彼女と二人で
絵子
1
店内に「蛍の光」が流れた。本当は「別れのワルツ」という曲らしいということを最近知ったが、人けがだんだんと減っていくスーパーの物寂しさには「蛍の光」の方がしっくりくる気がする。賞味期限切れの商品や惣菜の廃棄をするついでに、本日の晩飯を物色する。ヒレカツ丼と枝豆をビニール袋の中に入れて、バックヤードの在庫整理に取りかかる。珍しくこの時間まで残っていたベテランの岡﨑さんが「これも持っていったら?」とパイナップルのカットフルーツをくれた。口の中が乾いてきて、しばらく水分をとっていなかったことに気づく。ペットボトルの水を勢いよく飲みほし、何気なくレジの方をのぞくと、人が列をつくっていた。今日は少し帰るのが遅くなりそうだ。「あっち手伝ってきます」と一言岡﨑さんに伝えると、俺はスイングドアに手をかけた。
スーパーから自転車で十五分、広尾駅近くのアパートに帰宅する。三階建ての鉄骨アパート。築三十年で十畳。大学へのアクセスも良くて家賃五万だから、十分満足している。
真っ暗闇の中、手探りで電気のスイッチに触れる。明かりに照らされて現れたのはげんなりするほどの汚い部屋だ。ベッドの上でくしゃくしゃになったタオルケットと脱ぎっぱなしのジャージ。洗濯物の山。床にそのままのゴミ袋はパンパンに膨れ上がり、ペットボトルがボーリングのピンのように並んでいる。机の上は参考書やら印刷されたエントリーシートやらで散らかっていて、全くスペースがない。食事場所を最低限確保するため、物を一時的に床に移動させる。
ビニール袋から持って帰ってきたヒレカツ丼と枝豆、それからカットパインを取り出す。プラスチックの容器がパキパキと音を立てる。枝豆を皮についた塩までじっくりと味わった後、ヒレカツ丼の容器の蓋を開けて、一気にかきこむ。手前にいた彼女が「あっためないの?」とばかりに静かに微笑んでいる。彼女がいるだけで、冷えたご飯が少しだけ美味しく感じる。
「一口食べる?」
そう語りかけたものの、彼女からの返答はない。
――それもそうだ。写真の中の彼女は動かないのだから。急に鬱屈とした気分になった。何をしているんだ、俺は。
写真立てに彼女の写真を飾るようになってから一ヶ月が経つ。俺は、彼女――三条さんに恋をしている。三条さんは同じ大学の史学科の同級生だ。さらりと伸ばした黒髪の似合う清楚な女の子。三条さんへの好意はなぜかすぐに友人の本村に気づかれた。
「三条さんの写真を手に入れたぞ」
ある日、本村は俺に自慢げにスマフォの画面を見せてきた。おしゃれなパンケーキを目の前に、カメラに笑顔を向ける彼女は可愛らしい。いや、そうじゃなくて・・・。
「なんでお前が三条さんの写真を持ってるんだよ」
「彼女からもらったんだ。お前にやるよ」
本村の彼女は三条さんと仲が良いらしい。それにしても勝手に写真を横流しにするような奴が友人なんて・・・。三条さんの人間関係が心配になった。本村はむすっとする俺を見てにやにやしている。こいつに三条さんの話をした覚えは一切ないのだが、なぜバレた。「いらねえよ」と俺はぶっきらぼうに返す。
「まあまあ遠慮するなって」
本村が言い終わるやいなや、光を放つスマフォの画面には「写真が送信されました」という文字が浮かんでいた。
そんなこんなで三条さんの写真を手に入れた俺は、結局彼女の写真を使用して食事をしている。我ながら自分のしていることが気持ち悪い。だが、彼女の笑顔を見ているだけで心が満たされるのも事実だ。
彼女のことが気になり始めたのは、三年生の時に史学科で開かれた飲み会がきかっけだった。どこのコミュニティにも「陽キャ」という奴はいるもので、突然グループに招待され、史学科の中で親睦を深める機会が設けられた。別に予定もなければ断る理由もないし、俺はその飲み会に参加することを決めた。当日は六十人近くが集まり、知っている顔もいれば全く見覚えのない者もいた。
俺はなんとなく本村や同じ近代史専攻の仲間たちと話をしながら、周囲をぼんやりと眺めていた。素朴なやつかオタクしかいないようなこの学科で、よくこれだけの人が集まったものだ。三条さんは史学科にしては華やかな女子たちと談笑をしていた。とくに派手な装いでもないが、彼女には自然と目を惹かれる美しさがある。周りがカシオレを選ぶ中で、三条さんはジントニックのグラスを持っていた。意外と飲めるんだなあと俺は何の気なしに思った。
一次会は二時間でお開きとなった。まだそこまで遅い時間ではないからか、渋谷はあいかわらずの喧噪だった。ビルがひしめき、居酒屋やカラオケの看板がギラギラと光を放つ。俺は思わず目を細めた。外の空気に身体が冷やされる。「この後、二次会行く人~!」と例の陽キャが叫んでいる。本村はいつの間にそんなに飲んだのか、ベロンベロンに酔っ払っていて、仲間に介抱されていた。二次会はどうするかな、と一人で考えていた時、突然腹部に激痛が走った。ペンチで引っ張られているような、わき腹を襲う捩れるような痛みに、うめき声しか出ない。俺はそのままひざから崩れ落ちた。全身から汗が噴き出す。
「藤堂くん、大丈夫?」
視界がぼやけて意識が朦朧とする中で、遠くから誰かの声が聞こえた。
俺はそのまま病院に運ばれた。救急車を呼んでくれたのは三条さんだった。遅い時間なのに病院まで付き添ってくれて、彼女はたいして親しくもない俺を助けてくれた。俺はその時から三条さんのことが好きになった。痛みの原因が尿管結石だったというのが本当に情けない・・・。とは言っても、俺と三条さんの距離がそれ以上急速に縮まることはなく、ただ彼女の姿を目で追うだけの日々が続いている。俺は一人で「ごちそうさま」をつぶやくと、食べ終わった晩飯の容器をゴミ袋に乱暴に捨てた。
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