晩夏(おそなつ)
暁 雪白
第1話 予兆
ぱん、と乾いた音が響いた。
研究室の扉を開けたのと同時だった。
未祐の口は、「失礼しま―――」で止まった。
立っている二人―――先生と助手が向き合って立っている。そして、二人は未祐を見ていた。その向こうの窓は大きく開け放たれて、夏の終わりの濃い緑と蝉の声を室内に取り入れている。
先生はいつもの穏やかな表情で、助手の若田部さんはいつもの無表情ではなく、まるで恐ろしいものを見るような目で、未祐を見ていた。
「あぅ―――」
あ、とも、う、とも判別のつかない声を未祐は思わず出してしまった。明らかに、今自分は非常に気まずいタイミングで研究室の扉を開けたのだということは分かった。
もしかしたら、ノックをしなかったのかもしれない。「失礼しま―――」と同時に扉を開けてしまったのかもしれない。そういうことが頭の中を駆け巡るなかで、今すぐ扉を閉めて出ていくか、何もなかったかのように研究室の自分の机に着くか、必死に答えをはじき出そうとする。
「若田部さん、お茶が足にかかったんじゃない?火傷は―――」
榊教授の女性としては低めの声で、未祐は我に返った。若田部さんも我に返ったようだ。
「えっあっ」
若田部さんが長くてほっそりとした脚を、持ち上げる。長すぎて余っているので、優雅に見える。同時に、また、ぱん、と軽い音がした。
床に転がる割れたティーカップらしきものを、若田部さんが蹴ったのだ。
「危ない」
榊教授が慌てている若田部さんの足元のカップに手を伸ばしたので、未祐は弾かれたように駆け寄った。
「私がやります、先生」
未祐は、部屋の隅に立てかけてある小さな箒に駆け寄った。
―――私が扉を開けたから驚いてカップを落としたのか、それとも先に驚くようなことがあってカップを落とした瞬間に私が入って来たのか――
未祐が勘ぐるほど、若田部の態度はおかしかった。いつも穏やかで冷静で知的で、少し陰があって、美しい。それが若田部助手だったからだ。
晩夏(おそなつ) 暁 雪白 @yukishiro-akatsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。晩夏(おそなつ)の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます