学級戦士ダイハモン

第一幕 最悪のクラス替え


第一場

 ボクたちっていうのは、今夜宙に浮く生き物たちの中で、一番うつくしいかも知れないわね、と小太郎少年は考えます。この街でたった一つしかない、超高層のタワーマンションの光を浴びて、この街の、人の暮らしの上空で、二人の小学生が輝いている。夜です。

 ボクたちというのは、小太郎と花のこと。今月今夜のこの街は、ほとんど二人の小学生のための舞台装置で、この街で一番背の高い、お金持ちたちの暮らしをその体に抱えてギラギラ輝くマンションですら、おかしな角度で二人を照らすスポットライトなのでした。

 二人の小学生はまるでアニメの女の子です。一人目の小学生、花は全体的に白い、看護婦さんのような可愛い格好をしていました。ふんわりしたエプロンスカートに、ピンクの腕章、雪のように真っ白な手袋、それに大きな宝石のついたピンク色のステッキだって手にしています。対してもう一人の小学生の小太郎は、全体的に青っぽい、婦警さんのような恰好で、紺色のタイトスカート、青いジャケット、水色の腕章、それに大きな宝石のついた水色のステッキを手に持っています。そうしてそれぞれが赤色灯の光る、車でもヘリコプターでもない、身体のほとんどがむき出しになる変わった乗り物に乗って、夜空に浮かんでいるのでした。


 ボクたち二人っていうのは、最高にうつくしい。だけど花の、この柔らかさは何だろう、と盗むようにまなざしを向けて、小太郎はため息をつきます。こうして夜に、街の上空に二人で距離をとって浮かんでいても、花が柔らかい生き物だというのがはっきりとわかります。花の茶色い髪、茶色い目、真っ白な肌に、丸いおでこ、大きな丸いレンズの眼鏡。春の夜風が、彼女の長い髪をふんわりと巻き上げるのを、いつまでもじっと見ていられると良い。天使みたいよ、と彼女に届かないような音量で声を出してみたりします。

そんな小太郎の、思わず身体から漏れ出るような声をかき消すように、突然、男の不気味な笑い声が夜空に響き渡ります。大人の声。背後のマンションが声を跳ね返して、特殊な音響を作ります。可愛い花がはっと小さくきらめいて、叫びます。

「小太郎さん! 前を!」

「わ?」

 緑色の光線がまっすぐ、小太郎の身体に穴を開けてやろうと、飛び込んできます。はっと一瞬息を吸いこんで目を大きく開くと彼の目玉が緑の宝石のように輝きます。小太郎は少女のように悲鳴を上げながら、ほとんど落ちるように乗り物の高度を下げて、その光線をかわします。

 キッと夜空を睨んで乗り物の高度を戻せば、花と丁度同じくらいの高さのところにさっきまでいなかったはずの人間が、ぼうっと不気味に浮かんでいるのが見えます。大人の男です。髪をオールバックにした、顔色の悪い、男は見るからに人間なのになんの乗り物にも乗らず、どこにも脚をつけないでただ宙に浮いているのです。

小太郎は「花、チャンス! やっとでてきた!」と叫びながら花のそばに機体を寄せます。やっと横に並んだ、二人の正反対のうつくしい顔。

不気味に微笑む男が口を開くと、「君たちは、悲鳴も素敵なんだな」と感心したように、褒めるようなことを言います。そうしてそのまま手のひらを二人に見せるように目の前にあげると、新しい光線がそこから次々と生まれでて、彼女たちの悲鳴を街中にもっと響かせようと、矢のように鋭く飛び出していきます。

 光線たちが、うつくしい頬をかすめると、二人の小学生は少しひるんで、でも前をじっと見据えながら、二本のステッキを宙で交えます。二人は決して逃げることはしません。男は敵なのです。二人の。夜空に浮かぶ二人の、魔法が使える女の子の。小太郎は心の中でいっぱいに、声に出さずにしゃべります。ありがとうね。

光線が、緑が、ピンクが、赤が、紫が、彼女たちを貫こうとしますが、でも二人は絶対、負けないのです。

アンタみたいのがいるからボクは、敵っていうのがいるもんだから、うつくしい!

「小太郎さん、いきます!」

「うん、花! ボクたち今、最高よ。だから、負けられるかよ!」

男が叫びます。うつくしさに触れた男は、なんだかとっても幸せそう。

「いい、いいぞ二人とも! 見逃せない、それでこそ、それでこそ、僕の女の子だ!」

 辺りがカッと明るくなって、二人の小さな身体が光を放ちます。

 今は一九九三年の四月です。もう『美少女戦士セーラームーン』のアニメ放送が始まっていて、女の子たちはすっかり夢中です。ですからこの年、魔法が使える女の子たちなんていうのは、とっくに何かと戦う時代なのです。


第二場


 幕ノ内小学校五年三組には、この小学校の七不思議を全て知っている人はいません。ですから、いつもクラスの中心にいるこの世の中の主人公のような少年、大野ハモン君が、夜に巨大な赤いロボットを目撃したとなれば、それが例え小学校の校舎で起きたことではなくっても、学校の七不思議では? と考える人もいるわけです。

「オレは昨日見た!」

 教室の丁度真ん中にある机の上に、上履きを履いたまま立って、片手をあげてハモンが大声で宣言します。他の子どもたちが(このクラスというのは、男子も女子も一緒にいるのです)、彼を取り囲むように口々に何か言いながら中央に集まって来ます。

「なんだぁ」

「見たって、何を?」

「おいハモン、僕の机の上に立つな!」

 少年は、何か大きな波のようなものが自分の方に押し寄せていくのを感じます。

「何を見たと思う?」

「もったいぶりますなぁ」

「おばけ?」

一九九三年の四月、この新しい季節に、クラス替えが行われて今の五年三組ができました。

 最悪のクラス替えなんだよ、とハモンの脳みその中を、何度もその言葉がかすめます。新しいクラスにも四年生の頃から仲の良い男子はいっぱいいます。だけど。

「なんとなんと! 空飛ぶ巨大な赤いロボット!」

 クラスメイト達が一瞬、しんと静まり返って、その後爆発したように騒ぎ出します。すごい! どこで? いつ? どんな大きさ?

 大騒ぎの中で、彼はクラスメイト達の、何かぐっと抑えて飲み込むような、無理に騒いでみせたような様子を、言葉にできないけれど感じて、少し寂しくなるのでした。最悪のクラス替えなんだよ。振り切るように、教室を見渡してより一層大きな声で言います。

「見たい奴は放課後、教室残ってオレと探しにいこうぜ!」

 その瞬間です。本当に、本当に一瞬スッと熱が、波が、引きます。静かになった後、あー、誰かが放った小さな声が残ります。それがハモンの心を冷やすのです。

 その余韻の、その静けさの中、突然教室に雷が鳴ります。

「そいつは、無理だよなぁ!」

 雷から逃げるように子どもたちは自分の席を目指して、さっと散り散りに分解します。

 教卓の前にいた大人の若い男が、ハモンの、この世の主人公みたいな少年よりも大きな声を出したのです。でも子供だけの世界に、なぜ大人が?

「先生! いつの間に!」

対抗するように大声を出せば、大声が帰ってくるものです。

「机の上に立つな! もう終わりの会の時間は過ぎてるんだ!」

 きりーつ、礼、着席と学級委員長の少年の声が響きます。一斉に椅子を引く音。これから終わりの会を始めます。まず、今日の連絡事項ですが、

「今日は全員、委員会のポスター作成のため、居残りをしてもらう!」

 教室は不満の渦。さすがの可愛い子どもたちも、怒り心頭です。これには、一瞬の遅れもなく、先生、今日は用事があるんですけどぉ? なんていう声が、教室に満ち溢れます。

「お前らなぁ、もう四月半ばだってのに、委員会決めるのに何日かかってると思ってるんだ!」

「だって! 男子が全然図書委員決めないから!」

「はい出ましたね、ええ、ええ、男子のせい」

 小学生の男女というのは、同じ部屋に入れるとこのように対立し合うものなのです。

男女戦争で大騒ぎの教室で、とにかく! と先生がもう一度雷を落とします。

「理由はどうあれ委員会のポスターは今日までだ! 終わったグループから職員室に持ってくるように! 以上! すぐ取り掛かれ!」

 ぴしゃん、とドアが閉められて先生が出ていくと、教室がまた子どもの時間を取り戻します。いえ、そのはずでした。去年までは。

 誰かが喋り出す前に、委員長の男の子がみんなを諭すようにポスター作成の指示を始めます。

「仕方ない、みんな早く帰りたいし、さっさとポスター作ろうか。委員会ごとにグループになって、画用紙とペンは後ろにあるから各自で取、おい、らーめん!」

 クラスには大抵、和を乱す問題児というものがいるものです。クラスの話は嫌? でももう少し。きっと好きになるから付き合ってください。

委員長の少年が大声で怒鳴る先に、既に赤いランドセルを背負って、ドアに手をかけている女子が一人。らーめん、という妙ちくりんなあだ名で呼ばれた彼女が振り向きます。彼女の顔を見た小学生はみんな、女王様みたいだ、と一度思うものです。大きな、アーモンドのような形の目に、長い睫毛の派手な顔立ち、長い髪。

「何よ?」

 威圧的で、明らかに機嫌の悪い声がその綺麗な彼女から放たれます。委員長の少年はぐっとひるんだ後、正義。

「委員会のポスター! 君は図書委員だろ!」

 そんなの、と彼女は一人の少年の方を顎でしゃくって言います。気の弱そうな少年が肩に力をこめて震えます。図書委員の彼の顔には、絆創膏がたくさん。

「こいつが一人でやれば十分でしょ。私は忙しいのよ! それじゃ!」

 おい! と叫んで、委員長は廊下の方へ追いかけて行きますが、彼女はもう廊下の人だかりの中です。彼女の怖ろしさなんて、ちっともわかっていない六年生の男子たちが、らーめんちゃんらーめんちゃんと騒ぎたてます。

「あいつはアッシー君と帰るってよ、じゃオレも」

 委員長はらーめんを逃した怒りをこめて、教室から抜け出そうとするハモンの肩を力いっぱい掴みます。

「駄目だぁ!」

「なんでだよ! オレだって忙しいんだよ! 探さなきゃ、ロボットロボットロボット!」

 暴れながら叫んだ瞬間、すっ、と委員長の力が緩みます。押さえつける力がなくなって、ハモンは廊下の方に大きな音を立てて倒れます。

「セイジ! 急に力を緩めるな!」

「すまん」

 キョトンとした顔で委員長が謝ります。

「体育委員! モモエと小太郎だったよな? ハモンを頼む」

「オーケー。ほらハモン、さっさと立ち上がる!」

「んもぅ、重いなぁ」

 モモエと呼ばれたポニーテールの活発そうな女子と、小太郎と呼ばれたココア色の肌の、これはまた、少女と見間違うようなうつくしい少年が、廊下に倒れたままのハモンの脚を片方ずつとって、教室の中に引きずり込んでいきます。

「哲郎ごめん、らーめんのこと。図書委員のポスター僕も手伝うよ」

 委員長が、気の弱そうな絆創膏の少年の元に歩み寄って謝ります。他の子どもたちがガラガラと音を立てながら机を動かして作業を始める喧騒に紛れて、絆創膏の少年が恥ずかしそうに、うん、大丈夫、ありがとう、と小さく言ってうつむきます。

「赤いロボット、本当に大きかったんだぞ。飛行機みたいな音立ててさ、なんで他に誰も見てないんだよ?」

 体育委員会の三人は、机を向かい合わせてポスターを描いています。もちろん真面目に取り組んでいるのは一人を除いてですが。

「あんなデカイやつ、おい小太郎、本当に見なかったのかよ?」

「見てないわよ」

 小太郎少年は目線もくれずに答えます。マジックペンが手の動きに合わせてキュッキュッと音を立てます。

「じゃモモエは?」

「見てない。あのね、アタシ今日はあんたにかまってるヒマはないのよ。自分の分が終わったら先に帰るからね!」

 モモエは乱暴にドンと机を叩きます。

「おおこわ」

 ふざけた口調で煽っても、黙々と作業を続けるだけで、反応がありません。

最悪のクラス替えなんだよ、という言葉が、また頭の中を駆け巡ります。モモエだって去年までなら、ドッジボールをぶつけて女子を泣かせただとか、宿題を真面目にヤレだとか、事あるごとに突っかかってきてはハモンを追い回していたのです。それが。

「できたわ! 小太郎はどう? わ、可愛い!」

「んー、いいんじゃない? ボクのももうすぐ完成」

 ハモンの馬鹿な話には目もくれず、目的を達成して帰る準備を始めているではありませんか。教室を見渡せば、生徒の姿はもう、かなり少なくなっています。

「アンタが最初にふざけるせいでみんなより遅くなっちゃったじゃない! それ、ちゃんと先生に出しといてよ!」

 モモエは赤いランドセルを背負いながら、飛び出すように教室を出ていきます。小太郎も机の上の消しゴムのカスを払って帰り支度を始めています。

「小太郎帰んのか?」

「うん。花ぁ、おまたせ」

「はぁい」

 花、と呼ばれた少女が、少し離れた席で一人、静かに読書をしていた本を閉じてゆっくりハモンたちの元に歩み寄ります。

「ハモンさん、赤いロボット、見つけたら私にも教えて下さいます?」

 茶色い長い髪、茶色い目、真っ白な肌に、丸いおでこ、大きな丸いレンズの眼鏡。なんとも優しそうな女の子が、ハモンに笑いかけます。

「なんだぁ花、お前興味あんのか?」

 相手が女子だって、自分の話に興味を持たれたら嬉しいものです。ハモンの笑顔を見て、はい、とにっこり咲くように笑う丸い眼鏡の彼女の手を、小太郎がぐいと引きます。

「花、そんなの見つかりっこないよ。付き合うだけ無駄。ほら帰ろう」

「ハモンさん、ポスター頑張ってくださいね。お先に失礼します」

 そうしてハモンは一人になってしまったのです。

 彼は教室を見渡します。残った生徒のほとんどが机を元通りの位置に戻したり、マジックペンを集めたり、帰り支度を始めています。だけどもう一人。もう一人だけ、ハモンと同じくぽつんと一人で画用紙に向かっている少年がいます。彼の顔や腕や脚には、絆創膏がたくさん貼ってあります。それはあの、気の弱そうな図書委員の彼です。

「哲郎! お前もまだポスター終わってないんか!」

 机をズリズリ引きずって、ハモンが大声で近づくと哲郎は驚きと不安を混ぜた声で「ハモン君?」と返します。

 二人の机がくっつけられると、少し大きな島ができます。それがピッタリ合わさっているのを見て、哲郎は少し安心して、言います。

「うん、セイジ君も手伝ってくれたから、後一枚なんだけど」

 机の上には既に出来上がった二枚のポスターが重ねてあります。本を読む前に手を洗いましょう。本の返却日を守りましょう。

「セイジは?」

「これ描いてくれた後帰ったよ、用事があるんだって」

 ハモンはつまらなそうに机の縁に脚を掛けて、椅子が倒れるか倒れないかの境目まで身体を預けながら揺れます。

「なあんかクラスの奴ら、みんな薄情だよなぁ。付き合いがクソ悪いというか。しかもクラスってさ、このまま六年まで続くんだよな? クラス替えが二年に一度なんて大博打だぜ。ほんと最悪のクラス替えだって」

「みんな、アンタと違って日々成長しているのよ」

 ハモンの言葉を遮るように、バシッと、ビリっとするような声が、矢のように飛び込んできます。振り向くと眼鏡の少女です。ただ、今度は眼鏡が四角い。

「アンタがそうしてのんきに文句垂れてる間も、みんな習い事や家の手伝いをしているのよ」

 おかっぱ頭の、明らかにキツそうな女の子です。でもハモンは怯みません。おぉ、ついに来たな、我がライバル、のり子よ、と大仰に構えます。

 彼女はこのクラスの副委員長で、三年生の時、ハモンを学級裁判でボコボコにしてから一方的に彼の一番のライバルとなってしまったのです。彼女は、成績は学年で一番、運動神経もバツグンで、ピアノだって弾けます。おまけに真面目な優しい人間に対しては、「哲郎、私も手伝うわ」、人一倍優しく接します。

「のり子よ、我がライバル……オレも」

「うるさい、黙って手を動かして。今日は私が日直なんだから、私が鍵閉め担当なのよ。十分後に完成してなかったら追い出す。校庭で描きなさい」


第三場


「ごめんねのり子」

 夕陽が教室に差し込む頃、のり子が鍵を閉めます。

「いいのよ。ほとんどコイツのせいじゃない」

「気にすんなよ哲郎!」

 のり子がハモンを睨みます。結局、のり子と哲郎がハモンのポスターを手伝っていたらこんな時間になってしまったのです。ポスターと鍵を渡しに職員室に行ったら、先生も呆れ顔です。

 職員室を出た三人は長い廊下を抜けて下駄箱に向かいます。人の少ない夕焼けの小学校は、クラスの人気者といたって、ちょっぴり怖い。

「ぼく、ここが苦手だな……」

小学校には必ず、薄暗くてひんやりとした場所があるものです。ここならそう、下駄箱のそばの、体育館に続く廊下です。いつも日が当たらず、静かで、暗い。廊下の壁には何年も前の生徒たちが、毎年卒業記念に作る木製のタイルがはめ込んであるのですが、タイルにはそれぞれ自身を模した顔が、彫刻刀で荒く削られてあるのです。それが、一人で通ると、無数の顔にじっと見つめられているようで居心地が悪いのです。ハモンがそのざらざらしたタイルに触れながらずんずん歩いていきます。

「オレたちもこんなの作んのか? なぁ、実はこいつら全部、夕方の学校に閉じ込められて出てこれなくなった生徒の顔だったりして」

「やめてよハモン君!」

 哲郎が怯えた声を出したって、のり子はちっとも怖くなりません。ただ、いつもその場所を通るときに気になることがあるのです。それはちょうど赤い消火栓の目の前にあるタイルで、昭和六十二年度卒業六年三組と書かれた枠の中に、他と同じように子どもたちの顔がはめ込んであるのですが、その中に一つだけ、顔のない子どもがいるのです。顔の輪郭や、髪や、ポロシャツのような襟付きの服は、はっきりと上手に彫られています。ただ、目や鼻や口が、顔の中が全くつるつるで、まるで作りかけの、途中みたいな状態で止まっているのです。彫られた短い髪の毛から、男子生徒でしょうか。のり子はそれを怖いとは思いません。むしろ、どこか惹かれる。

「しかしお前も、ちったぁらーめんに言い返せよ。あのままじゃやられっぱなしじゃねえかよ」

「そ、そんな怖いこと、できないよ」

 タイルの前でじっと立っていたら、二人の声が遠ざかっていくのに気がついて、振り切るように、それでも後ろ髪を引かれながら、小走りでその場所を後にします。


 下駄箱で靴を履き替えて、オレンジ色に染まった校庭を抜けながら、あの、と勇気を出して哲郎が言います。春の風が心を撫でます。どきどきと、何か起こりそうな気持ちになる、あの風です。

「赤いロボットって、どんなだったの……?」

 ハモンが大声を出して、哲郎の両手をとって振ります。

「哲郎! お前、興味あんのか?」

 ハモンの笑顔に、哲郎もつられて笑顔になります。

「うん。ちょっと痛いな、ハモン君」

「そうか、そうかそうか」

 かかかかっとハモンが笑います。

「昨日の夜なんだけどよ、まず、大きくてな」

「うん」

「赤くて」

「うん」

「ごーっと大きな音出して」

「うん」

「裏山の方に飛んでった」

「裏山?」

「おう。何か、デカイ化け物みたいなの、抱えて」

「化け物!」

「そう、もじゃもじゃの、なん」

「馬鹿馬鹿しい」

 のり子に話の腰を折られて、ハモンは機嫌悪く唸ります。

「何だよ!」

「大体、何でそんな大きくて派手なもの、アンタ以外誰も見てないのよ。そんなの空に飛んでたら、今頃ニュースになってるでしょ」

「見た人間が他にいないから、ニュースになってねぇんだろうが!」

「だから、そもそも誰にも見つからないのがおかしいって言ってんの」

 ハモンとのり子が睨み合うのを、哲郎がどきどきしながら割って入ります。

「ぼくは、気になるなぁ! ほら、学校の七不思議、知ってる?」

「あ? 校庭でこっくりさんすると地面に引きずり込まれるってやつだろ」

「うん。ねえ、七つ全部知ってる?」

「知らねぇ。でもあれって、全部知ったら赤い女が迎えに来るんだろ?」

「うん。もしかしたら、ロボットもその一つかもしれないよ。裏山って学校に近いし……」

 のり子が目を閉じて言います。

「哲郎には悪いけど、そういうのだって、馬鹿馬鹿しい」

「ぼく……、ぼくハモン君がロボットのこと調べるんだったら、一緒に調べたい」

 哲郎の言葉に、ハモンの顔が夕焼けと一緒に輝きます。

「哲郎! そうか! やってくれるか!」

「うん、今日はもう遅いし、明日は塾があるから難しいけど、明後日なら大丈夫」

 のり子は眉間にシワを寄せて、哲郎を見つめます。

「哲郎本気なの? こんな馬鹿と付き合う必要ないわよ」

「うん、ごめんのり子。でもぼくもロボット、見てみたいんだ」

「そう。でもその七不思議を調べるんなら、七つ全部知ってしまうと赤い女が迎えに来るんでしょ?」

「全部調べなきゃいいんだろ」

「アンタには聞いてない」

「ふ、ふ、ハモン君はロボットの正体がわかったらどうする?」

「乗っ取る」

「え」

「乗っ取る、その赤いロボット」

 ハモンの言葉に哲郎がじっと黙るので、のり子が顔を覗き込みます。得体のしれないロボットを乗っ取るなんて聞いて、弱虫の哲郎がビビったのでしょうか。でも哲郎が驚いたのはどうやらハモンの発言ではないようです。心を抜かれたように遠くを見つめています。

「哲郎?」

「何だ? どうした?」

「……ごめん。ぼく家あっちだから遅くなる前に帰るね。ごめん、また明日学校で!」

 血相を変えて逃げるように哲郎が駆け出します。ハモンは小さくなっていくその背中に、目が離せないでいます。

「哲郎の家ってあっちだっけか?」

「違う」

 街に自転車のベルが響きます。チャリチャリチャリチャリ。狩りをするような、群れがいる。


第四場


 ここからは少し、恐ろしい場面です。

 公園の地面に、哲郎が涙を流しながら転がっています。周りには、自転車を置いて彼を取り囲む三人の男子生徒がいます。五年三組の生徒ではありません。六年生です。哲郎の顔は、身体は、いつも絆創膏まみれです。

「おいお前」

 六年生の一人がドスの利いた声で哲郎に話しかけながら、トントンと軽く、まるでゴミみたいに彼の顔を蹴ります。

「これから走って家帰って、まだ貸してくれてない別のカセット持って来い」

「ぐ、……ぃ、う、まだ、ぐ、マリオカート返してくれ、ぇ、ない、よね」

 顔を蹴る力が強くなります。

「うちは門限が早いんだよ、急げよ早く。ほら立て」

 太った少年が哲郎を無理矢理立たせると、別の痩せた少年が笑いながらドロップキックをかますので、また地面に倒れ込みます。

「なぁお前図書委員になったんだって? 生意気な奴!」

 少年たちは苛立つ声を上げながら、哲郎のお腹を、脚を、蹴ります。頭を必死に守りながら、身体を丸めてやり過ごそうとしますが、涙が止まりません。恐怖で立って走って逃げようなんて、とても。絶望した、その時です。

「おい!」

 突然、暖かい波のようなものが、哲郎の心に押し寄せます。

 遠くではっきりと力強い声がします。六年生とは違う、怒りを孕んだ声です。

「お前ら哲郎に何してんだ!」

 少年たちが蹴るのを止めて、声の主に悪態をつきます。何だお前! 降りてこい!

 哲郎はゆっくり恐る恐る頭の手をほどくと、地面に手をつくように身体を起こして声の主を見ます。ジャングルジムの上。夕焼けの光を浴びて、目が焼けるぐらい眩しい。男の子?

「あいつ、五年の大野ハモンだ!」

「長田君どうしよ!」

 慌てる少年たちの中でただ一人冷静な、リーダー格の太った少年が「決まってんだろ」と答えます。

「殺す」

 するとジャングルジムの上で仁王立ちになっちたハモンが、デブに答えるように六年生たちを指差して宣言します。

「お前ら全員殺す!」

 ジャングルジムの方向から温かい波が哲郎の方へ押し寄せます。ハモン君。ハモン君! ハモン君!

ハモンはもう一度「お前ら絶対、全員殺す!」と絶叫しながら、敵にお尻を向けてモタモタとジャングルジムを降ります。六年生の一人が、ゲラゲラ笑いながら脱いだ靴をハモンに投げつけます。

「ハモン君!」

 ごっ、と音を立てて、突然、六年生の一人が倒れ込みます。がっ、と声を上げてもう一人が鼻を押さえてうずくまります。四角い眼鏡をかけた女の子がいつの間にか、哲郎を取り囲んでいた輪の近くに潜んでいたのです。そこからもう一つ、暖かい波。

「こいつ、こいつ、この女子! 俺、鼻が!」

 のり子は手にもった習字セットの鞄をブンブン振り回して、飛びかかります。腕を掴まれて、脚を蹴られますが、怯みません。

「死ね! 死ねよ!」

 突然現れた正体不明の女子に対して、パニックになった少年の攻撃はめちゃくちゃです。

 形勢が崩れた隙に、ジャングルジムから爆速で駆けつけたハモンが、リーダー格のデブの首を後ろから腕で引いて倒すと寝技に持ち込みます。

 のり子がお腹を蹴られて転びます。ダラダラと鼻血を垂らした少年が、そばにあったのり子のランドセルを彼女の頭上にかかげて、開きます。

「泣けよ!」

 少年は泣いています。のり子の頭に自分の筆箱が、教科書が、ノートが、降り注ぎます。

「泣けよ!」

 少年はもう一度絶叫しますが、のり子は泣きません。ランドセルの雨が止んだら、うめき声を挙げなから少年の脚にタックルします。ハモンがうずくまったデブから離れて、最初に倒れた別の少年の背中を殴ります。少年が怯んで、自分の自転車の方へ駆け出すと、乱暴に寝かせていた自転車を立ち上げて跨ります。

「おい! 逃げるな!」

 デブが叫んでも、もう彼は自転車を漕ぎ出しています。のり子は鼻血の少年から離れて肩を上下させながら、冷たい、刺すような視線で彼らを見つめます。鼻血の少年がのろのろと立ち上がって、自転車の方に歩み寄ります。太った少年はハモンたちと遠ざかる子分たちを交互にみた後、汚い言葉を吐きながら自転車に乗って子分たちの方を追いかけていきます。公園には、靴がぽつんと転がっています。彼らが公園の外から出て完全に姿が見えなくなるまで、ハモンとのり子は二匹の狼みたいに、死ね、死ね、と吠えるのでした。


 哲郎は、哲郎は戦闘の間、一歩も動けませんでした。ただ二人の暖かい波のようなものに飲まれて、恐怖も感じず、それは本当に一瞬の出来事のようでした。

「哲郎大丈夫か?」

 ハモンが哲郎の背中の砂粒を払います。のり子がしゃがんで、散り散りになったランドセルの中身を黙々と集めます。

「うん、う……ごめん」

 背中をさすられれば、涙が溢れて、止まらなくなります。

「良い良いそんなの。おい、もう五時過ぎてんのか」

「哲郎。脚、血が出てる」

 哲郎は鼻水をすすりながら答えます。

「う、ぐ、二人もだよ」

 そうして砂粒で白くなった哲郎のランドセルから、フィルムケースが取り出されます。フィルムケースの中には、ぎっしり詰まった絆創膏。


第五場


 夕闇の住宅街を、三人の小学五年生が歩きます。三人はみんな、全身絆創膏まみれの異様な子どもたちです。

「帰りに、また六年生にあったらどうする?」

「殺す」

 笑顔。

 住宅街は、ひっそりと静まり返って、本当は笑顔の裏でじくじく痛む身体を、寂しい気持ちが包みます。

「そういやのり子、今日習い事なかったのかよ?」

「習い事? のり子用事があったの?」

 のり子は痛いところを突かれたような、不機嫌な顔で「ない」と一言短く答えます。

「コイツ、馬鹿みてぇにいろいろやってんだぜ、習い事、な?」

「うるさい」

「へぇ、でものり子、本当にいろいろすごいよね。勉強も体育も、音楽も、プールも! 泳ぎ、早いし」

 哲郎が感心したように言いますが、のり子はまだ眉間にシワを寄せたままです。

「もう辞めた」

「え、何で?」

 のり子が黙ると怖い。沈黙が、痛く刺さります。あのハモンだって、わざとらしく口笛を吹きながら側溝のドブに視線を向けたりしています。街は静かです。静か。静かすぎる?

「ねぇ、暗くなると、こんなに静かになるんだね」

 太陽が沈んで、薄暗い街はおかしいくらい静かです。

「オレ達が、六年生を殺したからな」

「本当ね。でもこんな、こんなに静かなのはおかしいでしょ」

一軒家の庭を覗き込みますが、まるで人が住んでいないように静かです。隣も、もう一つ先の家も。放課後にちょっかいを出す、生意気な唸り声の可愛くない犬も、いません。道の左右にある塀と塀が、じりじりと自分たちの方に迫ってくるような静けさです。

「ねぇ……私たち、公園を出てから人に会った?」

「……どうだったかな」

 無言。無言。無言。無言の先に。

「わぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

 突然、ハモンが叫んで走り出します。残された二人も、弾かれたようにランドセルを揺らして駆け出します。

「ちょっと何!」

「ハモン君待って!」

 子どもたちは、夕闇の住宅街を一心不乱に走ります。もう、ここから抜け出せないかも、と哲郎が不吉なことを思い浮かべます。家に帰れず、一生。この静かで不気味な迷路の中を。角を曲がります、角を曲がります、角を曲がります。

「そっち! 家から遠ざかっちゃう!」

「ハモン君!」

 角を曲がります。角を曲がります。角を、行き止まり。

「ハモン!」

 行き止まりの塀の前で、背を向けたハモンが静かに立っています。黙ったのり子も怖いけれど、黙ったハモンはもっと怖い。それが、肩を揺らして急に、くつくつ、笑い始めます。

「く……ぐはは!」

「……何よ?」

「ふふ、どう、怖かっただろ?」

 振り向くと、いつもの笑顔のハモンです。大きな目の、活発そうな、主人公みたいな彼です。やっぱり、眩しい、と哲郎は思います。

 のり子が手に持った習字セットの鞄を、ハモンの脇腹に強く当てます。

「痛っ! つー! はぁもう帰ろうぜ、ほら、あそこにちゃんと人がいるじゃねぇかよ」

 振り向くと、ハモンが指差した先に、ちゃあんと人がいます。遠くの方にいて顔はよく見えないけれど、男の人が二人。

「なんだ、良かった……」

「アンタが急に走り出したから、心配になったんでしょ」

「騙されんなよ。痛っ! 暴力反たぁい!」

 喧嘩する二人と、ほっとした気持ちでわいわい並んで歩きます。本当に、本当に今日はいろんなことがありました。

だけど今日はまだ終わっていないのです。学校は、家に帰るまでが学校です。

 最初に異変に気づいたのり子が、振り上げた習字セットの腕を下げて、足を止めます。女の子だから変質者には目ざとい? いやいや、そんなの女の子か男の子かなんて、関係ないことです。

「駄目、待って二人とも……」

三人の歩む先にはあの、この世に他の人間がちゃんと存在すると教えてくれた二人の男がいますが、それがこちらへ向かってきています。このまま行けばすれ違うことになるでしょう。そこまでは良いのです。ただ、二人の男は歩いてなんかいませんでした。前に突き出した両手をだらんと下げて、両足を揃えて、ダン、ダン、と二人共がおんなじリズムで飛ぶように、前に進んでいるのです。顔は、顔なんてありません。灰色の萎びた皮膚の上に、大きな黄色い御札が、遮るようにだらんと垂れ下がっています。おかしい。異常者? 変質者? 誘拐犯?

 誰かが、放心したように「あれって、キョンシー?」と尋ねます。それが合図でした。

 子どもたちは逆方向に駆け出します。わーわー叫ぶ大きな声が、エンジンになります。ランドセルが揺れて、呼吸が苦しい。

「ポマードポマードポマード!」

「テクマクマヤコン! テクマクマヤコン!」

「ホロレチュチュパレロ!」

知っている呪文を馬鹿みたいに叫びながら走っているのは、家がある方向とは逆方向です。逆方向には。

 行き止まりです。

「嘘ぉ!」あの強い強いのり子から揺れた声が出ます。

 哲郎は、既に泣いています。一度涙を流すと、その日は簡単に泣けるものです。

「掴まったら絶対ヤバい! 塀に登れ!」

「う……ぐ、無理!」

「のり子先登れ! 哲郎!」

 キョンシーはゆっくりと、でも着実にこちらに向かって来ています。まだ時間に余裕はありますが、急いで!

「哲郎立て!」

 のり子が地面に置いたランドセルを飛び箱板のようにして、助走して跳ねます。でも全く駄目なのです。塀のてっぺんに手が届かず、ざらざらの壁面を擦るように落ちます。のり子は諦めません。顎を擦りむいても、もう一度。

「オレがお前を持ち上げる。哲郎は後から引っ張り上げるぞ!」

「わかった! 哲郎こっちに!」

 そんなことを言われたって、腰が抜ければどうにもならないことなのです。あんな風に恐怖がゆっくりと近づいて来るからこそ、もう、どうにだってできない。

「わ、わ……」

「哲郎!」

「哲郎!」

 二人が自分の名前を吠えたって、そんなの何の刺激にもなりません。段々と近づいて来るものの風貌が、距離によって顕になっていく恐怖。二体のキョンシーの長い爪。御札の隙間から見える真っ黒な洞穴みたいな目。その一体が今までにない動きを、突然ぐぎぎと首を右に曲げ始めます。そして哲郎を、見ている。

「わ、わ、わわ、わーーーーーーーーーーーー!」

 もう目を閉じていたい、と思えばその欲望に流されます。目を閉じて、うずくまって、叫んでいたい。そうして消えればいい。そのまま消えればいい。

「あーもう! うるさい!」

 知らない女の人の声が、哲郎の目を開きます。直後、哲郎のそばを強い力が駆け抜けます。ハモンとのり子の叫ぶ声。突風です。行き止まりの袋小路の中を、何の前触れもなく小さな竜巻のような風が吹き荒れたのです。二体のキョンシーが強い風に煽られて、大きな音を立てながら身体を派手に、電柱や塀にそれぞれ打ちつけた後、地面にどっさり倒れ込みます。

「イライラする! 子ども! 何でいるのよ!」

 哲郎が背にしている塀の上から、ビリビリした不機嫌な女の人の声が降り注ぎます。女の人は大人です。髪が長くて、お化粧をしていて、胸が、大きい。そして全身赤い服を着ています。赤いチャイナドレス。赤いハイヒール。赤い唇赤い爪。

「……赤い女が、来た」

 その不思議で、初めて見るうつくしさは、七不思議としか思えません。ハモンが放心したように、でも確信を持って、言います。

「赤い女が……赤い女がオレたちを、迎えに来た」

 赤い女は恐ろしいほど美しい。玉虫色のまぶた。長いまつげ。アーモンドみたいな形の大きな目。山のような胸。ドレスの横からむき出しの、健康的な太くて長い脚。感動で大きな声が出ます。

「赤い女は……赤い女は、超美人!」

 褒められたって、超美人の赤い女は超不機嫌です。突き放すように大声をあげます。

「あったり前でしょ子ども! 家に帰れ!」

「キレイなおねえさん、ぼくの名前は大野ハモンと言います……」

「うるさい! 今のうちに帰れ!」

 うっとりしながら紳士に自己紹介したって駄目です。

「今のうち! ほら哲郎立って、帰ろ! ハモン早く!」

 のり子は哲郎の手を引っ張り上げて、赤い女に頭を下げます。

「とにかく助けてくれてありがとうございます。私たち、ちゃんと帰ります。行こ」

 キビキビ動く少女に対して、ダラダラといつまでも動かない少年二人にイライラを募らせた赤い女は、「早くしなさいよ!」突然三人をめがけて手に持った緑色の大きなふさふさの扇子を、ばさっと振りかざします。すると風の束が、大きな塊になって、抗えないようなものすごい力で三人を押し出します。

 子どもたちは風に乗って、倒れたキョンシーの前からどんどん離されて行きます。ものすごく強烈な台風でまともに立っていられないリポーターみたいに、足を止めてなんていられないのです。わーわー叫びながら、でもハモンは諦めきれません。振り返って、強風から守るように目をうっすら開けると、赤い女が塀から降りてキョンシーに近づいていくのが見えます。

「……赤い女!」

 叫んだって、無駄なことです。強い力に押し出されて、ついに三人は女の姿が見えないような遠いところまで来てしまいました。ふっと風が止んで、地面にへたりこみます。

「何よ……何よさっきのあれ!」

「……戻るぞ」

 立ち上がったハモンに、のり子が怒りで声を震わせます。

「は?」

「戻って助けるんだよ!」

「わかんないの? 助けてくれたのはあの女の人の方よ! もう帰るのよ!」

「馬鹿! だってあの赤い春麗があのキョンシーに殺されたらどうする!」

「馬鹿はアンタ! アンタの方よ! あっ馬鹿!」

 ハモンがもと来た方へ駆け出します。のり子が素早く立ち上がってランドセルの位置を正しながら、追いかけるために遅れて駆け出します。理解のできないことがいっぺんに起きてもう身体も心もボロボロです。ランドセルは走るのに向いてない。

「赤い女!」

 逸る気持ちが、足をもつれさせます。

「ハモン!」後ろで追いかけて来るのり子の声も振り切ります。そうして、あの場所に戻れば。

「……いない! 赤い女!」

 遅れて、のり子が駆け込みます。

「いない、あっち探すぞ!」

「いい加減にしてよ!」

 のり子の怒りは頂点です。怒れば、胸ぐらだって掴みます。

「離せよこら!」

「私たちが行って何になるのよ! いい加減に、哲郎だってもう帰りたいのよ! 哲……嘘、哲郎は?!」

 振り返った先に哲郎はいません。

慌てて来た道を少し戻ってみても、誰もいません。街は依然、眠ったように静かです。ただ、だんだんと薄暗い、から、暗いに変わっていきます。



 哲郎は風で飛ばされて来た場所でぽつんと一人、へたりこんでいましたが、ゆっくりと立ち上がります。もう二人を追いかける元気はありません。家に帰るのです。ただ、ここはいつもの通学路とは違って、あたりを見渡しても不気味な程静かな、見たこともない知らない家が並ぶばかりの知らない場所です。どう行けば、いつもの見知った道に出るのか検討も付きません。ただ、歩かないことには家にはたどり着けませんから、あの怪物と赤い女がいた方角に注意して、住宅街を彷徨い歩き始めました。角を曲がっても知らない場所です。ジャンプして遠くを見ても知らない場所です。歩いても歩いても、また知らない場所です。

 しばらく歩いたところで、哲郎は突然思いついたようにきょろきょろしながら空の方に視線を向けて何かを探し始めます。ありました! この街にはたった一つだけ、とっても背の高いマンションがあるのです。そこはちょうど街の真ん中。そこを目指して歩けば、知っている道に出られます!

 哲郎は元気になって駆け足で進みます。街の中心を目指せば、この迷宮ともお別れです。嬉しい気持ちに力が湧きます。中心に近づくのだから、何か音も聞こえます。人がいる世界に戻ってきたのです。目指して、行き止まりがあれば迂回して、音の鳴る方へ。

 音がどんどん大きくなります。バシバシと、何かを叩くような音と、女の人の声です。人!

「危ない!」

 嬉しくなってまっすぐ駆け込んだ交差点で、突如何かが脇道から抱きしめるようにタックルしてきます。あまりに突然のことにされるがまま。そのまま道路に身体を擦るように、一緒に倒れ込んでしまいます。

「何で帰ってないのよ!」

 タックルして来た正体が怒鳴ります。目を開けると、哲郎の中にまた泣き出したい気持ちが溢れます。だって、だってその正体はあの赤い女だったのです。

 赤い女は哲郎に背を向けて立ち上がります。眼前のむき出しの綺麗な脚は傷だらけで、血が出ているところだってあります。

「もういい! 倒すまでそこの電柱の裏にいてよ!」

 女の先には、一体の、あのキョンシーがいます。哲郎がちょうど駆け込んだ交差点の中央。女はキョンシーから哲郎を守ってくれたのです。キョンシーは最初に発見したときと違って、顔の前に垂れ下がっていた黄色い御札がありません。その灰色の恐ろしい顔が、今ははっきりわかります。大きく開いた口の中に、鋭い牙のような歯が並んでいます。

 哲郎はキョンシーから視線を逸らさないまま、ずりずり引きずるようにして電柱の裏に隠れます。

「来る!」

女が力を込めるように少し屈んだのに合わせて、トン、とキョンシーが飛び上がると、空中でまるでコンパスみたいにパカッと脚を広げます。そしてそのままぐるぐると、鋭い独楽みたいに女を目掛けて旋回します。女はもっと高く飛び上がって、キョンシーの頭目掛けて、かかと落としをしかけますが、キョンシー独楽のスピードは早い。避けられた力の行き場がなくなると女はバランスを崩して、倒れ込みます。素早く立ち上がって、もう一度飛び上がって、今度は上段蹴りで回る顔を狙います。ドゴッと重たい音がして、でも互角です。女もキョンシーもそれぞれ塀に弾き飛ばされてしまいました。女がブロック塀で頭を強く打って、うめき声をあげながらうずくまります。

 立ち上がるのはキョンシーの方が先でした。ヨロヨロと恨めしそうに女に近づきます。哲郎は「危ない!」と叫びますが、女は動けません。キョンシーは女の長い髪を引っ掴むと、空中に持ち上げます。

「うううぐぐ!」

 女が苦しそうな声をあげます。キョンシーがじっとりと、長い爪を女の左脚に沿わせると皮膚が破けて血が流れます。

「ぎゃあああああ!」

 哲郎はもう涙を流せないくらいの恐ろしさに震えます。どうしよう。どうしよう。赤い女が、死んでしまう!

 きょろきょろと、あたりを見渡しても、やっぱり他に人なんていません。代わりに、キョンシーの後ろに何か緑色の、ふさふさしたものを見つけます。

 扇子です。なかなか家に帰らないハモン達に痺れを切らした女が、突風を起こしたあの扇子です! きっと哲郎をキョンシーから庇う際に、女が落としたのでしょう。あれがあれば、きっと。

 ここからは、哲郎にとっては全てがスローモーションです。一秒が膨らむ。何がなんだかわかりませんが、哲郎は駆け出しています。扇子を目掛けて、もうちょっと、キョンシーが気づきます。「駄目!」と女が叫びます。女の脚に沿わせていた長い爪を、哲郎に向けてぶん、と横に振ります。女の叫び声に、哲郎はほとんどコケるようにしてスライディングします。頭のてっぺんの髪がじょきんと切れますが、手の先にはあの扇子。

「おねえさんこれ!」

 哲郎は顔を上げ、立ち上がるとまた駆け出して少し離れたところから女の方に扇子を放り投げます。

「嘘! あの子ども!」驚きながら女が受け取ると、時間が正しく流れ始めます。女の目には炎のような力がみなぎっている。

「ありがと! 最大パワーで行くわよ!」

 赤い女が扇子をぐりぐりと手首を何度も裏返すように振ると、嵐が巻き起こります。女の髪が、チャイナドレスの端が、バサバサと風で持ち上がります。キョンシーも、もう女の髪を掴んでいられません。目を開けていられないような風の強さです。敵が身体から離れたのを合図に、女が振り向いてバシッと、扇子閉じてキョンシーの方へ掲げると、嵐がキョンシー目掛けて飛び込んでいきます。化け物の絶叫。

 するとキョンシーの身体が砂のようにぼろぼろと崩れて、風に乗って消えていきます。

 さっきまでの暴力が、嘘みたいにあっけない。

「はぁー疲れた。今回はヤバかったわ」

 女は呑気に伸びをした後、コツコツとハイヒールの音を立てながら近づいてくると、しゃがんで哲郎の顔を覗き込みます。目をじっと見られて、哲郎は縮み上がります。

「……アンタ、私と一緒に戦ってくれたの?」

「へ……戦う?」

「ん、違う? んーん、でも別に良いの」

 赤い女はとっても機嫌が良さそうにニコニコしながら、哲郎のほっぺを細長い指でつまみます。綺麗な顔が近づきます。近い!

「あの、おねえさん、脚……その、これ」

 恥ずかしくなって逃げるように、ランドセルからあのフィルムケースを取り出します。中には最初より少なくなったけれど、絆創膏がたくさん。

「痛そう……大丈夫ですか? これ、あげます」

 赤い女は心臓を射抜かれたように大きな目をさらに大きく開けて、息をはっと吸い込んで哲郎を見つめます。それから解けたように「優しいんだ。う、ふふ、嬉しい」と笑って暖かく抱きしめるので、哲郎は恐怖と違うドキドキで身体が満たされます。女の声は、優しい。

「家どこ? 送ってあげるわ」

 赤い女はそのまま哲郎を抱き上げると、びょん、と塀の上までジャンプします。

「え、あの、本屋さんの近くのマンションです」

「オーケー」と言って、次の瞬間には屋根の上。

「うわ、うわ!」

「大丈夫、まかせて」

女はそうして屋根の上を走り出すと、隣の家の屋根、また隣の家の屋根へ飛び移っていくのです。耳元では、風を切る音がします。

「う、う!」

 怖いけれど、目をつぶってぎゅっとしがみつくと不思議と何でもないことのように安心します。女には、安心できる強さと優しさがあるのを感じます。柔らかくっていい匂い。

「この辺?」

 本屋の屋根のてっぺんで女が尋ねます。

「うん、あのマンションの302号室です」

「302号室か」

 哲郎は慌てたように「ぼく、後は自分で帰れます」と言います。さっきまで人がいなかったのが嘘のように、街には人が今まで通り歩いているのです。マンションに飛び上がるチャイナドレスの赤い女を見たら、きっと騒ぎになるでしょう。

「あの……今日は本当にありがとうございました!」

「良いのよぉ」

 女が屋根からすとんと降りて哲郎を離すと、また彼のほっぺをつまんでうっとりと、笑います。

「うふふ、じゃあまた明日ね!」

 女がシュッと飛び上がると、屋根から屋根へ、最後には遠く消えていきます。

 哲郎は女に、あなたは七不思議の赤い女なのか、とか赤いロボットを知っているか、ということは聞けませんでした。でも良いのです。そういうのは、きっといろいろ秘密だから。


第六場


 ハモンとのり子が一軒家に駆け込みます。

「お母さんただいま! 遅くなってごめんなさい、電話使うね!」

「のり子番号!」

 玄関で慌てて靴を脱ぐと、廊下にある電話の受話器を持ち上げます。のり子が連絡網のプリントが綴ってあるファイルをめくって、「宮口哲郎……これ!」と指差します。

 のり子の母親がドアを開けて顔を出します。

「のり子、アンタ今何時だと思ってるの! あら、ハモン君?」

 二人は母親を無視して受話器の音を聞いています。呼び出し音が鳴り続けます。

「お願い哲郎、出て!」

 ガチャ

『……はい、宮口ですけど……』

「哲郎! お前大丈夫なのかよ! ちゃんと家に戻っ……たのか!」

 せき止めていた言葉が溢れて、早口でまくしたてます。

『……ハモン君?』

 のり子が受話器を奪って続けます。

「哲郎? ホント良かった……」

 奪ったものは奪い返されます。

「ちょっと!」

「哲郎! 心配して探し回ったんだぜ!」

『ごめん二人とも……ちょっといろいろあって先帰っちゃって……本当にごめん。あの、明日学校で話したいことがあって』

「良かった……とにかく良かった、本当に大丈夫なんだな? うん、うん、じゃあ明日学校で」


 哲郎は受話器を置くと、自分の部屋に戻ります。家には誰もいなくて、静かです。机の上にあるラジカセのスイッチを入れて、ベッドに倒れ込むと、頭の中に今日の出来事が洪水のように流れ込んできます。

放課後、ポスターの居残りをした。ハモン君と赤いロボットを探す約束をした。六年生に蹴られた。六年生に殴られた。ハモン君は眩しい。のり子は強くてカッコいい。暖かい波のようなもの。キョンシーがまた来るかもしれない。赤い女が迎えに来た。赤い女の声。赤い女の風。赤い女の熱。赤い女は綺麗で、優しかった。

 ラジカセから、曲のイントロにかぶせるように人の話す声がします。流しているのはツメを折って大事にしているカセットで、ラジオで流れたYMOの曲を録音したものです。

今は一九九三年の四月です。哲郎はこの曲のタイトルを知りませんが、邂逅の歌です。

哲郎は目をつぶります。また明日。また、あの赤い女に会えると良い。


幕。

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