第7話

 それから三人は、暫く数独に夢中になっていた。

 かれこれ十試合ほど行ったが、いずれも姫の圧勝で閉幕。次は負けないぞ、と亮とみおが張り切ったところで、やや後方から「みぃ〜つけた♪」という声がした。

 なんだろう、と二人が振り返ると、そこには笑っている木村きむらさんの姿があった。


「ふふふ、鶴喜つるきクーン、そこから動かないでくださいね~」


 笑っているというより、怒っているの方が正確だ。

 黒いヴェールのようなものが彼女の目の下まで覆われているが、口角の方は少し上がっている。看護師らしかぬ、恐ろしげな雰囲気を漂わせながら。一歩、また一歩と着実に近付いていく。

 木村きむらさんがあの状態に陥ると、いくら会話を重ねても怒りを鎮めることはできないということを、彼は知っている。

 ここは大人しく謝るか、逃げるかの二択のみ。だが、彼が取る選択は……残念ながらいつもは後者の方だ。


「お兄ちゃん、その人はだぁ~れ?」


「お兄ちゃんの天敵だゾ☆」


 「うん? てんてき?」と首を傾げるみお。

 彼女の質問に答えたいのは山々ではあるが、危機木村さんが迫ってきているこの状況ではそれはできない相談だ。


「では、急用を思い出したので、私はこれにて失礼する! アデュー」


 亮が格好つけるためのウィンクを残してから、脱兎の如く図書室を出た。


「こら、待ちなさーい!」


 そう叫びながら追いかける木村きむらさんの姿をみおが目で追跡しようとしたが、あっという間に消えなくなった。

 彼女は暫くポカーンと口を半開きにしたが、急にはハハと小さく笑い出す。


「嵐みたいな人だね、お姉ちゃん」


「……そうね」


 いつもつれない返事しかしない姫が、珍しく同意を示した。

 それだけで、みおは微笑まずにはいられないのだ。

 









 西棟の最上階、6階にて無事亮を捕まえて、今は彼の部屋まで強制連行しているその真っ最中。しかし既に陽が西に傾いていた上に、亮の病室から相当離れている。

 それに、もうすぐ配膳係のスタッフが各病室に回って食事を配る時間になるが、今から走っても間に合わないだろう。

 幸い、木村きむらさんが事前にそのスタッフに遅れる旨を伝えていたため、相手が空回りをしないで済む、が。


 エレベーターの到着を知らせる甲高い電子音が鳴って、木村きむらさんは彼の車椅子を押しながら入る。

 亮が車椅子を手に入れてからまだ一日目がこうでは、これからはもっと酷くなるだろう。今朝も同じことで思い悩んで、心中で深いため息をついた木村きむらさん。

 その直後、丁度目的の1階に着いてドアが開いた。そこで待っていた他の患者やスタッフと出くわしたが、二人のためにすぐに道を開けた。


「あ、すみません」


 木村きむらさんが幾度も目礼しながら、そそくさと北棟を出て中庭へ。

 その間、亮は「お疲れ様ですー!」と連発したが、周りの人たちはただ苦笑を浮かべるだけだった。

 当の本人は何の恥じらいも感じなかったが、木村さんの方が彼と一緒にいるだけで恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。周りの視線から一早く逃げるため、彼女は更に足を速めた。



 暫くすると、下の方からしくしくしくというあからさまな嘘泣きが聞こえて、木村さんはその方に見やる。


「もうお嫁に行けないよぉ。しくしくし――はいたたたた」


「ほら、グダグダ言ってないでさっさと部屋に戻るわよ」


 今日一日ずっと彼に振り回されていたせいで、まだ夜にもなっていないのに心身ともに疲弊した。注意するつもりでいつものように頬をつねると、「はーい」と明快な声が返ってくるから困ったものだ。


「全く、返事だけがいいんだから……」


――逆にこっちが泣きたいくらいだよ。

 そんな愚痴の代わりに、木村きむらさんがため息を落とした。


 亮の病室に戻るには、中庭を通って本棟に戻らないといけない。つまり、もし図書室の時に彼が大人しく木村きむらさんに付いていけば、こんな遠回りをしなくても済むのだ。

 一層のこと、彼をベッドに縛り付けた方がいいと思ったが、すぐさまに頭を振った。なぜなら、ベッド生活だった亮は『看護師ホワイト・エンジェルともっと話がしたい!』という極めて単純明快な理由で執拗にナースコールを押していたことを思い出したからだ。


「それにしても、あの二人と何してたの?」


 「そ、それは……」ともじもじし始めた亮。


「とても綾乃あやのさんに言えないような、あんなことやこんなことまで――」


「これ以上ふざけたら、デザートのプリン、没収するからね?」


「おふざけがすぎましたすみませんでした」


 亮の謝罪に、またため息一つ。

 彼の手のひら返しは今に始まったことではないが、それでもかなりイラっとくるものがある。

 彼は姫との出会いからミニ数独選手権まで、全部洗いざらい彼女に話した。彼が説明し終わった時には、二人は既に本棟のドアを潜ったところだ。


「姫って……。もしかして、ガラス姫さんのこと?」


「そう! まさに、あのガラス姫で間違いはナァーイ!」


「え、あの方がガラス姫さんだったのか。じゃあ、噂は本当なんだね……」


「噂?」


「うん。ウチに入ってから7階を一度も離れたことがなかったガラス姫さんがある日突然、他の階でも姿を見せるようになったって。しかも、子供を連れて出歩くようになったから、当時彼女を見た患者さんも先輩たちも結構驚いたらしいよ」


 亮に説明している間、木村きむらさんは姫の姿を思い浮かべ、彼女が何故『ガラス姫』と呼ばれていたのかに首肯した。

――なるほど、『ガラス姫』は確かに言い得て妙だ。


「もしかして、実は彼女はとても有名人だったりして!」


「そのまさかよ。何せ、彼女は長期入院患者の中で一番長いからね」


「なるほど、やはりそうなんですネ! 初めて見た時から姫の全身から有名オーラがブワーッと溢れてた! ブワーッと」


「何が有名オーラよ。でもまあ、分からないでもないかな。ガラス姫さんのことを見ていると、なんだかほっとけないんだよねー」


 別に彼女がお嬢様だからとか、容姿美麗だからとかからではない。

 ただ、なんだかほっとけない。彼女からは言語化しづらい何かを、木村きむらさんは感じた。

 彼女から目を離すと、音もなく消えてしまうのではないか。そんな漠然とした不安がじわじわと胸中に押し寄せる。

 

「フフフ、男でも女でも魅了してしまうなんて……なんという罪のオ・ン・ナ――はいたたたた、はいたたたたっ」

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