『大きなお世話とはわかってるけど、苦しいのは手放すのもアリだよ』


 フッ、と息が漏れた。

 具体的なことは何ひとつ書かれていないけど、何のことかは一目瞭然だ。隆介のことだろう。私もきっと、友達に私のような恋愛相談を受けたら「やめるのもいいんじゃない」と言うかもしれない。

 仕事のスケジュールにまで支障を来すのは、確かに異常だ。頭の隅ではわかっている。これはよくない、と。それでも止められないから、恋なのだろう。そう思うしかない。そうでも思わないと、私のしていることはすべて間違っていることになる。

 そんなの耐えられない。無理だ。今さら変えられない。


『この人きっと、どんどん深みにハマりそうって』


 ユキナの予想は当たった。沼のように足をとられる深みにハマって、浮上できる気がしない。


『具体的な理由はわかんないですけど。何かすごく印象的なことがあった気がする』


 私は一体、ユキナの前で何をしたのだろう。

 また話を聞いてみないとと思ったところで、最寄り駅への到着を知らせる音が聞こえた。


***


 四畳ほど――デスクトップの置かれた机の面積を考えたら、実際の感覚としては二畳ほどだろうか。ほどよく狭いネカフェの個人スペースは、とても落ち着く。

 パソコンを立ちあがる前には、多少警戒をした。またあれが現れるのではないかと、目を瞑っていた。しかしどうだろう。昨夜の出来事なんて嘘のように、まったく気配を感じない。怯えているのが馬鹿みたいに何も起こらない。

 ここに来てまず行った、トイレの鏡さえもまともに見れなかった。なのに、何もない。視界の隅に蠢くものも、いつもの息も、なくなっていた。

 ほんの少しだが怖れが薄れてきた。ふとした瞬間に昨夜を思い出すことはあっても、程よいざわめきのあるネカフェなら幾分気が紛れる。目を逸らしていれば、考えずにいれば、きっといつの間にかいないものになる。

 何より今の私には、やらなくてはならないことがあるのだ。ユキナのスケジュールを変更させた分きっちり仕事して、隆介のせいでアイツは駄目になったなんて思われたらいけない。それは同時に、隆介の評価も落ちてしまう。

 担当の新人作家と出版社に、ユキナとの打ち合わせ内容のメールを送る。彼女の仕事は早いので、むしろ作家への確認を迅速にするべきだ。大学生の彼は常にスマホを携帯しているタイプだから、メール返信も早い。

 何においてもマメなタイプだろうと勝手に推測する。恋人にもきっと、マメだろうと。

 いけない、またそんな思考回路になると頭を振る。

 ユキナに言われたからではないけど、確かに今の私は――隆介と出会ってからの私は、何に対しても余裕がない。だからこその苦言だ。自分が一番わかっていた。

 他の担当作家への連絡と確認をまとめて打ち込み、ついでに必要な資料をネットショッピングから注文する。各出版社のスケジュールの確認もかねてしまおうと、パソコンの前で手帳を広げて書き込んだ。落ちてきた横髪を耳にかけ、自分の指の冷たさにハッと意識が戻ってくる。

 椅子の背にもたれると、長く息を吐いた。集中すれば何てことはない。恋愛も、あれも、意識から追い出すことが出来るはずだ。私ならできる。言い聞かせる。顔を天井へ向け、凝った首からパキッと乾いた音がした。その時。


 ――ヴン。


 鈍い電子音に身体が跳ねる。何、今の。

 顔を上げる。目の前の液晶画面にはいくつもの窓が開いている。位置も何ひとつ変わってない。でも、まるで突然視力が落ちたかのようにすべての文字が、写真がぼやけていく。目が疲れたのかと何度か瞬きをくり返す。

 変わらない。私の視力は悪くない。とても良いというわけではないが、車の運転は裸眼で出来るほどにはある。それなのに、文字がまったく読めない。カメラのピントがズレていくかのように、すべての輪郭をなくしていく。

 何が起きているのかわからず、それでも視線は動けない。


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