閑話 美雨と藍仲卿

 喜ばしい春節は私の夫の葬式に代わり、宮廷は喪に服すことになり。

 今度は、藍大将軍の体調が崩れた。




 藍家の邸宅に呼ばれた私を迎えに来たのは、藍大将軍の三番目の奥方だった。

 私と一回りと少ししか離れていない彼女の顏は若かったけれど、その心は屈託によって老いているようだった。敵意と殺意を抱かれていることは、明確だ。

 召使いに案内され、彼の寝室へ向かう。


 藍大将軍は、床から起き上がることすら出来ないようだった。

 なんて一瞬なのだろう。人の健康が損なわれ、死へと向かう瞬間は。ぼうっと、彼の最後を思い出す。


「……陛下。本日はお越しくださり、ありがとうございます」


 掠れる声で、藍大将軍は言った。

 あまりに弱々しい声に、私の心は冷えていく。こんな男に、ずっと邪魔され続けたのかと。

「いいわ。病人に宮廷まで来い、などと命じるほど、私は人でなしではないもの」

「ははっ……」

 乾いた笑みを浮かべるが、まるで咳をしているような声しかでなかった。


「気丈で、あられますな。ツァイどのの葬式で、あなた様は一滴も涙を零されなかった」

気丈にそう見える? 歳をとって耄碌したわね、藍大将軍。目が見えないなら、その目を取ってあげるわよ」

 刺々しく言うと、道化のような笑いをやめた。


「憎んでおられますか。私が、あなた様をここへお連れしたことを」

「別に。油断すればこうなることは、最初からわかっていたわ。それでも私が、選んだのよ」


 どうして、守れなかったんだろう。

 ううん、どうして、なんかじゃない。

 私が彼をここに連れてこなければ、彼は死ななかった。私のせいで、何もかも失ったひと。

 それでも、彼を連れてきてしまったのは。


「彼の能力を活かしたかった。

 彼が活躍できる場所を、見たかった」


 自分は誰よりも弱いから、男として情けないと言っていたあの人。

 それでも私は、自分の弱さを認めるあの人が大好きだった。

 優しくて、頭が良くて、結構卑屈なくせにびっくりするほど前向きで、我慢強いけれど戦う時は戦う人。

 そして、誰も見向きしなかった奴隷の私を、まっすぐ見てくれた人。


 誰よりも認められて欲しかった。

 その力が私にあると、舞い上がってしまった。


「彼に爵位と官職を与えるつもりだったの。でも、彼は断った」


『官職を皇帝の優遇で貰う訳にはいかないよ。特に僕は君の夫だ。何かある度、君の皇帝としての威厳に傷がつく。ただでさえ、僕は君を守れるような権力を持っていないんだから』


 だからいらない、と彼は言った。

「私が馬鹿だった。死んだ後に列侯してどうするのよ。あの時、無理にでも彼に地位を持たせるべきだった。そうしたら彼は、自分で自分の身を守れた。……いいえ、本当に彼のことを思うなら、私は彼と離縁して、堂々と彼が宮廷へ行けるよう手配すればよかったのに」


 私は。

 彼の妻であることを、捨てたくなかったのだ。

 そして、阿嘉アジャの母であることも。


 自分の愚かさが憎い。

 自分勝手で、奪ってばかりで、役立たずで、どうしようもなくて。


「いけませんなあ」

 柔らかい声で、藍大将軍が言った。

「黄河国の皇帝であろう方が、そんな簡単に非を認めるとは。歴代の皇帝が怒りますぞ」

「そうやって自分の非を認めないから、私しか生き残らなかったんでしょうが」

「そうですな、私も老いました。老兵は若者に偉そうな説教などせず、去るのみでございます」

 しかし、と藍大将軍は続けた。


「こんな老いぼれにも、若い時があったのですぞ。それこそ、初恋などというのも」

「……へえ、奥様呼んで、聞かせようかしら?」

「やめてくだされ泣きますぞ」


 こころなしか、だんだん声も若返っている。

 そこには、老獪な為政者でなく、無鉄砲で向う見ずな若者の姿があるようだった。


「素晴らしい方でした。私より十ほど年上でしたので、彼女にとっては弟にしか思われてなかったでしょうが」

「年上好きだったの」

「しかもその後すぐに結婚したので、人妻属性もついておりました。正直多感なお年頃には、たまりませんでしたなあ」


 口が開けば開くほど威厳がなくなってくるな、このエロジジイ。だから今は口数が少ない人間を演じていたのね、と納得。


「ですが、さる貴い方のところに嫁ぎましたので、私には手の届かない存在となってしまいました。元より、遠い存在ではあったのですが。

 ……しかしその方は、子を産むことが出来ませんでしてな。貴い方は、母君の意向を受け、別の女人を受け入れました。その後、その方は、その女人を呪い殺したとして刑に処せられました」

「それホントに呪ってたの? うちの祖父さまみたいに、その貴い方に冤罪かけられてない?」


 私が聞くと、なぜか藍大将軍は沈黙した。え、何その無言。


「……まあ、呪った証拠はありましたので、彼女が呪ったことは間違いでしょう。

 ですが、この間、とある人に言われました。『愛は本能ではなく機能システムだから、その人には別の愛が必要だった』と」


 その言葉に、私は驚く。

『愛は本能ではなく機能システム』。その言葉は、ハオのお養母かあさま――おば様の口癖だったから。


「今更ながら思うのです。あの方の手をとっていれば、何かが少しでも変わったのではないかと。

 ですが私は、母の言う通りに、最初の妻を娶っておりました。高貴な身分である彼女を、妾として迎えいることはできなかった」

「ふぅん。天下無敵の藍大将軍も、母親には逆らえなかったのね」

「男というのは、得てして母親に逆らえないものですよ。……支配されている、とも言います」

 藍大将軍は、まぶたを閉じた。

「あなた様は、男が女を支配しているとお考えでしょう。ですが違う。男は子を産めません。天子である男帝でさえ、その力には抗えない」

「だから、政治の世界から排除した?」


 私の言葉に、藍大将軍は黙る。

「女しか子が産めないなら、管理すればいい。言う通り、より多く産ませるために、なんの疑問も持たせないように、文字も読ませないようにして、外を出歩かないよう囲って。――そんな非合理的なことをするから、王朝が滅亡するってなぜわからないの? 文字が読めないことが、この国にとってどれだけ損をしているか、わからない? 体力のない女に子を産ませるのが、どんなに危険かわからない?」

「あなたの考えでは、国は纏まりませぬぞ。余計な反乱を呼び、血が流れます」

「そうよ。そうやってあなたたちは、国を纏めるという大義名分のもと、異なる者を社会の枠の外に放り出して管理してきた。あなたたちはいつかは、その負債を払わなければならないの」


 それがあなたが死んでから、あなたの一族が滅ぶことになったとしても。

 私は踵を返す。その前に、お待ちください、と藍大将軍は言った。


「どうか、次の山河侯は、私の孫に……董卿ドンジンに引き継がせることをお許しください」


 ――それでもまだ、一族の繁栄を願うというのか。

 もう己のゆく道はないというのに。まだ一族の奴隷であり続けるのか。

 せめて、死ぬ間際ぐらい、個人になったらいいのに。


「……考えておくわ」



 ■


 藍大将軍はきっと、夫の言葉を伝えた。

 あの言葉の意味は、「憎しみという本能に勝つには、愛という理性が必要」だという意味。

 ずっと、おば様が説いていた言葉だ。


 だけど。

 別の愛なんて、もういらないの。

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