・ユキナ

「はい」

『芳野さん? 今どこですか』

「え」

『十時半ですよ。珍しいね、芳野さんが何もなしで遅れるの』

「え……あ……もうそんな時間」

『え? もしかしてまだ家? 声掠れてる』

「……申し訳ありません」

『いーよいーよ。いつも十五分前には来てる芳野さんだもん、心配しかしてなかったし。もしかして忙しかったんですか?』

「いや、ちょっと……部屋で倒れてたみたいで。なんか、気づいたら」

『はあ!? 何それ大丈夫?』


 大丈夫です、三十分後には迎えますとくり返した私に、ユキナは無理はしないでと言ってくれた。当然だ。私だって担当作家が家で倒れたと聞いたら打ち合わせより病院に行ってくださいと言うだろう。それでも大丈夫だと繰り返し、通話を切った。

 私は大丈夫だ。倒れた原因を自覚している。体調不良じゃない。今も一切視線を向けないように努めている。パソコンデスクにあるノートパソコン。あれがどうなっているのか、とてもじゃないが確かめる勇気がなかった。

 パソコンデスクに背を向けて視線を逸らし続け、とりあえず着替える。洗面台に立つと、昨日落とせなかったメイクの上からメイク直しを吹きかけて整えた。部屋の隅に蠢く気配は今は感じられない。それとも、昨夜の恐怖が他の小さな異変を鈍らせているのかもしれない。次にリップも直そうとして、やめた。かわりにマスクをつける。身体の心配をしてくれたユキナのことだ、マスクのまま会っても何も言わないだろう。

 すべての支度を十分以内に終わらせ、洗面室を出ようとして――しまったと思った。

 リビングから洗面室へ向かうには、リビングを背にすればいい。だから気にしていなかった。玄関へ向かうにはリビングを通らなければいけない。当然、さっきとは逆の方向にすべてが向かうことになる。身体も、視線も。

即座に背けたが、それでも視界の端に捉えた。

 昨夜私が設定した覚えのない壁紙を見せつけてきたノートパソコンは、何事もなかったかのように、静かに閉じていた。


**


「マジで来るとはね」


 ストローでレモンスカッシュを飲み込んだ後、ユキナは苦笑した。

 彼女との打ち合わせはいつも同じ喫茶店だ。流行りのカフェとは違う、老紳士が営む昔ながらの喫茶店。レトロというわけではなく、本当にただ古いだけの店。隆介が担当していた頃からここなので、理由は知らない。

 私は汗を拭きながらユキナの向かいに座ると、カウンター奥にいる老紳士マスターに「アイスコーヒーを」と注文した。息を落ち着かせるため胸元に左手をやりながら、右手で鞄を漁る。


「行きますって言いましたよ」

「そうですけどぉ。本当に大丈夫なの?」


 大丈夫です、と力強く返し、鞄から原稿を取り出した。

 今日の打ち合わせは、方向性の確定。

 新人作家の挿絵とカバー絵をユキナに担当してもらうことは決まっていた。まずはその作家の文章のクセや雰囲気を知りたいから、前作の原稿を読ませてということだった。すでに本になっているものを読むと、カバー絵や挿絵の存在が逆に邪魔になるそうだ。

 こういった内容ならば、データで送るだけで充分な挿絵作家やイラストレーターは少なくない。だが、ユキナは必ずこうして直接会っての打ち合わせを好んだ。紙の原稿を読みたいと言う。そうしないと、自分が担当した時にイメージが全く湧かないそうだ。

 私にはわからないが、彼女の仕事はいつも評判がいい。ならば希望通りに動くのが編集の仕事だ。


「その新人作家さんが来れないのは、あたしとしては微妙なんですけどね」


 原稿を受け取ったユキナは、微かに眉を顰めながら呟く。口元はまだ緩んでいるから、本気で機嫌を損ねているわけではない。ただ来れないという事実を口にしているだけ。彼女が不機嫌になったら、こんなものではない。

 それでも一応、私からの謝罪はしておく。当然その新人作家も担当しているからだ。


「すみません。試験が近くて難しいと」

「あー。現役大学生だっけ?」

「ええ。勉強に悪影響があれば、すぐにでも小説はやめなさいと親御さんから言われているそうで」


 ああそうだったね、とユキナはため息を吐いた。

 私の頼んだアイスコーヒーがテーブルに置かれる。老紳士に会釈をして喉を潤すと、彼女はそれを確認してから話を続ける。



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