呂律が回らなくなってきている。興奮のあまり涙がボロボロとあふれて、隆介はただそれを受け止めている。隆介の顔はよく見えない。涙で視界が歪んでいるのと、興奮から頭がガンガンして痛くてそれどころじゃない。


 言ってしまえ。

 紗和さんが隆介とのセックスをネタに面白おかしく呟いていたことも言ってしまえ。そうすれば隆介は紗和さんのこと忘れられる。はずだ。


 でも言えなかった。同時に私が何ひとつ隆介の癖を知らなかったことを認めたことになる。そんなの耐えられない。無理だ。こんな扱いを受けていたって嫌いになれない。まだこんなにも好きだ。好きだから憎い。好きだから許せない。好きだから――


 好きだから、何をしてもいいって?


 理性を保つ私がどこからか私を見ている。冷めた目をして、涙をこぼしながら隆介に訴える私をバカみたいだと鼻で笑っている。その心は乾いているのに、涙は止まらない。あたりに湿っぽい空気が帯びていく。ぬらりと嫌な気配がする。首筋に冷や汗が落ちていく。


 ――ハァ。


 大きなため息。これまで聞いたどれよりも大きな。耳朶が舐められるような近さに誰かの唇を感じる。それほどに近い。大きい。気色が悪い。


「……椎菜?」


 隆介の表情に陰りが見えた。

 急に動きを止めた私に手を伸ばそうとしている。やめて。さわらないで。言いたいのに言えない。でも、隆介の手も止まった。動けないようだ。やっと気づいたの、部屋中のおかしな空気に。そう思ったのに、違う。隆介が何か言っている。動けないのは私で、隆介の声が届いていないのは私の耳だ。おかしい。何。どうして。やめて。息が浅くなる。自分の動悸と正体のわからないあれのため息しか聞こえない。涙は止まらない。隆介が私に手を伸ばす。スローモーションのようにそれを見ながら、私はその手を掴みかえせない。後ろから何かが近づいている。目の前にいる隆介が気づかないはずがないのに、彼が逃げる様子はない。どうして。今こうしている間にも後ろから飲みこまれそうな気配を感じるのに。どうして隆介はそんなに普通の顔をしているの。私のあれだけの叫びを聞いて、何とも思わないの。おかしい。どうして。なんで。あれが来る。食われる。どうして私だけ。


 隆介。逃げて。だめ。違う。一緒に来て。一緒に。



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