第7話 姉弟の事情

「歳は」

「じゅ、13、です」

「13?」

 男の顔がますます険しくなる。


 この世界、花梨かりんと同じような歳で働いている者は少なくない。ただ、普通ならば15歳の成人を終えてからが多く、それよりも幼いというのは、『働かなければ食べていけない者』だ。

 しかし、そうなると働く場所は限られてしまい、普通の商家でというのはほぼ皆無だ。宿屋や飯屋ならまだましで、もっと後ろ暗い仕事をしている者が多いというのは花梨もその身をもって知っている。


 花梨は、ドラノエ商会がどれほどの規模なのか知らない。しかし、この屋敷街にこれほどの大きさの屋敷を持てるのだ、それなりの大きな商会なのだろう。そんな商会が雇うのならば、身元のしっかりとしたそれなりの家の娘か、商人志望の見習いのはずで、そこに紹介者もいない成人前の子供がいることはありえない―――と、目の前の男がそう思っているのが手に取るようにわかる。だが、見も知らないこの男に、自分たちの事情を話すわけにはいかない。




 花梨はそっと首筋に手を触れる。先ほどチリっとした痛みを感じたので、もしかしたら切れてしまったかもしれないと思うと、今さらながら身体に震えが走った。

(会うなり刃物を突き付けるなんて、日本だったら即逮捕なのにっ)

 考えてもしかたがない日本の常識と比べるほど、花梨は自分が混乱しているという自覚はなかった。


 この場ですぐに危害を加えられることはないと思いたいが、相手が自分に対して負の感情を抱いているというのは嫌でも肌で感じる。きちんと食事をするようになったとはいえ、まだまだ貧弱な花梨と、目の前の明らかに鍛えているだろう成人の男では、考えるまでもなく自分が圧倒的に不利だった。

 それならば、どうやってこの場を切り抜けるか。

 花梨が必死に考えていた時だ。

「イレニン!」

 厳しく叱責するような声がその場に響いた。






「イレニン!」

 その声の主が誰なのか、花梨は最初わからなかった。しかし、次の瞬間、腕の中に飛び込んできた小さな存在があり、それが弟の秀英しゅうえいだと気づくと、すぐに強く抱きしめた。先ほどの自分のように、刃物を突き付けられるかもしれないと恐れたからだ。

「ねえちゃっ」

 秀英の泣きそうな声に胸が締め付けられそうになりながら、花梨は更に腕に力を込める。

 自分が傷つけられるより、秀英が傷つけられる方が怖い。

 守れる手段など己の身体しかない花梨は、覆いかぶさるように秀英を抱き込んだ。


 すると、その耳にまた厳しい声が届いた。

「既に帰ったはずではないか? なぜまだここにいる?」

「……父上」

「……え?」

(父上?)

「見慣れぬ子供がいたら不審に思うのは当然でしょう。そうでなくとも、この屋敷には父上一人きりです。妙な輩がこの子供を送り込んで企みを……」

「この子たちは私が雇った、屋敷の正式な使用人だ。その彼女に、この家から出て行った余所者のお前が狼藉を謀るとは情けない」


 声は徐々に近づき、やがて誰かが花梨たちを庇うように前に立ち塞がる。その背中を見て、花梨は思わずその名を呼んだ。

「ド、ドラノエ様……」

 どうやら、この男を止めたのはマルティンだったらしい。今まで聞いたことがないような厳しい声だったので気がつかなかった。

「怖がらせてしまっただろう? すまない、花梨。この不肖の息子には私から強く注意しておく」

「あ、あの、この方……」

「……私の第4子、イレニンだよ」

 花梨はしばらく呆けたようにその顔を見つめた。

(第4子……)

 じわじわとその言葉の意味を理解し、ようやくさっきまでの恐怖が少し収まった。マルティンの息子なら、彼が抑えられるはずだ。刃物を突き付けられた身にすれば簡単に恐怖は消えないものの、さっきまであった命の危機というものは去ったのだと思えた。


(それにしても、父親の家にいる人間を疑う?)

 花梨が働くにしては若過ぎるという問題はあるにせよ、疑ったからといって簡単に殺意を向けるなんてありえない。もしかしたら、彼にとってあれは殺意とも呼べないものかもしれないが、13歳の花梨にとって十分恐ろしい気配だった。


「……だいじょ、ぶ?」

 腕の中から、震える声が尋ねてくる。直接刃物を突き付けられたわけではないが、見ただけでもとても怖かっただろう。そうでなくても、秀英は物心ついたころから過酷な生活をしてきた。マルティンに雇ってもらい、この屋敷で静かに暮らして、ようやく笑顔を取り戻してきたというのに……。

 そう考えると、花梨は自分の身の危険よりもはるかに怒りを覚える。さすがにマルティンの息子に対して文句を言うことはできないが、せめてもときつい眼差しを向けてしまった。




「どうしてまだここにいる? もうとっくに帰ったはずではないか」

 マルティンが男を問い詰めている。その姿を見ながら、花梨はマルティンとの会話を思い出していた。確かに、彼は今日息子が来ると言っていた。ただ、その息子は昼食を食べて帰ったはずで、帰ったはずの息子がなぜ今ここで、花梨に刃物を突き付けたのかわからない。


「父上、あの子供は何者です? なぜこの屋敷にいるのですか」

 男はマルティンの問いに答えず、己の疑問を口にしていた。その眼差しから険はとれておらず、まだ花梨のことを不審に思っているというのが丸わかりだ。しかし、そもそもこの屋敷はマルティンのもので、彼が滞在を許してくれている時点で、花梨が不審者であるわけがないとわかるはずだ。それを、己の思い込みで不審者と決めつけている。


(……この人、嫌い)

 優しい人格者のマルティンの息子とはとても思えない。

「……イレニン」

 マルティンは深い溜め息をついた。このままでは話が進まないと判断したらしい。

 マルティンの視線がこちらを向いて、僅かに苦笑したのがわかった。

「頑固な息子で申し訳ない」

「……いいえ」

「こうなっては、納得するまでしつこくここに通い詰めてくると思う」

「しつこいとは何ですか」

 マルティンの言葉に反論する男に黙りなさいと告げ、彼は軽くだが花梨に頭を下げる。


「父上っ?」

 突然のマルティンの行動に男は驚いたように声を上げたが、マルティンは花梨から視線を外さずに言った。

「絶対に君たちに手を出させないから、説明をしてもいいだろうか」

「……」

 マルティンが言う説明とは、きっと花梨が花街の安宿から逃げたことも含むのだろう。

 本来、花街が13歳の子供を雇うことは禁止で、罰せられるとしたら安宿の女主人のはずだ。しかし、そこには両親が残した借金の返済という問題があり、それだけを考えたら逃げてしまった花梨の方が悪いようにも思えた。

 しかし。


(……睨んでる……)

 琥珀色の目を眇めている男は、きっと真実を話さないと引き下がらない。

(最悪、逃げるしかないよね……)

 マルティンは優しく、花梨たちの味方をしてくれているが、息子はどう判断するのかわからない。最悪、花梨を役人に突き出す可能性も考え、花梨はいざとなったらこの屋敷から逃げようと誓った。






 屋敷内の客間に戻り、花梨は改めてお茶の支度をした。しかし、あんなに怖い目に遭わされた男に美味しいお茶を入れる気にはならず、わざとハチミツを多く入れて甘い茶にして差し出した。

 男はカップを見つめていたが、マルティンが普通にお茶(美味しく入れた)を飲んでいるので、少し警戒しながらも口をつける。


 意外にも男は普通の顔でそれを飲んだ。案外甘いものが好きなのだろうか。意趣返しにならなかったことを悔しく思いながら、花梨はマルティンの後ろに黙って立った。

「……父上」

「ああ、話すから、最後まで口を挟まず聞くように」

 そう前置きをしてマルティンが語ったのは、花梨がこの屋敷に逃げ隠れた時に説明した通りの話だった。




 男は花梨たちの両親が亡くなっていると聞いて眉間に皺を寄せ、その借金を背負わされたと聞いてさらに皺を深くした。

 その上、花街の安宿で働かされ、もう少しで客を取らされていたかもしれないというと、いきなり立ち上がって厳しい声で吠える。

「即刻、その宿の主人を拘束します!」

「落ち着け」

「父上! 父上はこのような子供が大人の欲望の餌食になっていたかもしれないというのに、怒りが湧かないのですか!」


 突然怒り出した男に驚いたが、どうやら義憤に駆られているらしい。男がそこまで同情してくれると思わなかったが、それ以上にマルティンの話を疑いもせず信じたということに更に驚いた。

「ド、ドラノエ様」

 花梨が思わずその名を呼ぶと、振り返ったマルティンは苦笑している。

「私は家族に嘘は言わない。だから、真実を話せば息子はわかってくれると思っていたよ。ただ、あまり君たちのことを広めたくなかったから……隠してしまった私が浅慮だった。怖がらせてすまなかったね」

「い、いいえ、ドラノエ様が私たちのことを考えてくださった上でのことですから……」

 マルティンが頭を下げる必要はないのだ。






               ◇ ◇ ◇






 イレニンは、目の前で穏やかな表情をしている父を見て内心驚愕していた。


 イレニンたち子供にとって、父は怖い存在だった。アデルベルト帝国の王都、ルートヘルトでもその名が知れ渡るドラノエ商会の5代目に当たる父は、食料品や雑貨の販売が主だった家業に武器販売を加え、飛躍的に拡大成長させた功労者だ。

 王にも何度も謁見を許されていたし、勲章も頂いている。陰で『死の商人』とまで呼ばれていたらしい。

 その縁があったのかどうか、イレニンとしては己の実力だと信じているが、王家専属の騎士団に入団できた。誇りある職務だし、やりがいも感じている。


 しかし、父は10年前の隣国との戦争終結を機に表舞台から降り、長兄を商会長にして自身は相談役になってしまった。

 父に尋ねても、

「疲れてしまったんだよ」

 としか言わず、今では十15年前に亡くなった母と暮らしていた屋敷に引きこもっている状態だった。

 そんな父を心配し、時間を見つけては忙しい長兄に代わり様子を見にきていたのだが、今日、イレニンは屋敷の空気が変わったことに気づいた。


 前回屋敷に来たのはひと月ほど前で、その時はいつもと同じ、父は昔から働いている小間使いの夫婦と共に静かに暮らしていた。だが、今日はその静かで……ある意味、時が止まっていたかのような屋敷の中に、新しい空気が吹き込まれているような気がしたのだ。

 出された食事も見たこともないものばかりで美味く、いつもの料理人の作った物とは思えなかった。




 屋敷の中に、目に見えない存在がある。

 その存在が父にとって、自分たち家族にとって害あるものか否か。

 それを確かめるため、父に挨拶をした後、帰るふりをして裏庭に回った。しばらく息を潜めていたイレニンの前に現れたのは、意外にもまだ少女と言える年ごろの子供だった。

(……どこの者だ?)

 この辺りでは見掛けたことのない艶やかな黒髪に黒い瞳の、整った容貌をしていた。少女は機嫌よく鼻歌を歌いながらシーツを取り込んでいる。時が止まっていた屋敷とは対照的な、生命力溢れたその存在があまりにも異質で、次の瞬間には細い腕をひねり上げていた。


「……何者だ」

 意識的に声を落とし、殺気を殺さずぶつける。少女の色白の肌が恐怖で泡立ち、震えているのがわかった。

 作った反応には見えなかったが、それでもさらに少女を問い詰める。すると、か弱い見た目とは裏腹に、なかなか口を割らなかった。その態度がますます怪しく思えてしまい、さらに問い詰めようとした時、現れた父に間に入られてしまった。そこに、小さな幼児も現れる。

(いったい……どうなっている……?)

 混乱したイレニンの眉間の皺は深くなった。




 その父から語られた少女と幼児の姉弟の話は、思いがけず悲惨なものだった。

 東大陸からやってきて、両親を亡くし、その借金を負わされて花街で働かされていたとは。たとえ客を取っていなくとも、15歳以下の子供をそのような場所で働かせるのは犯罪だ。

 いや、その前に、両親の借金を負わされているという話から怪しい。15歳以下の子供に親の借金の責務は無く、両親が亡くなった場合は孤児院に入るのが通常だ。

 この姉弟は正しい段階を踏むことなく、王都の裏社会に飲み込まれたと言うほかない。


「即刻、その宿の主人を拘束します!」 

 すぐに衛兵を引き連れてその安宿に踏み込むつもりだったが、父に宥められてしまった。

 どうやら、この幼い姉弟はその金貸しを告発するよりも、このまま身を隠して逃げることを選びたいらしい。

 甘いとしか言いようがない。その金貸しはこの姉弟……いや、姉である少女に価値を見出し、手元に置いていたはずだ。だとしたら、そう簡単に諦めるとは思えなかった。確かに、このままこの屋敷から出なければ見つからないかもしれない。だが、一歩も出ないことは不可能だ。

 この先、一度も使いに出ないか。

 弟が成長しても学舎に行かせないのか。

 出てくる問題すべてに目を瞑るなど、あの父ならばしないと思うのだが。


 いったい何を考えているのか。そう訝しみながら父を見ると、つい今しがたまで少女に穏やかに笑みかけた父がこちらを向いて意味深に笑んだ。

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