しんみりしてしまって、こんな言葉が口を突いて出る。
「……おばあちゃんに会いたいなあ」
呟いた言葉を聞いていたのかと思うようなタイミングで、扉の横のランプがぽうっと灯る。
その優しい明かりに惹かれるように、私はふらふらと喫茶店に入っていった。
カランコロン
扉の鈴の音が小気味よく響く。
中を見渡すと、その外観に漏れずレトロ調の内装で不思議と懐かしい気持ちになった。
珈琲の香ばしい香りと、煙草の匂い。それに甘いようなスパイシーなような香りが微かにする。
カウンターの奥にマスターらしき老人が見えるが、背を向けているため、こちらに気づいていないようだった。
「いらっしゃいませ」
突然、近くから声が掛かる。
ハスキーで通る女性の声。
その声の持ち主は、いつの間にそこにいたのか、あるいは初めからそこにいたのかわからないが、ふわりと優しく微笑みながら言った。
「お客様? お疲れのご様子ですね。こちらのソファ席へどうぞ」
「あ、はい」
絞り出すように返事をすると、案内されたソファに座る。
驚いたのは急に声を掛けられたからだけではない。
ウェイトレスなのだろう彼女は、和服姿にフリルのついたエプロン、ショートカットの黒髪と端正な顔立ち。
髪にはしゃらしゃらと揺れる赤い髪飾り。
漫画かアニメでしか見たことのないような格好。
それを不自然と思わせない彼女の堂々たる仕草が、よれよれのスーツ姿で迷い込んだ私と対比しているようで居た堪れなくなったのだ。
「どうぞ」
差し出されたおしぼりはやや熱いくらいで、気持ちいい。
ウェイトレスはテーブルにメニュー表とお冷を置くと言った。
「もしご希望のものがありましたら、仰ってください。作れるものなら作るのが当店の自慢でございます」
にこりと笑う彼女。
その微笑みがあまりにも優しかったからなのか、引っ込み思案な普段の私なら決して言わないようなことを口にした。
「あの、それじゃあ……ホットケーキってできますか?」
「勿論でございます。お飲物は……ホットミルクなど如何でしょう?」
――眠れないの? なら……ホットミルクなんてどうかしら?
――ウェイトレスの言葉に、急に重なる、祖母の声。
「えっ! はい、それで!」
「承りました。では少々、お待ちください」
挙動不審な私を気にするでもなく、ウェイトレスは銀の御盆を両手で抱え、深くお辞儀をすると行ってしまった。
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