2-3 言い換え
俺は鉛筆を握りしめ、書けそうなところから書き込んでいった。名前、読み仮名、誕生日。住所と電話番号。そして二行しかない学歴と、かろうじて持っていた運転免許所。そこまで書いて、鉛筆が止まった。問題はここからだ。志望なんて初めからしていない。今でも嫌だと思っている。どうしても業務内容と月給が、釣り合っていないと感じるのだ。向かい合う学年主任は、履歴書を食い入るように見つめていた。そして、そのまま俺にきいてきた。
「佐野。掃除は嫌いか?」
「当たり前だろ」
「そうか。じゃあ、何で嫌いなんだ?」
「そんなの汚ねぇし、臭ぇからに決まってんだろ?」
「それを綺麗にできるなんて、凄い仕事だと思わないか?」
「思うかよ。バカじゃねぇの」
俺はそう言いながら、頭の片隅に生じた罪悪感と戦っていた。あの紫ババアには、悪いことをした、と思い始めていた。しかし、今までの俺がそれを邪魔し、自分の行為を正当化しようと必死だった。そんな俺に学年主任はいきなり、脈絡を無視して話し始めた。
「社会学者で、ブルデューって人がいてな。趣味っていうのは階級と結び付けられるとか、言ってたんだ。で、低俗と見なされるのは、学校の授業で習うものではなく、家庭で習うことの延長のものだとか、なんとか言ってたんだ」
学年主任の担当教科は日本史だ。同じ社会の括りではあるが、「社会学」という響きからすると公民とか倫理とかが近いような気がする。しかも、どうしていきなり趣味なんて言葉が出てくるのか疑問だ。一体何が言いたいのか、語っている本人がうろ覚えのせいで、全く分からない。
「要するに、家庭で習ったことの延長は、侮られやすいんじゃないか? 例えばお前が職業差別をしている掃除も、学校と言いうより家庭で習うだろ?」
何が要するになのか、分からないが、俺が今差別論者だと決めつけられたことは分かった。それから、家庭的な職業ほど、下に見られることも、何となく分かった気がする。医者とか教師と比べたら、他の職業が霞んで見える。特に縁の下の力持ち的なものは、表に出ない分、努力が目には見えないから、分かりにくい。
「でもな、佐野。ブルデューの凄いところはそこで終わらないところなんだ。実はブルデューも低い階級出身だったんだが、ちゃんと社会学者になっている。つまりだな、低いと見られていた人でも、ちゃんと努力は認められるということなんだ」
俺は舌打ちしたくなったが、何とかこらえた。何を言い出すのかと思えば、結局ありきたりな言葉ではないか。努力は報われる。そう言いたいだけだ。担任の代わりに要約すれば、掃除も低く見られがちだが、努力は報われるということだろう。志望動機はそんなことを書けばいいのかもしれない。努力すれば必ずいつか報われる職業だと思うからです、と。俺が志望動機の欄にそう書くと、学年主任はうなずいた。誘導されているようで気に食わないが、書かなければならないので、おとなしくしておく。
次は長所と短所だ。志望動機が書けたことで、俺は何となく、書き方が分かったような気がした。要するに言葉の言い換えをしているのだ。一般的に「喧嘩っ早い」ことは、短所である。しかし、言い換えれば、「正義感が強くてすぐ行動に移せる」となる。そして短所はそのまま書けばいい。ただし、オブラートに包む必要がある。言い換えた長所を、また言い換えればいいのだ。「正義感が強すぎて、視野が狭くなる」とでも言えば、格好がつくのではないか。なんだ、簡単ではないかと俺は思っていた。趣味の欄はどうせ見られないから無難に「読書」とでも書けばいいのだろう。俺はすらすらと履歴書を書き終えた。俺って天才かもしれないと高を括っていた。
「こんなもんだろ」
俺は学年主任に、書き終わった履歴書を渡した。
「お前が、読書? 最近読んだ本とかきかれたら、何て答えるつもりだ?」
「は? テキトウだろ、そんなの」
「佐野。相手は大人だ。大人が真剣に、自分たちと一緒に働く仲間を探しているんだ。そんな大人を甘く見てはいけない。で、何を最近読んだんだ?」
「『ごんぎつね』っすかね」
「お前、それは小学校の教科書だろ?」
そう言いつつも、学年主任は俺に履歴書の清書を許した。ボールペンで書かなければならないらしい。二度手間であることに不快感があったが、間違えて一から書き直しになるのが嫌で、紙一枚に一時間近くかけて清書した。そして乾いた後で下書きの鉛筆書きを、丁寧に消した。履歴書を入れる封筒も、下書きが必要だった。学年主任に、ここでもいちいち注意された。株式会社は(株)と略してはならないとか、企業名は「様」ではなく「御中」だとか、面倒なことばかりだった。それでも何とか封筒も準備して、履歴書の写真の裏に名前を書いた上で、糊で張り付け、今度こそ俺の人生初の履歴書が出来上がった。しかしこんなに手間と時間をかけたのに、落ちればゴミ箱行というから驚きだ。
「御中を知らないということは、相手の呼び方も知らないな?」
相手の呼び方など、「てめぇ」しか知らなかった。そんな俺に学年主任は再びため息をもらして、「御社」や「貴社」というのだと教えてくれた。
「じゃあ、これは出しておくから、制服をなんとかしておきなさい」
俺は顔を引きつらせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます