異世界が現実的すぎる。

苺伊千衛

プロローグ 死にたがり少女の異世界転移

「……と、いうわけでこの世界はもうすぐで滅びそうなのじゃ」


 四方八方真っ暗で、壁もなければ床も天井もない異空間に、まばゆい光を放って浮かんでいる人影が一つ。うっすらと青い髪が神秘的な白装束の美青年が、柔らかな笑みを浮かべこう続ける。


「そんな世界を救えるのは、おぬしだけなのじゃ。どうか、力を貸してはくれぬだろうか」


 しかし、私はそれどころではなかった。


「……っかく」

「え?」


 低く呟いた私に聞き返そうと近づけてきた耳を思い切り引っ張って、叫んでやる。


「せっかく死ねるところだったのに!」

「痛い痛い鼓膜破れる!」


 余裕そうな態度はどこへやら、半泣きで耳をさする青年――これから転移する世界の神だと名乗っている――に、私は思いっきりため息をついた。


 高二の冬だった。


 もとから人生に絶望していたうえに、受験のストレスだとか、唯一と言っていい友達に愛想を尽かされたとか、父親が精神を病んだとか、かわいがっていたペットもいきなりいなくなったとか、一個一個は普通に生きていて普通に経験する程度だけど、ブッキングすることでそうそうないレベルにまで勢力を強めた不幸が私に襲いかかった。


 それで、死のうと思った。どうせ将来への望みもなかったし。


 ずっと空に憧れていたから、よく晴れた日に、学校の屋上から飛び降りることにした。空を飛んでから死にたかった。


 冬の空気は冷たい以上に澄んでいて、雲一つない青空を見上げながらフェンスを飛び越え、屋上から飛び降りようとした矢先、異世界の神様に召喚され、『世界の狭間』とかなんとかいうこの不思議空間に移送させられたというわけだ。


「いやいやお嬢ちゃん、捏造入っておるぞ」

 神様と名乗る青年が口を挟んでくる。

「お嬢ちゃん、本当は死ぬ気なんてなかったんじゃろ?」

「な……」


「それどころかフェンスを飛び越えることができなかったじゃろ。どんくさすぎて」


「や、やめて……」


「フェンスの上にまたがった状態で外側に降り立つことも内側に戻ることもできず、かけつけた教師に『待て、早まるんじゃない、野長のなが! 生きていればきっといいことあるから! ……野長? もしかして、降りられないのか? 降りられないからそんな泣きそうになっているのか? 待ってろ、先生が今助けてやるからな!』と言われて」


「もう勘弁してくださいぃぃぃぃぃぃ」


 あのときのことがまざまざと思い出される。


 片方の足をフェンスにかけたところまではよかった。


 しかし、想像していたよりもフェンスが高くて、向こう側に足がつかなかったのだ。


 このままもうちょっと重心をずらせば向こう側に足がつく。だけど、もし何かの拍子に……たとえば手汗がすごいとかそんな理由で手が滑って、向こう側につく前に身体が傾いて、犬〇家もびっくりのがに股で真っ逆さまに落ちていったら。


 あまりにも死に様が無様だ。


 かといってここで自殺を諦めたらそれはそれで格好悪い。教師の呼びかけで改心して自殺を諦めたならまだしも、フェンスが高すぎてどうにもならなかったとかいう理由で死ねなかったと知れれば一生笑い者だ。


 そんなふうに、にっちもさっちもいかない状況に陥っていた。体育教師が近づいてくる。私を抱き上げ、こちら側に引き戻すためだ。その様子を遠巻きに見ている他の教職員と、この屋上で起こっている騒ぎを見物しようと授業もほったらかしで窓際に集まってこっちを見てくる生徒たち。『なんであいつフェンスにまたがってるんだ?』『すっごい泣きそうな顔してる』『股とか痛くならないのかな』『なんかシュールでおもろい』『パンツ見えないかな』『かわいそうに……』聞こえもしない声が聞こえてきて、世界中のみんなが私を憐れみながら笑っている気分になって、死にたい、いや今死のうとしてるんだよ、でもなんで死なないんだ、そうだ、フェンスが高いからだ、どうすればいい、手が滑らなければいい、でも今手汗すごくないか、意識すればするほど手のひらにじめっとした生ぬるい液体が滲んで、


「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 絶叫した。


 あんなこと思い出したくない……。


 耳の奥で渦巻く好奇の声をかき消すべく頭を抱えて叫び続けていると、神様が私の肩にぽんと手をおいた。


「わしに協力してくれたら、その事実をなかったことにしてやれるぞ」


 ピタッと叫ぶのをやめる。


「……マジですか?」


「ああ。今から転移する世界でやるべきことをなし終えたら、元の世界に戻ってくるときに褒美としてその記憶と事実を消し去ってやろう」


「やるべきことって……」


「さっき説明したじゃろ」


 呆れたように神様は肩をすくめた。


「いや、おおまかなことは覚えていますよ」


 確か、今から行く世界には『絶望粒子』というのがはびこっていて、その粒子は心が弱った人に入り込んで成長していく。やがて絶望粒子が『絶望塊』にまでなると死ぬ。


 だから、そうなる前に絶望粒子の影響を受けない異世界人である私が宿主に入り込んだ粒子を除去するのだ。


 また、絶望粒子が発生しやすい特異点というものがある。今から私が召喚される城はちょうど特異点の真上に位置しており、通常より絶望粒子に感染しやすい。絶望塊にまで成長すると絶望粒子は感染力を持つ。このままでは城が絶望粒子の温床となり、やがて世界中に絶望が伝播していき、みんな死んでしまう、と。


「うん、まあ、だいたいよしとしよう」


「あの、もう一回説明してもらっても……」


「説明したってどうせお嬢ちゃんすぐ忘れてしまうじゃろ」


 それは事実だ。


「面倒だからお嬢ちゃんのスマホにアプリを入れておいてやろう。そのアプリを開けばお嬢ちゃんの知りたいことはだいたいのっておる。それでも解決できそうになければ電話問い合わせもできるぞよ」


「えっ、異世界にスマホ持っていくの?」


「もちろんじゃよ。向こうの世界は、建物の様式こそ古めかしいものの、文明レベルはおぬしのおった世界と変わらぬし、電気、ガス、水道もじゃんじゃん使える」


 なんか、夢がない……。


 かといって今から中世レベルの文明で暮らせとかなったらそれはそれでものすごく苦労しそうだから文句も言えない。


 神様は、やにわに腕をさっと挙げた。


「まぁ、ここで話し込んでいても事態は何も進まぬ。とりあえずお主を転移させるが、覚悟のほどは大丈夫か?」


 適当にうなずいておく。


 神様は安心したように目尻を下げ、腕を上げたまま手のひらを天にかざし、ぶつぶつと聞き取れないほどの小さい声、しかも普通の十倍速くらいの早口でなにかを呟いた。


 すると、真っ暗だった空間が切り裂かれ、ぱっくりした割れ目から極彩色の空間が覗く。


 そのまばゆい光を見ていると、今更ながらに不安になってきた。


 異世界に住む人々……人間とは言うけれど、そもそもそれはちゃんと人の姿をしているだろうか。人の姿をしていても、絶望粒子とやらにやられて、目もうつろで、人形のようになっているかもしれない。どうしよう、転移したとたん襲われたら、縋られたら、殺されたら……!


「何をしておる、お嬢ちゃん。とっとと行くが良い」


「でもっ」


「お嬢ちゃんが覚悟できてないことなんてお見通しじゃ。大丈夫、そんなに悪くない世界じゃから」


 神様は優しく微笑んだ。


 神様のパワーというのはやはりすごいもので、その笑みを見ていると、悲観する気持ちが少し薄れていった。


 とん、とまるで万華鏡のような空間に踏み出す。黒い空間との境目をつま先が越した途端、すさまじい吸引力によって空間に吸い込まれる。


 空間の向こう側の世界へと吸い寄せられるなか、遠くから神様の声が聞こえてきた。


「心配せんでいい。奴らは不器用じゃが、とても愛おしい」


 それを最後に、私の意識はなくなった。

 



 そして、新たな世界で目覚めた私の目に飛び込んできた、最初のものは……。


「おう、起きたか」


 半裸の、猫耳男の姿だった。

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