第二十六話 彼女が信じなかった、愛の話

 帝が住む宮へ、走って、走って。

 たどり着いた時は、もう藍家の軍隊は既に宮にいて、――庭でボロボロにやられていた。

 あれ。僕要らなかったかな?


 既に皇帝の周りは武官たちで固められていた。花鈴ファーリンが事前に伝えていたのだろうか。彼女の姿は見えないが。

 武官たちに囲まれながら、美雨メイユーは冷たい目で藍大司馬を見下ろしていた。


「まさかあなたに、謀反を企むほどの肝の太さがあるとは思わなかったわ。もっと別のところに活用すればよいのに」

「はん!! 謀反を起こしたのは貴様だろう!」


 未だに藍大司馬は強気の姿勢を崩さない。

 目元が腫れ上がり、唇の端に血を滲ませてもなお、威勢よく怒鳴り続ける。


「庶民の女が、あのかの孝武帝の曾孫だと? でっち上げに決まってる! ジン皇太子らはみんな死んだ! その中でたった一人生き残ったなんて、誰が信じるか!!」

「あら。私を擁立したのは、あなたのお祖父さまだけど?」

「どうせ祖父を誘惑したんだろ! うちの無能な女のようにな!」

 ……それは、グァン夫人のことだろう、ということは、すぐに理解出来た。

 しかし、彼は自分の敬愛する祖父を貶めていることに気づいているんだろうか。

「偉大なる藍仲卿ジョンチンの血を引く私こそが、皇帝に相応しい! 奴隷の女は、豚のように厠で糞でも食っておけよ!」


 そのあまりにもな罵詈雑言に、僕の身体は前へ出る。

 けれど。

「言いたいことはそれだけ?」

 にっこりと。

 まるで、「今日はいい天気ね」とでも言うように、美雨メイユーは言った。



「じゃあ、死んで」



 ■



 気づいた時には、既に身体は藍大司馬の前に飛び出していた。

 刃こぼれひとつない刃は、僕の首元まで迫っていて、――寸止めされたそれは、やはり武芸の達人なんだなあ、なんて、場違いにも思った。


「な、……なんで!?」


 美雨メイユーが狼狽える。

 僕が生きていたことに驚いたのか、――僕を殺した相手を庇ったことが信じられなかったのか。


「ダメだ。皇帝が、私刑なんてしちゃだめだ。ちゃんと法律で裁かないと」


 僕の言葉に、美雨メイユーは呆気に取られる。

 だが、すぐに怒り狂ったかのようにこう言った。


「ばっ……か言ってんじゃないわよ! あなた、そいつに何されたか忘れたの!? 殺されたのよ!?

 そいつらはね、礼学の慈愛なんてちっとも重んじてない! 誰かに優しくされたら、『ありがとう』って言わないで、自分より下の人間だって見下すやつらなのよ! ――そんな奴ら、生きてる価値なんてない!」

「君は!」

 振り絞るようにして、声をはりあげた。

「価値がなかったら、人が生きちゃいけないと思うのか! それでずっと苦しんできた君が、そちら側に回るのか!」

 

 悲しかった。

 こんなにも自分を見失った君を見るのが。

 そして、そんな君のそばにいなかった、自分の無力さに。


「……なんでよ。なんでわかってくれないの」


 泣きそうな顔で、彼女は言った。

「私がどれだけ、あなたのことを……大切に思っていたのか、なんで……」

 その言い分に、僕は、あまり何も考えずにこう言った。


「この男を殺すのは、僕のためなのか?

 それとも、君のためなのか?」


 喉からするり、と滑るように、その言葉が出てきた。

 雷に撃たれたように、彼女が目を見開く。

 そしてそのまま、がくん、と膝を着いた。


 その時だった。


 

「ぱぱ! ぱぱ!」



 

 ――庭の向こうから、よく知る声がした。

 ぞっとした。振り向くと、阿嘉アジャが泣きながらこちらへ走ってくる。

 また何時もみたいに女官たちの目をかいくぐってきたのか。――いや、僕を見つけて走って来てしまったのか、と思い当たった時。


 茂みの向こうから、鈍い光を放つ何かが見えた。


阿嘉アジャ!!」


 倒れ込むようにして、阿嘉アジャの方へ走る。

 皮膚がめくれるぐらい地面の上を滑り、肩に激痛が走った。矢が掠ったのだ、とわかる。

「ぱぱ、ぱぱあ」

「動くんじゃない、阿嘉アジャ!」


 混乱して泣きわめく阿嘉アジャの身体を抑え込むように、僕は自分の身体で阿嘉アジャの身体を覆う。

 汗がびっしょりかいてくる。毒が塗られているのかもしれない。


 再び、鈍い光が見えた。

 護衛の武官が既に兇手のもとへ走っていたが、第二の矢はその時に放たれていた。

 動けない。刺さる、と痛みを覚悟した時。



 時が止まったようだった。

 美雨メイユーの腹に、矢が生えたように刺さっている。ばたん、とゆっくり倒れて、ようやく彼女が僕らを庇ったのだと気づいた。


「陛下!」

美雨メイユー美雨メイユー!」


 僕は彼女の体を抱える。

 汗をびっしょりとかいて、美雨メイユーはかすかに目を開けていた。


「あ、あはは……結構、痛いわね、これ……出産よりはまし、いやどっちも痛いわ……」

「笑ってる場合かよ! っていうか、皇帝が護衛より前に出るなよ!」

 護衛の人たち、今にでも切腹する勢いじゃないか、と続ける前に、美雨メイユーが僕の頬に手を添えた。

「ごめん、これ、本当に怖い。死ぬって、怖いね」

「縁起でもないこと言うな、助かるから」

ハオも、こわかった、よね。毒飲まされた時。それなのに、ハオの気持ち、考えて、なかった」

 ハオの言う通りだ、と美雨メイユーは続ける。

阿嘉アジャも、ごめんね。ずっと、ずっと、一人ぼっちにさせて。こんな危ない目に合わせて。

 私、本当に自分のことばっかりしか、考えて、なくて。悪いお母さんで、ごめんね。

 そうだ、もう一つ、ハオに謝らなきゃ」

「……なんだよ」

「ずっと、名前で呼んでごめん。私、あなたに、まじないをかけたかったから。こっちふりむいてほしかったから、あざながあるのに、ずっと呼んでた」

 そんなこと、どうでもいいのに。

 呪いなんて信じてない。君に名前を呼ばれるのが心地よかった。だから誰にも字で呼ばせなかったんだ。

 あとなんだっけ、と、彼女は続けて、


ハオ阿嘉アジャ。……あい、してる」


 その、悲しすぎるぐらい優しい響きに、胸が壊れそうだった。

 

「あは、自分で言葉にしてようやく、わかるなんて。ばかみたい。

 なんで今更、あなたたちに愛されてたことに、気づくんだろ」


 阿嘉アジャが、ははうえ、と呼ぶ。

 僕は知っていた。ずっと、阿嘉アジャが母親を認識していたことを。女官たちの目を掻い潜って後宮をさ迷っていたのは、美雨メイユーを探していたことを。

 だけど、美雨メイユーは信じなかった。

 こんなダメな母親のことなんて忘れてるだろう、って、取り合っていなかった。


 彼女はずっと、根本的に愛を信じていなかったことを、僕は知っていた。

 それを、今になって、信じてくれたのだ。

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