88話 一日だけの大冒険
「人多すぎ……」
密会の翌日。
僕とメイ、月詩さん、辰馬さんの四人で、早朝に長野を出発した。
新幹線は乗り換えなしで東京駅に到着する。
メイはキャップとマスクで顔を隠していた。念のためだ。
駅のホームに出ると、そこからはメイと辰馬さん、僕と月詩さんの二組に分かれて外へ出る。
東京駅は複雑だったけど、月詩さんがすいすい歩いていくので僕はそれについていった。
「月詩さん、すごいね。僕は構内図見ても迷いそうだったのに」
「まあ、これでも空間の把握は得意なので」
今日の月詩さんは白いブラウスの上に黒いカーディガン、下は黒いロングスカートという格好だった。
「あ、スタッフさんの車ってあれじゃないかな」
「ええ、そのようです」
やや後方からメイと辰馬さんがやってきて、僕たちの横を通り過ぎていく。誰の目があるかわからない。屋外での接触は最小限に。それが今日の約束だった。
メイはパーカーにジーパンというラフな組み合わせで、辰馬さんはジャケットにスラックスときっちりした服装だ。
二人がスタッフさんの白いボックスワゴンに乗り込む。僕たちは数分おいて、その車に乗った。
「おはようございます」
男女一人ずつのスタッフさんが乗っていた。
僕と月詩さんが二列目、メイと辰馬さんは後列だ。
「えーと、結城翔太郎さんと立花月詩さんでよろしいですか?」
「はい」
「そうです」
「今日はお疲れ様です。では、スタジオへ向かいます」
車が動き出した。
東京の複雑な街路を眺めていると、うしろからメイが近づいてきた。
「やばいね、死ぬほどドキドキしてる」
「大丈夫」
僕も顔を寄せる。
「僕がついてるよ」
小さい声で言うと、メイは「うん」とだけ返事をした。嬉しそうに聞こえたのは、気のせいじゃないと思いたい。
「街も人も、密度が長野とは桁違いだな」
辰馬さんがつぶやいている。
僕も過ぎ去っていく街中を眺める。
受験に合格できたら、僕は四年間をこういう場所で過ごす。
……想像もつかないな。
まあ、今日考えることじゃない。
とにかく収録を成功させ、無事に帰る。
それだけを考えていよう。
☆
スタジオに到着すると、スタッフさんに案内されて建物の中に入った。
「メイさんは衣装に着替えてくださいね」
「はいっ」
メイだけが別行動になり、僕たちは本番収録が行われるスタジオに入った。
室内は白いコンクリート調の壁が貼られている。少しくすんだような白で、それが室内にほどよい暗さをもたらしている。
奥にはステージがあり、一段高くなっていた。
すでにカメラが用意されていて、数人のスタッフさんが動き回っている。
カメラは三方向からステージに向けられていた。
「あらゆる角度から撮るんだと思ってたよ」
「IOLAさんのパートはすでに収録済みのようです。メイだけならこのくらいでしょう」
スタジオのドアが開いて、茶髪パーマの男性が入ってきた。三十歳前後か。
「初めまして、監督の
「こちらこそ娘をよろしくお願いいたします」
辰馬さんが対応した。桑野監督は僕たちを見る。
「お二人はメイさんの踊ってみたの裏方をやってるそうですね」
「は、はい」
「カメラを回しているだけですが」
僕は焦ったが、月詩さんは冷静に答える。
「そういう裏方さんのおかげで主役が輝くんですよ。誇ってください」
「……ありがとうございます」
桑野監督はステージの方へ歩いていった。
月詩さんを見ると、口元に笑みが浮かんでいるのがわかった。やっぱり、嬉しいよね。
「IOLAさん入りまーす」
スタッフさんの声。またドアが開いて、真っ白なワンピースに身を包んだ女性が入ってきた。
僕は息を呑む。
映像を通してしか見たことのなかったアーティストが、目の前に。
本物のIOLAさんは思ったより背が低かった。
ロングの黒髪で、前髪長め。ちょっと目元が隠れるくらいある。
無表情というか、あまり温度を感じない顔をしている。
年齢非公表で、前にテレビで見た時は二十代前半と感じた。その印象は変わらない。
IOLAさんが深々と頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします……」
これまた、思ったより小さい声だった。おどおどしているようにさえ見える。
「私も、リモートで話した時は意外に思いました」
「月詩さんも一緒だったんだ」
「ええ。この人があんなに力強く歌うんだ、と」
「それもギャップなのかな」
「ライブでもMCはかなりゆっくり話すそうですよ」
「じゃあ、あれが素なのか……」
一面だけで人を測るなんてとても無理な話だ。
「メイさん入りまーす」
スタッフさんがまたドアを開けた。
入ってきたメイは、空みたいな水色のワンピースを着ていた。スカートの丈は長め。長袖で、あちこちにフリルがついている。
「あの衣装で踊るの初めてだよね? 大丈夫?」
「ああ、結城さんは最近来ていませんでしたね。あれとほぼ同じ服を送ってもらったのでずっとそれで練習していたのですよ」
「そ、そうなんだ。よかった」
「よ、よろしくお願いしまーす」
メイはおっかなびっくりといった様子で頭を下げ、ステージへ向かっていく。途中でこちらを見たので、僕は拳を握って見せる。メイは笑ってうなずいてくれた。
……いよいよか。
メイはステージでIOLAさん、桑野監督と話し込んでいる。
「まず通しでやってみましょうか」
桑野監督がスタッフさんに簡単な挨拶をしてメイを紹介する。
それぞれが配置についた。
監督はカメラの後方へ。IOLAさんもその横で見守っている。
スタジオ内は薄暗くなり、照明がステージに当てられる。
スピーカーからIOLAさんの新曲「Maze」が流れ始めた。
メイは最初の構えからゆっくり腕を回し、ギターが強く入ったところで顔を上げる。
そこからはフレーズに合わせて、持ち味であるキレッキレのダンスを展開する。
おお、すごい、とスタッフさんたちが感心している。
回転するとワンピースの裾がふわりと浮かび、金髪は鮮やかに跳ねる。
そのまま最後まで一気に駆け抜け、ステージから右足だけを下の段につける。
右手を差し出し――握る動作。
曲が終わる。
スタッフさんたちが一斉に拍手した。もちろん僕たちも、IOLAさんも。
「いいですね! これが本番でも通用したな……よし、一気に決めちゃいましょう」
桑野監督も満足げだ。
数分の休憩を挟んで、本番が始まる。
まずは通しで踊る。
メイがIOLAさんの手を握りしめるシーンはそのあと別撮りになるようだ。
すべてのカメラに人が配置され、本番が始まる。
メイはかつてなく真剣な表情だ。
隣の月詩さん、辰馬さんも緊張しているのがわかる。
曲が流れ始めた。
メイはさっきと同じように動き始める。
振り付けは完璧だ。ミスもしない。
ただ――僕は不安を覚えていた。
さっきの練習で見せたキレが、明らかに弱くなっているのだ。
動きそのものはしっかり曲に合わせている。でも、この場の誰もが同じことを思っているはず。さっきの方がすごかった、と。
メイはミスなく踊り切った。
が、終わった瞬間に暗い表情になった。
桑野監督も「うーん……」と困った反応。
「よく、なかった、ですよね……」
メイが呼吸を乱しながら訊く。
「そうですね。キレが落ちたかな」
監督もストレートに返した。
「ごめんなさい、ちょっと緊張しちゃって。もう一回やらせてください」
「わかりました。少し休憩して、二回目いきましょう」
メイのところにIOLAさんと桑野監督が近づき、三人で話し始める。
僕はそれを見ていることしかできない。
「初めての経験ですからね……」
月詩さんもつらそうだ。
「僕たちは何もできないよね……」
「ええ、ここは監督さんにお任せするしか……」
「あの子がこんなに緊張するとはな」
辰馬さんも落ち着かない様子だ。
打ち合わせと休憩が終わると、二回目の収録が開始された。
しかし――また同じだった。
どうしても、いつものキレが出てこない。メイもそのことで焦っているのか、一回目よりさらに精彩を欠いてしまった。
振り付けでミスしていない分、かなり厄介な問題だ。
「すみません……」
「うーん、ちょっとリラックスできる方法を考えましょうか」
桑野監督が言う。
そうだ。僕も考えよう。
メイのダンスを何度も見てきたからこそ、助けになれるんじゃないのか。
うまくいかなかったら力になる。
僕は昨日、メイにそう約束したのだ。考えろ。
メイの強みは抜群の身体能力によるキレのあるダンスだ。
歌の世界を表現する演技力。それを生み出しているのは、音楽に没入する自己投影の力。
リラックスより、曲に入り込めていないのが問題だとしたら――。
「ゆ、結城さん?」
「ごめん、ちょっと行ってくる」
月詩さんに止められかかったが、僕はまっすぐ歩いていった。心配そうに見守る、IOLAさんのところへ。
「あの、すみません」
「は、はい」
IOLAさんがびっくりしたようにこちらを見る。
「メイの撮影に協力している者です。メイのために、力を貸してもらえないでしょうか」
「え、ええ……私は何をすれば?」
僕は自分の意見をIOLAさんに伝える。彼女はこくこくとうなずいた。
「すみません、少し外します」
IOLAさんは小走りでスタジオを出ていった。僕は月詩さんの横に戻る。
「……どういうことです?」
「メイのパフォーマンスを引き出すにはこれしかないと思って」
数分して、IOLAさんが戻ってきた。
アコースティックギターを抱えて。
「メイさんがもっと曲に入り込めるように、音源に合わせて歌わせてください。こういう場所では、その方が没入度が上がるかもしれません」
誰もがハッとした。
「なるほど。それでやってみましょう」
「よ、よろしくお願いします……!」
浮き足立った雰囲気のスタジオだったが、再び空気が引き締まった。
メイは深呼吸をして、ステージの上で構える。
「IOLAさん、いきなりで大丈夫ですか?」
「監督、わかっていて言ってますね?」
「いや、失礼。慣れていても心配でして」
IOLAさんはアコギを鳴らして、その音にメイを慣れさせる。
「さあ、いきましょう皆さん」
桑野監督がうなずき、カウントダウンを始めた。
曲が流れると同時に、IOLAさんがギターをかき鳴らす。
メイが動き出し――IOLAさんが歌い始める。
それは、とても一発目に出す声とは思えなかった。
さっきまでのか細い声はなんだったのかと思うほどに力強い声がスタジオに響く。
そして、明らかにメイの動きがよくなった。
始まりこそ、まだ少し硬さが見えた。それも数秒で解除され、IOLAさんの生熱唱に重なるようにどんどん動きがキレを増していく。
明らかに一発目を超えている。
みんな確信したはずだ。
メイは曲の中に入り込み、その世界観を全身いっぱいに使って表現する。
IOLAさんの生歌を聴けた感動より、メイが輝きを取り戻したことに僕は感動していた。
最後のパートに入る。
ステージから右足を下ろし、右手を伸ばす。
IOLAさんが声を張り上げる。高音が長く伸びて――曲は終わった。
「これだ。これがほしかったんですよ」
終わるなり、桑野監督が言った。
メイも何か言おうとした。
「待って! 二人とも、そのままもう一回一番だけやってもらえますか? 序盤だけまだ硬さが残っていたので」
「やります!」
「いきましょう」
すぐにカメラがセットされ、またも曲が流れる。
IOLAさんが歌い出すと、今度は流れがわかっているからメイもスムーズに曲に入り込んでいった。
一番を最高のキレで踊り終えるが、監督は止めない。メイも、IOLAさんも止まらない。
そのまま四回目の収録は一気に最後までたどり着いた。
「いい! 一個前より絶対こっちですよ! 止めなくてよかったぁ!」
桑野監督は興奮している。
僕も同じだ。最高に心臓がバクバクしている。
断言できる。今まで見たメイのダンスの中で、これが一番。
メイがすべてを出し切ったのは間違いなかった。
「すごい……」
月詩さんも感嘆の声をこぼしていた。
「IOLAさん、ありがとうございましたー!」
「こちらこそ、最高でしたー!」
メイが手を振り、IOLAさんはアコギを掲げて言葉を交わした。
「では、最後のシーンを撮りますよ」
メイ、IOLAさん、桑野監督でまた打ち合わせをする。
それからカメラが移動された。
撮影が開始される。
IOLAさんはふらつくような足取りでメイのいるステージへ向かっていく。
それを見つめるメイ。
二人の距離は近づく。
メイが一歩動き、右足を一段下へ。
差し出された右手を、IOLAさんの右手が握りしめる。
メイの動きは滑らかで、IOLAさんの迷える人の演技も見事だった。
「はい、オッケーでーす!」
桑野監督は少し長めに感想を述べて、予定していたすべての撮影が終わったことを告げた。
みんなで挨拶をすると、メイが駆け寄ってきた。
「ユッキー、IOLAさんに歌ってほしいって言ったの?」
「うん。今日のメイに必要だったのはリラックスじゃなくて曲への没入じゃないかって思ったんだ」
「ありがとう~、おかげで決められたよぅ」
今にも泣き出しそうだった。
「そちらの協力者さんはなんというお名前なんですか?」
IOLAさんがやってきた。
「ゆ、結城翔太郎といいます」
「結城さん。どうすればメイさんがよくなるのか的確に見抜いたのは本当に素晴らしいです。臆せず私に頼んでくれたのも嬉しかった。おかげで最高のMVになりそうです」
「あ、ありがとうございます」
「影のヒーローはあなたですね」
IOLAさんが右手を出した。握手を求められているのだと気づくのに数秒かかってしまった。
僕はIOLAさんと握手した。メイに似た、熱を持った手だった。
憧れのアーティストが目の前にいて、自分を褒めてくれる。
メイも無事に成功した。
――僕にとっても最高の日になったな。
その思いが胸をいっぱいにした。
☆
帰りの新幹線に乗る頃にはもう暗くなっていた。
撮影自体は昼前に終わったのだが、撮影班に打ち上げに誘われたのだ。
スタジオ近くのバイキングのお店に連れていってもらい、僕たちは昼食をいただいた。
IOLAさんはスタジオを出たら途端に無口になってしまい、打ち上げでも主役とは思えない影の薄さですみっこにいた。
メイはいろんなスタッフさんに話しかけられ、愛されキャラをここでも発揮していた。
桑野監督たちはこれから作業があるということで打ち上げはほどほで終了。僕たちは東京駅周辺を散策してから新幹線に乗り込んだ。僕が月詩さんと二人で歩き回ったことにメイはちょっと不満そうだったけど。
「IOLAさん、帰りの挨拶も声小さかったね」
僕は隣の席のメイに話しかける。
「自分を変えるためにって歌い始めた人だから。まだ普段の性格は変えられないみたい」
「難しいね」
月詩さんと辰馬さんは空気を読んでくれたのか、席を向かい合わせにせず前列に座っている。
「ユッキー」
メイが体を傾け、寄り添ってきた。
「今日は本当に嬉しかった。何回ありがとうって言っても足りないくらい」
「……僕はIOLAさんにお願いしただけだよ」
「でも、それがなかったら撮影をダメにしちゃってたかもしれない。ユッキーは救世主だよ」
「大げさだな」
「打ち上げの時、IOLAさんと話したの。歌ったおかげで全部一緒に作れた気がしたって。すごく嬉しそうだった」
「……そっか。じゃあ、素直に喜んでおこうかな」
「その言い方、素直じゃないよ。ユッキーらしいけどさ」
僕たちはクスクス笑い合う。
「メイ」
「ん、なに?」
「おめでとう」
「……うん。ありがと。MVが完成したら一緒に見ようね」
「今度は平日でも駆けつけるよ」
「絶対だよ?」
「もちろん。指切りする?」
「する」
僕たちは小指を絡めて、指切りげんまんを交わした。
その後、話しているうちにメイは眠ってしまった。
僕の肩に体を寄せて。
寝顔は穏やかだった。
僕はそっと、その頭を撫でる。
……お疲れ様。メイの頑張り、ちゃんとこの目に焼きつけたよ。
彼女と過ごした、一日だけの大冒険。
今日の思い出は一生の宝物だ。
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