『リビングにあるデスクトップが立ちあがったんです』


 脳裏に紗和の声が蘇った。

 同時に、視線の先のノートパソコンの画面が白く光る。


『触るとか触ってないとかの話じゃないですよ』


 また、紗和の声が、する。

 でも違う。紗和の時とは違う。だって、彼女は電気が点かなかったと言っていた。私の部屋は煌々とした灯りに照らされている。怖いはずがない。明るい部屋で、閉じておいたはずのノートパソコンが開いていて、勝手に起動したくらいなんだというのだ。違う。紗和の時とは、絶対に違う。誤作動かもしれない。

 息を殺して、そっと足を動かした――。ちゃんと動いた。紗和は動けなくなったと言っていた。やっぱり違う。

 前へ、パソコンデスクへ近づこうとする私の意志とは真逆に、足が動いた。後ずさっている。どうして。わからない。確かめてやろうと思っているはずなのに、全身が拒否している。あれに近づいてはいけない。本能と言ってもいい。さっきまで聞こえていたはずの、外からの車の走行音が全く聞こえなくなった。耳までおかしくなったのだろうか。ドクドクという、自分の心臓の音しか聞こえない。うるさくて、他の音が何も聞こえない。

 離れよう。このまま外へ出て玄関の鍵をかけ、隆介のマンションに行くのもいいかもしれない。快く迎えてはくれないだろうが、この部屋でひと晩過ごすよりずっとマシだ。早く家を出よう。

 頭ではそう考えているのに、三歩後ずさったら動けなくなってしまった。

 立ちあがったノートパソコンの画面に現れた壁紙。元は自分で撮った海外の風景写真を設定している。それが、勝手に、変わっていく。画面中央から渦が巻かれていく。吸い込まれるように壁紙が消えていく。


『目だけはデスクトップの画面から離れてくれない。見なきゃいいのに、視線すら自分の意志で動けなくなりました』


 紗和の声がやんでくれない。

 額から伝った汗が、顎から滴った。こんなに寒いのに汗をかいている。今は特に空調を必要としない、過ごしやすい時期のはずだ。それなのに、寒い。背筋から凍っていくような寒さを感じている。でも、汗が止まらない。次に何が起きるのか、私は知っている。


『そして、設定した覚えのない壁紙が現れたんです』


 風景写真が消え、真っ黒な画面が現れた。室内が反射され、ソファやテレビが映っている。なんだやっぱり誤作動とか壊れたとかじゃないの、と、頭の隅で微かな希望が囁いた。

 しかし、すぐに絶望に変わる。映りこんだソファやテレビが、私のものじゃない。――いや、私のものなのだろう。でも、違う。が、画面の中のソファはボロボロに破れ、テレビにヒビが入っている。あれは、

 ――ハァ。

 大きな息が耳元に当たる。振り返ることができない。首も動かない。私の意識はすべて、ノートパソコンへ向かっている。まるでそれ以外許されていないかのように。

 ブイイン、と濁った音がした。

 ようやく瞬きをして――そして、見た。

 大翔が言っていた。


『あれは目だった。人間の』


 紗和が言っていた。


『最初は猫の目かと思ったけど、絶対違う。あれは人間の目です。イラストじゃない。本物の眼球に見えました』


 その瞳が、ぎょろりと動いた。瞼のない眼球は暗闇に浮いているように自由に動き、瞼がないはずなのに目を細めたように見えた。

 ひっ、と喉の奥で音がする。それが自分のものだと思った瞬間、私は意識を手放した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る