苦渋の策
時計の針は等々正午を差し、広々とした個室の真ん中にポツンと座る矢代には段々と眠気が襲い始めてきた、思わず大きなあくびがでると、眠気に焦りを感じた矢代は突然椅子から立ち上がり背伸びをした、時々廊下から聞こえてくる足音に耳を傾けながら、どうにか暇を潰すために矢代はテーブルと椅子の回りを彷徨きながら、内の雑誌を手に取ってしばらく読み始めた、そんな中、大手出版社、国文社の廊下を足早に歩く営業部長の前島は焦った様子で社内を駆け抜けていた、毎日が忙しく騒がしい雑誌部の廊下をやがて前島は通り越した、「今の営業部の前島さんだよな?」
「そうだな」 偶然休み時間だった雑誌部記者の大鷲は缶コーヒーを片手に前島の焦った様子に疑問を抱かせた、空っぽになった缶を捨てて廊下を再び覗くと既に前島の姿は消えていた。
「フッ、内はやっぱり小説だけは優秀だな~」暇を潰す矢代は雑誌を読み進めながら部屋の中を歩き回り、時々愚痴を呟いてた、雑誌が読み終わりふと壁に取り付けられた時計の針を見ると、時刻は未だ5分しか経っていなかった、すると再び矢代は雑誌を読み返し始めた、しかし、読むスピードはさっきよりも早く次々とページが捲られていく。
「失礼します!」 ようやく専務のいる部屋の前へと辿り着いた前島はすぐに部屋のドアを二回ノックし専務室へと入った、前島は走り続けて息が上がっていたのにも関わらず、それを気にすることなく前島は一枚の紙切れを席に座る専務の五十嵐に見せつけてきた、「急に押し寄せてきてどうした?」 「どうしたではありませんよ専務、一体総務部は何を考えているんですか!」怒りを露にし前島はデスクに紙切れを叩きつけた、五十嵐はふと気になり前島が持ってきた紙切れを覗いた。
「すいません遅くなりました、」 突然矢代のいる個室のドアが開き、スーツ姿の若い会社員が頭を低くして中へと入ってきた、思わず驚いたもののすぐに挨拶を交わし始めた、「いえ、おかまないなく、こちらにお呼びしたのは私ですから」そう言うと、矢代は読んでいた雑誌を閉じテーブルの端に置いた、「どうぞお座りになってください、」 若い会社員を促すように手で椅子の方を差した、「すいません、失礼致します」 そう応えると彼は腰を低くして椅子に座り込んだ、矢代もすぐに椅子へと座るとジャケットの懐からペンと手帳を取り出した、「早速ですがお話を聞かせて下さい、例のパワハラ疑惑について」 矢代は笑みを見せながら颯爽に本件の話を提示した、「はい、」 若い会社員が話を始めた途端、矢代の握るペンは勢いよくメモを書き込みだした。
「何故新たな雑誌部の編集長に矢代なんかを推薦するんですか!」 前島は人事に呆れたかのように苛ついた口調で五十嵐に疑問を投げ掛け続けた、「仕方ないだろ、人事が全てだ、上の者が指示した事には変えられない」五十嵐は前島の言動に困惑しながらも、どうにか前島を落ち着かせる為、人事の決定を受け入れろと言い続けた、「あいつが過去に引き起こした問題は覚えていますよね、果たしてこのままでいいんですかね五十嵐さん!」
中々納得しようとしない前島に頭を抱えていると、突然ドアをノックする音が聞こえた、ドアが開くと中に入ってきたのは、丁度前島が問題提起していた人事を請け負っている総務の勝岡 犬だった、「突然で失礼します、あれ?どうして営業部長の前島がここに」 すると前島はさっきまで見せていた筈の威勢が止まった、「いえ、偶然専務に用件があり、ここに来たまでです」 総務の勝岡は中々気難しい性格の人物であり、眼鏡の奥のその鋭い目付きはいかにも社員の人生を揺さぶる人事の人間らしい御方であった、「用件はもうすんだのか?」 「え、えぇ、それでは私はここで失礼します」そう言い終えると前島は足早に部屋から出ていった、「フー、ようやく去ってくれた」困惑していた五十嵐の肩はようやく軽くなった後、総務の勝岡に用件を問いかけた、「先程社長から伝言があり、推薦していた矢代の編集長の昇進が決まりました」
勝岡は颯爽に昇進の決定打を告げていると五十嵐の表情は固くなっていた、「本当に矢代で大丈夫なのか?」 「今、国文社は経営不振に陥っているため大変窮地に追い込まれている状況です、どうにかここで大きな一手を打ち出さない限り、このまま落ちてしまうと社長は考えたのでしょう」 五十嵐もまた人事の決定を確実に賛成をしている訳ではなかった、険しい表情を見せながら五十嵐は椅子から立ち上がりポケットから煙草を取り出した、「明日から矢代には雑誌部の編集長に就いて貰う予定ですのでご理解下さい、それでは」。
5ヶ月後、新たな風が吹き荒れる国文社から、一人の社員が入社してこようとしていた、「ここが国文社?」 一棟の大きなビルの前に立つ里山 恵は緊張した顔を浮かべながら期待を胸に乗せて、ビルの中へと足を運んでいった。
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