ほんの出来心だったんです。

 紗和を思い出す。私だって、最初はほんの出来心だった。

 結果、隆介と一夜を共にすることに成功した。ただ、同時に思い知った。相手の意識もおぼろで、感情の伴わないセックスなんてただの作業に過ぎない。虚しさしか残らない。この日のために伸ばした髪のせいか、隆介は最中に何度か紗和の名を呼んでいた。虚しさしかなかった。それでも朝になって驚愕した隆介の顔を見た時、恥ずかしげに視線を落としながら喜びを伝えた。馬鹿みたいに堅物で真面目な隆介は、紗和に別れを告げることになる。

 私に対する振る舞いも、私が自分に冷めてほしいという全てからきている態度だと、本当はわかっていた。今夜の事は自分の責任だけれど、付き合うことは出来ないとあの朝に宣言されたから。それでもいいからと、名ばかりの恋人の座を欲しがったのは私だ。だからどんな扱いをされても別れるつもりはなかった。ひどい扱いをして、私から別れを切り出すのを待っていることを知っていたから。だからどれだけ不満が募っても、私が彼に言えることは何もない。

 その頃から、の気配に悩まされるようになった。ただ、遠かった。時々揺らぐ息だけ。だから、気のせいだと思い込んでいた。


 架空のツイッターアカウントを作り、ウソばかりの幸せツイートをするようになった。私が隆介としたいこと。行きたい場所。希望を詰め込んだアカウントだった。重くて黒いものが浄化していくようだった。現実はこんなに満たされないのに、この私は恋人に愛されて幸せな毎日を送っている。

 

 そんなある日、タイムラインに回ってきたツイートがあった。

 不平不満ばかり呟いているのにフォロワー数の多い不思議なアカウントだった。鍵リストに入れて、時間がある時にのぞいていた。ある日を境に恋人のセックスが面倒だという愚痴になり、気の毒な人もいるもんだなと面白半分で見ていた。それが、一度だけ『櫻木』という名の入ったツイートがあがった。直後に消されていたからミスだったんだろう。まさかと思った。

 アカウント名はエス。櫻木隆介の元恋人の名前は多々野紗和。紗和。S。

 櫻木なんて名字は特別珍しくはない。鈴木や佐藤に比べたら少ないかもしれないが、あの時の私は思い込んだ。これはもしかして、紗和の愚痴アカウントではないかと。それからは気が気ではなかった。時間の隙を見てはツイッターを監視して、呟きを見た。確信を持った。デートに行った場所。付き合った期間。点と点を結んでいけば答えは出る。確信を強めていくうちに、思い知ったことがあった。

 彼女が悪戯にツイートしていた隆介の癖を私はどれも知らない。彼はきっと、愛する人にしかああいうことをしない。どんなに変態的であろうと、本当の恋人にしか求めない。見せない。私には絶対に見せてくれない。もう我慢できなかった。直接顔を見て話がしたくなった。何をしたかったのかはわからない。でも、我慢ができなかった。

 Sとの接触は賭けだった。万が一にでも紗和が私を知っていたら。まさか破局の原因を作った相手だとは思わないだろうが、出版社にいた頃の写真を見たことがあったら。それでも偶然を装える自信はあった。でも万が一。感情がぐちゃまぜになりながらSと接触を図り、それとなく悩みを打ち明けた。最近変なため息が聞こえるんですよね。疲れているんでしょうか、なんて世間話の一環で。人間は単純なもので、相手に「あなたにだけ」と打ち明けられると親密さが増す。真面目で責任感が強く、情の深いタイプには覿面に効く。自分は信用されているという意識と、信用してくれている相手を信頼しようという無意識がうまく作用すればこちらのものだ。隆介にも何度も使った手だった。結局、紗和と隆介は似てるのだろう。

 そして何度かメッセージのやり取りをくり返すうちに、S――紗和も同じ経験があると打ち明けてくれた。会うチャンスだ。賭けがどうなるかはもうどうでもよかった。私なんかよりよっぽどいい女だと思っていた紗和が、私と同じあれに悩まされたことがある。それだけで自分の価値まで上がったような気がした。


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