第2話ゆめうつつ





剣導水 弐

ゆめうつつ




盲目であることは、悲しいことです。


けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。


          ヘレン・ケラー










 「みりあ」


 「なあに?」


 「・・・まだ和樹を見ていたのか」


 「そうよ、悪い?」


 「いや」


 「で、何か用?」


 「信のことが分かった」


 食事も取らずに、ミネラルウォーターのみを手にしたまま、みりあは和樹を見ていた。


 そこに鳴海がやってきて、みりあが和樹のことを見ていると知ると、少しムッとする。


 だが、信のことで報告したことがあると分かると、みりあはここでやっと、視線を和樹から鳴海に変えた。


 「どうだったの?」


 足を組み直し、頬杖をつきながら、みりあは艶めかしく聞いてくる。


 「信は、凰鼎夷家の長男だった。王位を放棄しているようだが」


 「・・・へえ、おぼっちゃまだったってわけね。で、もう一人は?」


 「凵畄迩海埜也。通称、紅頭と呼ばれていた男だ」


 「・・・紅頭」


 「ああ。凰鼎夷家に仕えていた、暗殺部隊部隊長だ。かなりの手練だ」


 みりあは視線を前に戻すと、頬杖をしていた手を口元に持ってきて、爪を齧った。


 「知ってるわ。昔、一度だけ、会ったことがあるの」


 「どこでだ?」


 「・・・・・・」


 爪をぎじぎじと噛みながら、みりあは何も答えなかった。


 再び口を開こうとした鳴海だったが、みりあは機嫌が悪くなると大事になるため、話を逸らすことにした。


 「和樹はまだ起きないか」


 「・・・ええ」


 ここでようやくみりあは声を出し、椅子から立ち上がって、和樹の入っている瓶に触れた。


 そして、愛おしい者を見るかのように、目を細めて頬を赤らめる。


 ついさっきまで不機嫌そうだったというのに、今はもう微笑んでいる。


 「和樹だけが、私の心の支えなの」


 「みりあ?」


 「誰にも邪魔はさせないわ。凰鼎夷家だろうと、紅頭だろうとね」


 「みりあ」


 ふわっと、鳴海はみりあの身体を包み込んだ。


 「あんまり和樹ばっかり見るな」


 「和樹は時代の希望よ」


 「そうだとしても、お前と和樹に永遠はこないんだ」


 「来るわ」


 「みりあ」


 「お願いだから、和樹と二人っきりにさせて頂戴」


 「・・・・・・」


 言い出したら聞かないだろう、みりあから放れると、鳴海は出口に向かった。


 部屋から出る時、振り返ってみりあを見てみるが、ずっと和樹から目を逸らさない。


 「あなたは私のものよ」








 「まだ着かねえの?」


 「まだかねえ」


 「てか、本当にこっちにいるの?」


 「俺達も、心当たりがあるだけで、絶対とは言えないからねえ」


 「まじぶっ飛ばす」


 潤著に歩いているのだが、どうも建物らしきものは見えてこない。


 「地下室ってことも有り得るしねー」


 「は?」


 「天空にあるかも!」


 「お前なァ・・・」


 「俺は信を和ませようとしてるだけなのにな。短気は損気だよ」


 舌を出してウインクをする李に、拳をぷるぷるさせながらも、信は耐えていた。


 死神と拓巳は慣れているようで、特にこれといったリアクションもなく、黙々と歩いていた。


 「そんなに簡単に見つかったら、苦労なんてしないでしょ」


 「それは分かってるけどさ」


 一人だけ宙に浮いている李は、きっと疲れた、なんて思っていないのだろう。


 そこまで体力がないわけじゃないと思う信だが、李以外の二人は表情をあまり崩さないため、疲れているのかも分からない。


 一人だけ根をあげてはいけないと、なんとか余裕そうな顔をしている。


 そんなときだった。


 「なんだ!?」


 いきなり、四人は強い光に包まれた。


 ぎゅっと目を瞑り、光を遮る様に腕で顔を隠してみるが、そんなものでは防げなかった。


 しばらく我慢して、ゆっくりと目を開けてみると、そこには李たちがいなかった。


 「あれ?李?あれ?何処行った?」


 信はどこかに座っていて、がばっと立ち上がると、頭の上から何か落ちた。


 「・・・・・・王冠?」


 目を覚ました信は、目の前の光景に思わず絶句した。


 徐々に明るくなっていった視界に映ったのは、紛れもなく、信が生まれた城の中だったからだ。


 「へ?」


 長く赤い、装飾の施された絨毯の上を歩いていき、扉をそーっと開けてみる。


 廊下を覗いてみるが、誰もいない。


 しばらく廊下を歩いていった先に、大きな鏡があり、そこで自分を見てみる。


 「・・・なんだこりゃ」


 そこに映っている信は、まるで王様。


 王冠は手に持っているが、服装も何もかも、国王の格好そのものだった。


 なんだか重くて動き難いその格好から逃れようと、信はその場で脱ぎ始める。


 だがその時、見覚えのある召使がやってきた。


 「信様、そろそろ出番です」


 「凖!?お前、なんでここに・・・いや、それよりも、なんで俺はここに!?出番って、なんだ!?」


 「?何を仰っているのですか?」


 自分が王位を放棄して、城を出たことは、誰もが知っているはずだ。


 それなのに、今目の前にいる凖は、まるでそんなこと知らないように、首を傾げていた。


 その時、また声をかけられたが、その人物には見覚えがなかった。


 「お兄様!ご結婚、おめでとうございます!」


「柚登様、走りまわってはいけないと、何度言えば分かるんですか」


「こわーい。いいじゃない、別に。お兄様のお祝いなんだから。僕だって嬉しいんだよ?」


 「柚登?」


 柚登と呼ばれたその男は、自分よりもまだ小さいが、自分に似ていた。


 そう言えば、信は自分が城を出て行くとき、母親が身篭っていたことを思い出した。


 「やだ、お兄様。まさか可愛い弟のこと、忘れちゃったわけじゃないでしょ?」


 信に似ているが、まだ顔つきは幼く、髪型もちょっとパーマがかかっているようだ。


 「け、結婚って、誰が?誰と?」


 「え、お兄様、今になってまだ抵抗する気!?お兄様の結婚式だよ?」


 「お相手は、玉戩菊家の知尋様です」


 誰だそれ、と思った信だったが、すぐに式が始まってしまうということで、凖も柚登も準備の方に向かってしまった。


 知尋というのが、女であることしか分からないまま、信は式に臨むのだった。








 その頃、死神は黒装束を身に纏い、死人を祀るという、おかしな村にいた。


 「・・・・・・」


 自分が住んでいた村なわけでもなく、死神はあたりをキョロキョロしていると、一人の村人に声をかけられた。


 「あなた、今日は何の当番?」


 「当番?さあ?」


 「さあって、長老から何も言われてないの?」


 「まあ」


 「じゃあ、私と一緒に来なさい。私は今日、死人の身体を清めるための聖杯を任されたの。人手も足りなかったし、丁度良いわ」


 「どうして死人を祀ってる?」


 「はあ?あなた、今更何言ってるの?」


 ぐいぐいと、女の力だからか、この子が力が弱いからなのか、それほど強引な感じに引っ張られることはなかった。


 顔まですっぽりと被せられた服のため、誰が誰だかもわからない。


 女性か男性か、とにかく身長や動きである程度見極めがつく程度だ。


 女に連れて行かれた場所は、石で積み重なって出来た建物だった。


 そこに入ると、女は掴んでいた死神から手を放し、中央に並べられている聖杯を手にした。


 「死人を祀ることで、死人の魂を身体に取り入れ、不死を祈っているのよ。あなた、そんなことも親から教わらなかったの?」


 「・・・不死になんてなったって、良いことないと思うけど」


 「それは言っちゃダメだからね。あなたも殺されるわよ」


 「も、って?」


 「いたのよ。あなたみたいに、不死なんて馬鹿げてるって言ってた人。だけど、村の人に殺されたのを見たわ。だから、むやみにそんなこと言わない方がいいわよ」


 「これ、洗って拭けばいいのか?」


 「うん。お願いね」


 どうして自分がこんなところに飛ばされたのか分からないが、状況を把握するのは困難だろう。


 死人を祀るためには、死人の身体も清める必要があり、まず最初に、身体を綺麗に拭く。


 その後、お腹部分を切除して、体内の臓器を取り出し、中を洗浄する。


 綺麗になったお腹には、その死人の思い出の品などを詰め込むのだとか。


 もう一度身体を綺麗にしたあと、胸の中心からお腹にかけて、死人の名前や生誕日、死亡日を彫る。


 額には、村の人が全員、聖杯に入った聖水をかけていき、ようやく死人は祭壇へと運ばれる。


 祭壇に運ばれた死人は、大理石で出来た棺に納められ、四つ角に火をつけられる。


 長老がよくわからない言葉を話している間、村人はみな跪き、手を合わせて指を絡ませる。


 十分ほどの祈りが終わると、棺から死人を出して、燃やし、その亡骸を長老から順に、口にしていくという、なんとも気持ちの悪い儀式のようだ。


 「この儀式は、十五にならないと参加できないの。けど、歳によって任される仕事も別々だから、ああやって不死の力を手に入れようと死人を食べるのは、歳よりばっかり」


 「・・・・・・」


 見ているだけで吐き気がしそうだ。


 そういえば、前にもこんな光景を見たような気がする。


 それよりも、ここが何処で、どうやって此処に来て、どうすれば元に戻れるのか、それだけを考えていた。








 「なんだここは」


 拓巳がいたのは、草原にぽつんと立っている小屋だった。


 そして、なぜか羊が周りに沢山いる。


 「拓巳、どうした?」


 「へ?」


 名前を呼ばれ、拓巳は声のする方を振り返ってみると、そこには知らない男が立っていた。


 どうして自分のことを知っているのかと、怪訝そうな顔をしていると、男がプッと笑った。


 「なんだよ拓巳、その顔は。ほら、羊たちを散歩させに行くぞ」


 「いや、あの・・・」


 「親父もおふくろも死んじまって、兄弟二人で頑張ってきたけど、やっぱりきついもんがあるよな」


 「兄弟?俺一人っ子・・・」


 「だけどよ、拓巳」


 拓巳の話などまったく聞かない男は、拓巳の肩に腕を回してきた。


 「がんばろうな!」


 「・・・・・・」


 物凄く明るい笑顔を見せられ、拓巳はそれ以上なにも言えなくなってしまった。


 羊の散歩のために着いていくが、もこもこした生物たちが、たまにちらっと拓巳を見てくる。


 暑くもなく寒くもなく、心地良い風が吹いてきて、目を瞑ったら寝てしまいそうだ。


 兄だと言い張る男が休憩だと言えば、拓巳はその場に適当に座る。


 「(こうやってのんびりするのも、久しぶりかも)」


 「ほらよ」


 新鮮な空気を吸い込んでいると、男が拓巳にサンドイッチを渡してきた。


 それを受け取ると、一口食べる。


 まさか、入ってるのは羊の肉じゃないよな、と思いながらも、美味しくて完食。


 それからまたのんびりと散歩をさせたあとは、放牧という形だが、ある程度の広さの場所に押しこむ。


 家に入ると、男は拓巳に先にシャワーでも浴びてこいと言ってきた。


 「(なんなんだ、ここ)」


 確か、自分は李たちと一緒にいたはずだ。


 それなのに、気付けばこんなところにいて、でもここも居心地が悪いわけではなくて。


 シャワーを頭から浴びて、拓巳はしばらく動かずにいた。


 じーっと、ただ排水溝を眺めながら、状況を掴もうと思っていた。


 だが、なかなか思考が上手く働かない。


 がしがしと頭を洗い始め、用意されていた寝巻に着替えて部屋に戻ると、もう布団の用意までしてあった。


 「(至れり尽くせり)」


 「拓巳、出たか。夕飯出来たから喰おうぜ」


 質素ながらも、美味しそうなその食事に、拓巳は無意識に喉を鳴らしていた。


 「いただきまーす」


 「・・・いただきます」








 「なんだろうね、これ。嫌がらせ?」


 李は、腕組をして不敵に笑っていた。


 身につけている洋服はボロボロで、宙に浮くことも出来なかった。


 まだ朝方なのか、誰一人として出会う事はなかったのだが、徐々に空が明るくなると、徐々に人が増え始めた。


 子供たちまでもう起きてきて、スコップやツルハシを持って、何処かへと歩く。


 それを横目に見ていると、ガタイのよい、マッチョというよりは、運動不足なぼてっとしたお腹の男たちが李のもとにやってきた。


 「おい、お前も仕事だろ。早く行け」


 「こんなところでサボろうなんて、生意気なガキだな」


 仕事云々よりも、李にとって、風船のように膨らんだお腹の方が気になってしょうがなかった。


 「俺はガキじゃないし、仕事って何のこと?じゃあ」


 「待て」


 くるっと踵を返し、さっさとここから立ち去ろうとした李だったが、男に捕まってしまった。


 しかも、両手両足に枷をつけられ、重たい袋を持つよう指示された。


 「・・・はあ、なんでこんなことになったかな?」


 よいしょ、と腰を曲げて袋を抱えてみると、思ったよりも重たかった。


 「・・・・・・」


 即座に、自分には持てないと判断した李は、その袋をまたもとの位置に戻した。


 枷もつけられているから、余計に重く感じるのだろう。


 どうしようかと考えていると、男たちがやってきて、李に向かって急に鞭を打ってきた。


 「・・・!」


 「さっきからてめえ、舐めてんのか!見せしめにいたぶってやってやるぜ!」


 そう言うと、他にも数人の男たちがやってきて、李を取り囲んだ。


 普段の力が使えれば、こんな男たちわけもないのだろうが、今はそうはいかない。


 次々に鞭を打たれても、ただただ耐えるしかなかった。


 「へへ・・・!はあ、はあ・・・まあ、今日はこのくらいにしといてやるよ」


 「大人しく言う事聞きゃあいいんだよ!」


 「けどよ、綺麗な顔してんなあ、こいつ」


 「はあ?お前、そういう趣味だったっけ?」


 「女みてぇな顔してるじゃねえか。こいつだったら俺良いぜ」


 「ははは、何言ってんだか」


 ストレス発散も満足したのか、男たちは李から放れていった。


 「いててて・・・」


 軽く舌打ちをしながら起きると、李は血が出た頬を摩る。


 始めからボロボロだったというのに、余計に汚くみすぼらしくなった服に、李は拗ねたように唇を尖らせる。


 「っしょっと」


 身体は痛むが、なんとか身体を起こして背伸びをする。


 「やれやれ。普段あいつらに任せてること、しなきゃいけないってことか」


 ようやく腹を括ったのか、李は袋を両肩にそれぞれ一つずつ乗せると、歩き始めた。


 真夜中になって、やっと仕事も切りあげられ、それぞれ決められた家へと帰って行く。


 ゆっくり湯に浸かりたいところだが、それも出来そうにない。


 労働者の中には、一カ月に一度支給されるという、二五〇ミリの酒をちょびちょびと飲んでいる人が見られる。


 唯一の楽しみなのだろうが、李にとっては酒などどうでも良かった。


 「雲に隠れちゃってるな」


 建物の屋根に上って、月でも眺めようかと思っていた李だが、今日は生憎雲が分厚く空を覆っていて、月は見れそうにない。


 「それにしても、なんでこんなところにいるんだろ」


 李は、考えていた。


 きっとこんなことをしたのは、みりあたちに決まっている。


 一度しか会っていないため、はっきりとしたことは言えないが、その時には、このような不可思議な力を持っている様子はなかった。


 もっと物理的なものであって、時空を越えて人を飛ばすとか、時間を移動するとか、そういうものはなかった。


 現代の科学でそのようなことが出来るのかは知らないが、きっとそう簡単には出来ないだろう。


 「あーあ、考えるの面倒になってきたし」


 はあ、と李にしては珍しく、大きめのため息を吐いた。


 「肉体労働は得意じゃないんだけどな」








 「信様、ご準備出来ました」


 「ああ、ありがとう?」


 「なぜ疑問形なのですか」


 「いや、なんてーか、自分のことのようには思えなくて」


 「それほどまでに嬉しいということですね」


 「あ、そういう解釈しちゃう?」


 てきぱきと、信の身の周りのことをしていた召使の一人が、お辞儀をして部屋から出て行った。


 鏡を見る度、本当に自分に起こっていることなのだろうかと、首を傾げてしまう。


 これは現実ではないだろうけれども、現実のように感じてしまう。


 きっと自分が王位を放棄していなかったら、あの時の式典を無事に終わらせていたら、いつかはこうなっていたのだろう。


 しかめっ面で鏡を見ていた信は、足を伸ばして少し上を見た。


 あまり動かすと、王冠が落ちてしまうからだ。


 「・・・・・・何してんだろ、俺」


 政略結婚なのか、御互いに好きなってのことなのか、そんなの知らないが、少なくとも、今の信にとって相手は見ず知らずの他人。


 ぼーっとしていると、いよいよ信の出番になった。


 導かれるままに進むと、ばあっと空が見えてきて、下の方には国中の人々が集まっていた。


 わーっと沸き上がる歓声は、喜ぶべきものなのか、信は迷っていた。


 そこに、もう一人のメインとも言える、花嫁がやってきた。


 ベールに包まれていて、顔ははっきりとは見えないが、背は低くてブロンドの髪を靡かせている。


 信の隣まで来ると、儀式的に信は知尋のベールをゆっくりとまくりあげた。


 白い肌は照れからか、少し赤く染まっていて、綺麗な二重の目に、整った顔立ち。


 多分、綺麗というよりは可愛いという部類に入るだろう。


 信を見てにこっと微笑むと、知尋は正面を向く。


 あたりを見ていると、そこに、いるはずのない人物がいることに気付く。


 「・・・!!!!」


 茶色のツンツンとはねた髪の毛に、にいっと笑う一人の男。


 「〵煉・・・!?」


 確か、死んだはずだ。


 天厘〵煉は、海埜也と同じ暗殺部隊として 凰鼎夷家に雇われていた暗殺者だ。


 信にしてみれば、兄のような存在でもあった〵煉だが、信が城を出る前に亡くなっているはずだ。


 「信様?」


 横で、知尋が心配そうな顔をして信を見ているが、それどころではなかった。


 やはりここは現実ではないのだと、それでももう一度だけ会えるならと、信はバッと振り返って走りだした。


 何度か止められそうになったが、上手くかわして潜り抜け、王冠も邪魔な上着も脱ぎ捨てて、外へと飛び出す。


 「はあっはあっ・・・」


 先程〵煉がいた場所に向かうと、腕組をして、木に寄りかかっているのを見つけた。


 呼吸を整えながら近づくと、〵煉も信に気付き、こちらを向いた。


 「〵煉!お前・・・」


 「・・・よぉ」


 いつもと同じはずなのだが、何処かが違う気がする。


 一歩一歩近づいてみるが、なぜか一向に距離が縮まらない。


 「俺・・・お前に・・・!」


 自分のせいで命を落とした目の前の男に触れようと、信は必死に腕を伸ばす。


 すると、無意識に涙が出てきて、視界が滲む。


 「ごめ・・・俺、俺のせいで・・・」


 「・・・・・・」


 すうっと目を細めるその様子は、信の知っている〵煉ではなかった。


 冷たい視線が突き刺さり、信は言葉を失う。


 そして、信から近づくことは出来なかったのに、向こうからはゆっくりと近づいてくる。


 ごくり、と喉を鳴らして唾を飲み込むと、〵煉は信に身体を預けるようにして倒れ込む。


 「!?」


 そこから感じられたのは、人の温もりなどではなく、ひんやりとした冷たい身体と、激痛だった。


 「ど、うれ、ん?」


 恐る恐る、痛みを感じる場所に触れてみると、そこはぬるっとしていた。


 自分の身体から出ているのが血であることに気付くのは、すぐだった。


 だが、〵煉の身体がまだ密着しているため、身体に刺さっているソレを、抜くことも出来ないでいた。


 「・・・!」


 思わず一歩後ずさると、まるでスローモーションのように、〵煉が離れていく。


 自分のお腹を見てみると、名前は知らないが、〵煉が暗殺の時によく使っていた、爪のようなものが、お腹を貫いていた。


 「恨め」


 「?な、なにを?」


 「恨め。妬め。そして、殺意に変わるほどの理不尽を感じろ」


 「はあっ・・・!」


 がくん、と膝の力が抜けた信は、その場に両膝をつく。


 「俺を恨め。憎め。俺はお前のせいで死んだ。お前を殺すために再び現れた。俺に憎しみを抱き、俺を殺せ」


 「はあっ・・・あ、あのな・・・」


 ぐいっと、強引にお腹にあったソレを抜き取ると、地面に放り投げた。


 膝に力を入れてまた立ち上がると、信は〵煉の顔を見る。


 そして、笑った。


 「俺は、お前を恨まない。絶対にな」


 「・・・だからお前は甘いんだ」


 「へへ。いいんだよ。俺は、お前等のお陰で、今日まで生きて来れたんだからな」


 「・・・・・・」


 小さい頃から、見てきた顔。


 影の存在だからと、距離を取られることもあった。


 それでも、いつだって信の傍にいてくれた。


 「俺、ほんとに、何も分かってないガキだったんだな。城を出て、改めて思ったよ」


 記憶の中にいる〵煉は、いつだってニコニコ笑っていて。


 周りが自分勝手だったからなのか、明るくその場を和ませていた。


 「海埜也に叱られたときは、いつもお前が励ましてくれた。凖にマナーのこととかで細かいことグチグチ言われて嫌になったときは、気分転換に散歩に連れ出してくれた。俺に対してだけじゃなくて、海埜也たちに何かあれば、お前が率先して立ち上がってた」


 なあ、覚えてるか?


 過ごしてきた時間は、思ったよりも濃くて、あまりにも思い出が多すぎた。


 城に落書きして怒られたときは、一緒に掃除をしてくれて、家出をしようとしたときは、一時の情に流されるなと、話あって諭してくれて。


 なあ、知ってるか?


 〵煉が亡くなったとき、あの海埜也さえも泣いていたんだ。


 影の存在だの暗殺者だのと言われていても、家族同然に過ごしていた自分たちにとっては、感謝してもしきれない。


 「俺な、嬉しいんだ」


 「何を言っている」


 「お前が毒に苦しんでいたことに気付けないで、お前が死んだことも後になってから聞いて、ありがとうもごめんも、何も言わないままだったから、嬉しいんだ」


 耐えられると思っていたのに、信の視界はなぜか滲んでいた。


 鼻を啜りながらも、〵煉に笑顔を向ける。


 「お前に会えて、良かった」


 そう言って、信は〵煉の肩に頭を乗せた。


 目を見開いた〵煉は、しばらく動かないでいたが、口を少し開いた。


 「信・・・」


 さっきまでとは口調の違う〵煉に、信はがばっと顔を上げる。


 そこにいたのは、無邪気な子供のように、ニカッと笑った〵煉だった。


 「〵れ・・・」


 その時、信の足下が一気に崩れて行った。


 「!?」


 ガラガラと落ちて行く信が顔を上げると、そこには、笑ったままの〵煉がいた。


 「じゃあな」


 微かに聞こえたその言葉に、信は思いっきり叫ぼうとするが、声が出ない。


 腕を伸ばしても届かず、抗うほどに身体は闇に飲みこまれていく。


 それから感じたのは、浮遊感。


 落ちて行く感覚が無くなると、フワフワと身体が浮くような感覚に陥る。


 いつしか浮遊感もなくなると、今度は身体にひんやりとした冷たさを感じる。


 先程刺された痛みもなく、信は重たい瞼を開けようとする。


 指先がぴくんっ、と動くと、意識が元に戻ってきた。


 「ん・・・?」








 「ねえ、そういえばあなた、名前はなんて言うの?」


 「俺?ええと」


 李たちには死神と呼ばれているが、どう言うべきだろうか。


 そもそもどうして死神なんて名前かというと、研究所で研究員たちにそう呼ばれていたからだ。


 本当の名前はあるが、口にしたところで、良い思い出なんてひとつもない。


 それならばと、今までずっと死神として生きてきたのだ。


 「名前ないの?」


 「え?」


 「じゃあね、私がつけてあげるわ」


 人の話を聞かないこの女に、死神はただただため息を吐く。


 うーんと腕組をして考えていた女は、ハッ、と思い付いたかのように顔を上げる。


 「忘れてた!私はアルト!よろしくね!」


 「ああ・・・」


 「で、名前なんだけど、ティルっていうのはどう?」


 「・・・ティル?」


 「なんとなく。いいでしょ?」


 「まあ」


 アルトは翌日の儀式の準備をするといって、黒装束のフードを取った。


 何の準備があるのかは知らないが、死神はとにかくここからの脱出を試みる。


 村をうろうろしていると、数人の男たちが何かしていた。


 特に興味はなかったが、その中心にいるのがアルトだと分かり、見て見ぬふりも出来ずに近寄ってみる。


 「おい、あんまり暴れるなよ!」


 「お前を殺さねえと、明日の儀式が出来ねえんだ。悪いな」


 「何をしてる」


 「あ?なんだ、お前?」


 男たちは、アルトの首に鎌をあてがっていて、首からは少し血も出ている。


 怯える様な目でこちらを見るアルトの目からは、大粒の涙が流れる。


 「明日の儀式が出来ないっていうのは、どういう意味だ?」


 「何言ってんだ、お前。知らねえわけじゃねえだろ」


 「知らないから聞いてる」


 至って真面目に聞いている死神を見て、男たちは首を傾げていた。


 男たちの話によると、この村ではある人物の血を受け継ぐ者のみを祀るらしい。


 かつて村を守る為に、自ら人柱になったというその人物は、女性だったとか。


 それからというもの、村ではその女性の子供、孫、ひ孫、と言った人物を、次々に祀るために殺していたようだ。


 だが、普段は死んだ人ならだれでも良いらしい。


 特別な日だけは、その女性の血が必要なのだという。


 一年に一度だけ訪れる、謎の大地震。


 決まって同じ日に繰り返される地震を静めるためらしい。


 はっきり言うと、死神からしてみれば、どうでもいいことだ。


 そんなもので天災が本当に収まるとは思えないし、血だのなんだの、そういうものも信じていない。


 「今年はこいつで決まりだな。恨むなら、女の血を持って産まれてきた自分を恨むんだな」


 そう言って、男はアルトに鎌を突き立てる。


 だが、瞬間、死神が鎌とアルトの首の間に手を入れたことによって、首が斬られることはなかった。


 「おいおい、邪魔するなよ」


 「死人を祀る儀式なんて、馬鹿げてる」


 「ああ!?」


 鎌を手に、男たちはアルトから離れると、死神に対峙する。


 「死人は祀るものじゃない。葬ってやるものだ。こんな馬鹿らしい儀式、止めない方がどうかしてる」


 「ふざけんじゃねえ!村に何かあったら、お前どうしてくれんだよ!」


 「そうだ!お前を殺してやる!」


 今度は死神を殺そうと、男たちは一斉に飛びかかってくる。


 だが、身軽にそれらを避けると、死神は一人の男の顔面に蹴りを入れた。


 そして近くの木まで走って行き、幹を蹴ってくるりと宙を舞い、別の男の首を自分の両足で挟むと、そのままぐきっと首を捻った。


 倒れた二人の男を見て、最後の一人は逃げて行った。


 しかし、逃げたと思っていた男は、村の男たちを引き連れて戻ってきた。


 ソレを見たアルトは、死神の腕を引っ張って、森の奥へと逃げて行く。


 引かれるままにアルトに着いていく死神は、ちらっと後ろを振り返ってみる。


 後を追って来ているようだが、思ったよりもアルトの足は早く、なかなか距離が縮まらない。


 少し離れたところで、アルトは呼吸を乱しながら死神を睨む。


 「あなた、馬鹿じゃないの!?本当に殺されるところだったのよ!?」


 「殺されなかった」


 「結果的にね!もう!」


 怒っているようだが、アルトはクスクスと笑いだした。


 「ねえティル、あなた、これからどうするの?」


 「さあ。ここが何処なのかも分からないから、正直、動きようがない」


 「・・・・・・」


 すると、アルトは死神の手を取り、自分の額に当てた。


 「?」


 何だろうと思っていると、アルトは何やら呪文のようなものを言い始めた。


 ぼんやりと何かが浮かび上がってくると、死神はそれを見て目を見開く。


 「あれは!」


 「早く行ってあげなさい、ティル」


 浮かび上がったものを見た後、死神はアルトの方を見る。


 するとなぜか、懐かしい感じがした。


 とん、とアルトが軽く死神のことを押すと、普段なら倒れるはずのない身体は、いとも簡単に後ろに重心を寄せる。


 思わず腕を伸ばすと、アルトは死神に微笑み、何か言った。


 何を言ったかは分からないが、死神の身体は暗闇に消えた。


 死神が消えた世界で、アルトは村とは反対の方へと足を進めて行く。


 「私のこと、分かるはずないわね」


 寂しそうに言う背には、決意が現れていた。


 重い身体に、死神は目を覚ます。


 そして、目の前の人物に、言葉を失った。








 「ふう・・・」


 寝床についた拓巳は、窓から差し込む月n灯りを頼りに、部屋にあった本を手に取った。


 少し読んだところで、兄が部屋に入ってきた。


 「なに?」


 困ったように笑いながら、兄は拓巳が入っている布団の隅の方に胡坐をかく。


 拓巳は読んでいた本を閉じると、枕元にそっと置いた。


 「お前、どうやって研究所を抜け出した?」


 「え?」


 急に昔のことを聞かれ、拓巳は驚いた。


 聞かれたことにも驚いたし、なぜそのことを知っているのか、それも驚いた。


 兄の目はとても冷たく、今にも拓巳を殺してしまいそうだ。


 「なんで知ってるの?」


 その質問に、兄は黙ってしまった。


 拓巳を見ていた目は、窓の外へと注がれていた。


 「貧しい家に産まれて、幼い頃から働かされて、それでも金は足りなかった」


 口を開いた兄は、目を細めていた。


 「周りの奴らなんかと比べなければ、そのまま質素な生活を続けられたのかもしれない。けど、それが出来なかった。少しの金欲しさに、お前は産まれてすぐ研究所ヘ売られ、俺は無理矢理婿養子に行かされた」


 「・・・・・・何を言って・・・」


 「研究所では、どんなことをした?」


 「いや、だから」


 「どうして逃げ出したりした?」


 「俺は別に」


 「お前はあそこで死ぬと思ってた」


 「・・・・・・!」


 研究所に送られた経緯も、自分に家族がいるのかどうかも、何の目的があるのか、どうなるのか、何も分からないままだった。


 兄はゆっくり拓巳に近づいてくると、両手を伸ばしてきた。


 指を拓巳の首に絡ませると、力を入れてきた。


 動作としては遅いはずなのに、払いのけることも、逃げることも、抵抗することも出来ないでいた。


 徐々に絞められていく首は、肺に酸素を送ることを止めてしまう。


 「・・・・っ」


 「拓巳、ここで死ね。そして永遠に目覚めぬ苦しみを味わえ」


 「あ・・・」


 このままでは、本当に死んでしまうだろう。


 だが不思議なことに、拓巳はこのままでも良いかとも思った。


 全てから解放されるのなら、死ぬことだって悪くはないと。


 ただ気がかりなのは、あの自由な李の面倒を誰が見るのかということだ。


 きっと死神一人では大変だろう。


 自分なんかいなくても、必ず明日は来る。


 世界は周り、呼吸を繰り返し、時代は進んで行く。


 『ねえ、どうして怒ってるの?』


 『怒ってない』


 『じゃあ、どうしてそんな顔してるの?ここ、つまらない?』


 『楽しくはない』


 『じゃあ、一緒に遊ぼう!』


 『君、怪我してるよ』


 目の前で輝く金色の髪は、眩しかった。


 『これ?怪我じゃないよ!昨日ね、手足がなくなっちゃって、繋いであるの!でもちゃんと動くんだよ!』


 見てみて!と言って、手足をブンブン動かす。


 聞いただけでも痛そうな内容なのに、本人はヘラヘラと笑っている。


 『僕、李って言うの。僕のとこ、誰もいないからつまらなくて。だから、遊んで?』


 『・・・僕は拓巳』


 『そうだ!もう一人、面白い奴いたんだ!そいつも誘おう!』


 たたた、と走って行く背中からは、薬品の臭いがぷんぷんした。


 「・・・ああ、そうだ」


 「?」


 「まだ、死ねない」


 「なんだと?」


 兄の腕を掴み、ぐぐぐ、と首から放すように力を入れると、思ったよりも簡単に呼吸が出来た。


 酸素不足なのか、頭はクラクラするが、大丈夫だろう。


 首から離れた手をまだしっかりと掴んで、拓巳は目の前にある頭目掛け、思いっきり頭突きをする。


 吃驚したのか、兄は腕を払いのけながら、よろよろと後ろに下がった。


 自分の額に手をあてると、拓巳を睨む。


 「いつでも死んでいいと思ってた。狭い部屋に押し込められて、毎日毎日、激痛を感じて。夜も寝られないほど怖い日もあった」


 「それから解放してやるよ」


 「けど、ダメだ」


 「はあ?」


 たまにすれ違う、自分と同じ境遇の子供を見ても、同情出来なかった。


 ああ、あいつもか、というくらいだ。


 泣きじゃくる声も、悲痛に苦しむ声も、もう嫌だと必死に抵抗する声もあった。


 それなのに、いきなり現れた一筋の光。


 「俺は、あいつを残して死ねない」


 『今日は何して遊ぶ?』


 『・・・それ、どうしたの?』


 『あ、これ?今日の実験は失敗なんだって。お薬が強すぎて、肌が溶けちゃったんだよね』


 『痛く、ないの?』


 『痛くないよ?だって、痛くならないように、注射してもらったもん!』


 「こんな俺に、明日をくれた人だから」


 『拓巳、死神、良く聞いてね』


 「あんなんだけど、前に立って、戦ってくれる人だから」


 『俺より先に死のうなんて、考えないでね?』


 「他のことなんて、知ったこっちゃねぇよ」


 そう言って、拓巳は兄に向って拳を向けた。


 勢いよく殴りかかってみると、かるでガラスのように、世界が割れた。


 「!?」


 一か所に罅が入ると、周りもどんどん罅を作って行き、割れて行く。


 身体に衝撃が走り、目を覚ます。


 丁度同じ頃、死神が目を覚ましたところだった。


 「ここは?」








 「おい、あいつは何処に行った?」


 「またサボってんのか?ちゃんと躾しとけって言ったろ?」


 毎日毎日、同じことの繰り返し。


 それはまるで、研究所にいるときのようだ。


 そんな中、男たちの間で、サボりの常習犯とされている少年がいた。


 まだ十にもなっていないだろう少年は、常に真っ青な顔をしている。


 サボっているわけではなく、少年は生まれながらに心臓が悪く、喘息も持っているのだ。


 ただ休憩をしているだけなのだが、それさえも、男たちからしてみれば、サボっている、という判断になってしまうのだろう。


 「・・・・・・」


 少年たちを探す男たちを尻目に、李は枷をつけられたまま、荷物を運ぶ。


 その日の夜、少年は男たちに囲まれていた。


 まだ身体の小さい彼に対し、男たちは手加減などしない。


 「ガキだからって、甘えてんじゃねえよ!」


 「ったく。どいつもこいつも使えねえなあ!」


 「てめぇらは、ただ黙って大人しく、俺達の言う事を聞いときゃいいんだよ!」


 痣だけでなく、血を流したとしても、男たちは少年に手を出し続ける。


 夜まともに寝ることも許されず、少年は朝を迎えることとなった。


 翌日になり、少年は倒れそうな身体に鞭を打ち、自分よりも重い荷物を運んでいた。


 「あ」


 そのとき、後ろから来た李がひょいっと荷物を持ち上げた。


 「昨日もまともに寝てないんでしょ?」


 「でも、働かないと、また、ぶたれるから・・・」


 「・・・・・」


 そうは言っても、見るからに顔色は悪く、手足も細くて咳もしているのに、仕事をさせるわけにはいかない。


 李は少しだけ少年を休ませようと思ったが、丁度男が通りかかった。


 「おい、ちゃんと働けよ」


 「は、はい。すみません」


 ぺこぺこと頭を下げて謝る少年は、別の荷物を運ぼうと、山になっている荷物のもとへと走って行った。


 「お前も、他人のこと心配する暇があるなら、もっと働け」


 「・・・・・・」


 笑いながら、李の横を通ろうとした男だったが、その場で盛大にこけてしまった。


 足がもつれたわけではなさそうだ。


 バッ、と後ろをみると、李が足を出して、男を蹴躓かせたことがわかった。


 そうなると、男は一気に怒りだす。


 「てめぇ!!!ふざけんじゃねえぞ!ぶっ殺してやる!!!」


 「おいおい、どうしたんだよ」


 男が叫ぶと、他の男たちもやってきて、李を取り囲んだ。


 枷を付け、荷物を持ったままの李は、男に向かってにこっと笑う。


 「ああ、すみませんね。俺はてっきり、木偶の棒かと思って」


 「ああ!?」


 李の一言に、男たちがキレた。


 一人の男が、李のお腹に膝で蹴りを入れると、それを合図に次々男たちが李をいたぶり始めた。


 殴られ蹴られ罵られても、李から手を出すことはなく、逃げもしなかった。


 それを見ていた少年は、思わず李を助けようと、荷物を置いて駆け出した。


 だが、先に倒れたのは、男の方だった。


 「ぐえっ!」


 男の顔面には、李が持っていた荷物が乗っていて、その重さに、男たちは荷物を持ちあげられないでいた。


 「このやろ!」


 「舐めやがって!」


 もう一つの荷物を地面に置くと、李はいつものようににっこり微笑む。


 「今日まで良く我慢した方だと思うんだよね、俺。本当なら、初日で君たちをみーんなボコボコにしたかったんだけどさ」


 「何言ってんだ、お前!」


 男が李に向かって殴りかかると、李は拳を手ですとん、と受け止めた。


 そのまま拳を包むように握ると、ハンドルを回すように腕を捻った。


 「あああ!!!!いってえええええ!!」


 ボキッ、と鈍い音がしたかと思うと、男は喚き声を出しながら、地面に転がった。


 「君たちを中心に世界が回ってると思ったら、大間違いだよ?世界はさ・・・」


 「やろおお!!!」


 「俺中心だよ?」


 気付けば、男たちはみな倒れていた。


 気を失っている男もいれば、泡を吹いているものまでいた。


 枷をつけたままだった李は、男たちの腰についている鍵を奪うと、枷を外した。


 そして、枷をつけられている他の人に向かって、鍵を放り投げた。


 解放されると、これまで酷い目に遭っていた人達は、鍵に群がった。


 その中から出てきた李を見て、少年はぽかんとしていた。


 少年に近づいていくと、李は両膝を曲げて少年と目線の高さを合わせる。


 「ほら、これでゆっくり寝られるでしょ?」


 「あ、ありがと・・・」


 「別に君の為にしたわけじゃないよ。俺も迷惑してたんだ。夜中に五月蠅かったんだよね。寝れやしない」


 立ち上がり、李はんー、と背中を伸ばす。


 「生きるって、理不尽なことが多いんだよ。だからって、暗い顔してちゃダメだよ?面白いもので、生きてるとね、同じような奴に会うこともあるんだ」


 「お兄ちゃんも、そうなの?」


 「うん。自分の為には生きられなくても、誰かの為にだったら、生きてもいいかなって、思うでしょ?」


 李は歩こうとしたが、足下に何か違和感を覚えた。


 下を見てみると、地面から蛇のような蔓のようなものが伸びてきて、李の身体に巻きついてきた。


 少し身体をねじってみてもどうにもならず、李は流れに身を任せることにした。


 全身に巻きついたところで、視界も真っ暗になり、呼吸も出来なくなった。








 目が覚めた信は、驚いていた。


 液体で満ちた瓶に入っている和樹と、その前で腕組をし、佇んでいる男。


 その後ろ姿には、見覚えがある。


 信の視線に気付いたのか、男は信の方を振り返った。


 「あれ、起きちった」


 赤オレンジのはねた髪に、左頬の絆創膏、そして右耳の二つのピアス。


 同じはずだが、違う。


 「なんで、お前・・・?」


 特に縛られていなかった身体を起こすと、男は口角を上げて笑う。


 「亜緋人」









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