第6話

 亮が車椅子の生活を送ってから暫く経った頃。

 スタッフの間ではある病室の前を通りかかる際の注意事項が広まっていた。


『本棟302号室を通りかかる際に十分気を付けよ。まず、ドアに耳を傾けて患者さんの不在を確かめること。不在ならば大丈夫だが、在室の場合は必ず迂回するように』


「いや、それだとプライバシーの侵害にならないのかな」


 先輩から聞かされたことを思い出し、廊下を歩いている看護師が一人。この病院で働いていた以上、無論、亮の存在はある程度知っている。

 けれど、普段の職場は西棟にあってか、彼の部屋の番号まで浸透していなかった。そのため、その注意事項は些か役に立たないとも言えるだろう。


「……ッ」


 丁度、問題となる病室に差し掛かってきて、自然と全身が強張る。彼女が持ち場に戻るのにはここが近道なわけで、急いでいる身としてはここを通らなければ到底間に合うはずがない。

――いやいや、ここは動物園ではあるまいし、怖がる必要なんて……。

 そんな思考が脳裏をかすめた次の瞬間、病室のドアがバタンと開けられ、中から人が飛び出してきた――!


「イイィハアアアー! ヒョッホォーウ! あ、おはようございまぁぁぁぁぁぁーー」

 

「お、おはようございます……」


 想像をも超越した出来事に、茫然自失の体で亮が消えた方向を見たまま。気が付いたら、自分はその場で座り込んでいて、さっきまで抱えた書類が散らばっていた。


――な、なるほど、だからここを通る時に気を付けないといけないのか。 

 彼女がそう納得するも、やはり不満が募ってしまうもの。一度、散りばめられた書類を見回したら、自然とため息が零れる。

 ここが彼の部屋ならそうだと言って欲しかったな。心の中でそんな文句を言った彼女は、タイムロスを挽回するべく書類を拾うことにした。









 本棟1階に到着したエレベーターのドアが開けて、亮は車椅子を漕ぎ出す。つい5分前の大はしゃぎっぷりとは思わぬ大人しさで、廊下を進んでいる。

 T字路の突き当たりが見えてきたら、彼は口角を持ち上げて回す手を速めた。しかし到着した途端、彼が笑顔を取り下げ、少し見開いた目で左右を確認する。


「みおちゃん、まだ来ていないのか……」

  

 そうとだけを呟き、彼女を待つことにした。

 みおの病室は西棟にあることが判明してから、二人は待ち合わせをするようになった。彼女が談話室に行くには、必ず本棟を通らないといけない。

 『途中からでもいいから一緒に行く』という亮の提案にみおは大賛成してから、二人はほぼ毎日のようにそうしていた。



 待つことに十五分、右の方向から「お兄ちゃーん」のみおの明るい声に亮も「みおちゃーん」と大きく手を振り返すと、一緒に肩を並べて彼女の歩幅を合わせて歩く。

 丁度雑談も一段落ついたところで、ふとした疑問が彼の頭によぎった。



「みおちゃんはどうやって姫と知り合ったのか、教えてくれるかい?」


「うん、いいよ! へへへ、ええとね……。それはね〜」


 みおは頬を緩ませながら、ぽつぽつと語り始める。









 キッカケはほんの些細なことだった。

 みおは病気のせいで、学校に行く機会は滅多にない故に年相応の友達はほとんどない。苦痛な治療を耐え、苦手な薬を飲んでも病気が悪化する一方。

 それでも、いつか治るという大人の甘言を無邪気に信じて、入退院の日々を繰り返していた。

 そうやって繰り返していくうちに、退院が減り、入院の方が増えた。ほとんどの生活が病院詰めになったとしても、学友に忘れられたとしても、みおは絶やさず笑顔を浮かべていたのは、大好きな両親にはそうしていて欲しいからだ。



 そんな生活が続く中、みおの体力がある程度まで回復して、院内で自由に動き回れるようになった。

 彼女が院内をぶらぶらしたら、自販機にある炭酸飲料を発見して、それを欲しがりそうに眺めていた。医者からは食事制限こそはされてないが、身長的に押せなかったのだ。周囲に人がほとんどいなく、力を借りたくてもできず、途方に暮れた。

 そんな時にふと現れたのは、姫だった。

 当時、そこの自販機は院内で唯一だったため、缶コーヒーが大好きな彼女にとっては致命的。けれど、彼女はそのことに全く気にすることはなく、ただ淡々とあそこに足を運んでいた。

 雅代が傍にいなかったのは、当時の彼女は屋敷のことで多忙だったからである。


「……これ、欲しい?」


 淡々と聞いてくる姫のことを怖がりながらも、こくりと頷くみお。

 医療関係者や家族以外の人とあまり関わりがなかった彼女にとって、姫の存在が異世界からやってきた者と同等だ。

 だから、初めて接触してきた患者である姫のことをちょっと警戒した。


「……はい」


 生気のない目で二つの飲み物を買い、炭酸飲料をみおに手渡す。みおがたどたどしく礼を言ったが、気にしないとばかりに姫は離れる。

 瘦せ細った背中を見送ると、ふとみおの胸がきゅっと締め付けられるのを感じて。なんとなく、そこに片手を寄せた。


 彼女を見ていると、なんだか切なくなる。

 今まで味わったことのない感覚に、みおは戸惑い気味になりつつも、姫の姿が見えなくなるまで見送った。





 それから数日後。偶然目の前を通り過ぎた姫を見掛けて、慌てて身を潜めた。

 もし視界に入れられたら、またあの不思議な感情が戻る、という至ってシンプルな理由で。しかし、なんでと自問すると、やはり答えが出てこない。


――もしかして、お姉ちゃんのことをもっと知ったら分かるかな。

 淡い期待と共に、みおは壁からひょっこりと顔を出す。白い長髪を揺らしながら歩く姫の後ろ姿に、「よし」と自身を奮い立たせて後を追うことにした。


 しかし、いくら時間が経っても、みおはただ尾行するだけで、話しかけることすらなかった。後方からずっと「じ~~」という子供の声がしたから、とっくに姫にバレていた。

 だけど姫が振り返ると、視線の先にある可愛らしい三角帽子が物陰の後ろに逃げられてしまうから、仕方なく気付かぬフリをすることにした。


 暫く膠着状態が続いていくうちに、姫は急に歩みを止まらせた。それに驚かされたみおは、咄嗟に壁の後ろに身を隠す。彼女は心中で姫が歩き始めると願うも、姫は立ち止まるまま。

 沈黙が続く中、みおは姫の様子をチェックするように、少しだけ顔を出す。依然として立ち尽くす姫の背中からすぐに顔を背けて隠れると、


――もしかして、みおを待っている?

 という可能性が頭によぎり、横目でもう一度確認する。視界の中に姫を捉えて、一度深呼吸。よし、と自分を鼓舞して物陰から出た。


「お、お姉ちゃん!」


 緊張のあまり、声が少し上擦ってしまった。だけど、姫はとくに反応を示さず、ただ背中を見せているだけ。


「みお、お、お姉ちゃんの友達にな、りたいでしゅ!」


「……物好きね」


 その台詞と共に振り返ってくる無表情に、みおは小首を捻った。


「うん? ものすきって?」


「……変な人ってことよ」


「うん?? つまり、それはいいことなの? 悪いことなの?」


「……まあ、いいことなんじゃない」


「へへへ、そっかぁ~」


 それが嘘だと知らずに、みおは顔を綻ばせた。

 だけど、嘘を吐いた張本人は相も変わらず無表情のままだから、みおはすっかりそれを信じ込んでいた。

 再び歩き出す姫の横で、みおに右手を握られるも無反応。

――もしかして、手を繋ぐの嫌だったのかな。


 そんな不安がみおの心中をかすめた次の瞬間、繋いだ手に僅かばかりの力が込められた。その優しさに触れた彼女は、無表情の顔を仰いでは顔を綻ばせる。


――もっとお姉ちゃんを笑顔にしたい!


 誓いの代わりに、みおもぎゅっと握り返し、そのまま姫と一緒に談話室に行った。

 初めて訪れる場所に目を輝かせて室内を見回すみおの横をすり抜けて、窓辺にある椅子に腰を下ろす姫。


「よいしょ、よいしょ」


 みおは自力でスツールを持ち上げ、姫の対面に置いて腰掛けると、待ちきれないとばかりに、一方的に積もる話を聞かせた。例え相手から相槌が返ってこなくても、みおは楽しげに喋り続けた。

 それはまるで、二人の短い友情が一分一秒でも長く続く、と祈りを込めるように。



 みおが一通り話し終えると、幼い顔には似合わぬ翳りが浮かんだ。


「なんかね。目を離したら消えるんじゃないか……そんな気がしたの。お姉ちゃんからは」


「……そうか」


 そうとだけを呟いて、亮も僅かばかり顔を曇らせたが、すぐに笑顔に戻した。

 『エンターテイナーたる者、常に笑顔でいなければならない』、と昔の教訓を思い返して。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る