延元2年(1337年)

第52話 坂東侵攻

 さて長く感じた1336年も暮れて1337年になった。


 雪が溶け道のぬかるみも終わる春に向けて準備をする俺達の元へ吉報が入った。


 まずは、奥羽鎮守府の義良親王のりよししんのう北畠顕家きたばたけあきいえの帰順だ。


 彼らは正式な手順を踏んで今上帝となった大塔宮を支持しこれに帰順するとの文が届いたのだ。


 北畠具行きたばたけともゆきの説得も功を奏したのだろう。


 奥州は奥州藤原氏が居た平安時代から、金や馬の産地として知られ、更に蝦夷との貿易により多大な富を生む地域と認識されていた。


 蝦夷大乱で乱れていた奥州は建武政権にとって、真っ先に抑えるところと考えたわけだ。


 実際には御家人の影響力が大きい九州を抑えたほうが良かったと想うが、どっちにしろあの失政ではどうにもならなかったかもしれないが。


 義良親王を奉じて陸奥将軍府の鎮守府将軍となった顕家は出発に先立ち、奥州の豪族伊達氏にあてて所領安堵の文書を予め発給し、現地の安定を策した。


 陸奥に入った顕家らは、鎌倉幕府に似た政治機構の整備に入り、意志決定機関として奥羽式評定衆を設立、三番編成の引付を置き、政所執事、評定奉行、寺社奉行、安堵奉行、侍所も設置した。


 その構成員もおもに旧幕府実務官僚や現地豪族から採用されていた。


 このあたり貴族第一主義な父親と違うといえるんじゃないかな。


 この頃津軽周辺では北条残党が名越時如を擁立して反乱を起こしており、多田貞綱・南部師行・伊賀盛光らの働きにより翌年秋に至ってようやく鎮圧できた。


 その後の中先代の乱と足利の乱がおこり、足利尊氏は、足利直義救援のため関東に出陣し、反乱を鎮圧した後、鎌倉に居座って独自の論功行賞を行なったが、この時奥州に対しても、斯波家長を奥羽管領に任じて陸奥に送り込んでいる。


 そして、朝廷は足利氏を反乱軍とみなし、新田義貞に討伐を命じ、顕家には奥州軍を率いて南下し、東海道から攻めのぼる新田軍と共同で関東の足利軍を挟撃する事を期待した。


 しかしこの時の奥州にも足利方につくものが少なからずおり、軍勢を集めるのに時間を要した。


 新田軍が箱根・竹ノ下で敗北し京都へ撤退すると、足利軍はこれを追って京へ攻め入った。


 顕家はようやく集まった兵を足利軍のあとを追う形で、出陣し、義良親王を名目上の総大将として擁し、伴う顔ぶれは伊達行朝・南部信政・結城宗広・結城親朝を率い、敵の拠点たる相馬重胤、佐竹貞義、斯波家長らを蹴散らして恐るべき早さで西上した。


 奥羽から京までを抵抗勢力を撃ち破りながら20日余りの日数で駆けつけたのはマジにチートとしか言いようがない。


 さて、北畠顕家が京についた後、足利尊氏は京から追い落とされ九州へ逃げ、顕家は京都奪還右衛門督・検非違使別当、権中納言、鎮守府大将軍となった。


 そして、顕家は再び義良親王を擁してふたたび奥州に赴く事が定められた。


 関東には未だ尊氏の子・義詮や斯波家長が健在で、彼らによる奥州の制圧を阻むためだった。


 義良親王は急遽元服を済ませ、三品の位と陸奥守の地位を与えられ、顕家は、義良を補佐する存在として陸奥大介に任じられ、陸奥・出羽に加え新たに常陸・下野も統括するように命ぜられた。


 常陸は佐竹、下野は足利の主な領土だったからな。


「これで若くて有能で大軍を率いることのできるやつと戦わなくて済むってわけだ」


 新田義貞も同じ思いのようだ。


「ああ、京では共にに戦った仲間だ。

 これ以上争わなくて済むのは僥倖というものだろう」


 さらに伊豆から北条時行が京に上洛、朝廷への帰属を容認された上、父の北条高時に対する朝敵恩赦の綸旨を受けた。


「亡き父・北条高時が滅びたのは臣下の道をわきまえなかったためで、このことについて先帝をお恨みすることはありません。

 そもそも足利氏が現在あるのは北条氏がこれを優遇したためであるのに、高氏らはこの恩を忘れておりました。

 我が養父諏訪頼重の仇をおうち頂きました以上、我ら北条一族は、帝の徳治による政治を不肖ながらお助けする所存です」


 とのことだったが万里小路宣房は


「不義の父を罰し、忠孝の子を召抱えることは、保元の乱において父・為義と戦った源義朝の先例があります」


 と今上に助言し今上もその意見を容れ、赦免の綸旨を下したそうだ。


 こうすることで先帝の親王と鎌倉幕府の最高権力者であった北条氏ですら現在では朝廷の下と言う立場を知らしめたわけだな。


 こうして奥羽が帰順した事により、鎮圧すべき地域は北陸・甲信・東海・関東のみとなった。


 そして新田義貞を大将、菊池武敏を副将にした軍が15000の兵を率いて東海道を下り鎌倉を、脇屋義助が10000の兵を率いて北陸を、俺は5000の兵を率いて信濃と甲斐を攻めることになった。


 新田の軍が一番多いのは、遠国、駿河の今川範国、相模鎌倉の足利義詮と斯波家長、上野の上杉憲房、常陸の佐竹義敦など足利方の有力な人物が残っているからだ。


 一方北陸にも若狭には斯波家兼、越前には斯波高経、加賀には富樫高家、能登には源範頼を祖とする吉見頼為、越中には井上俊清などが居たが、東海道方面に比べれば個々の力は弱い。


 さて信濃は俺の担当だが俺の兵力が少ないのは補給に難があるからだ、東山道は山の中故に船が使えない、船が使えないとなると兵糧の輸送は馬を使うしか無いが船に比べれば輸送効率は格段に落ちる。


 さらに信濃は木曽義仲に従った村上氏、海野氏などの滋野一族、諏訪氏と武田出身の小笠原氏や金刺氏が対立している。


「小笠原と敵対している面々に協力を求めるとするか」


 俺は村上氏、滋野一族、諏訪氏などに、小笠原討伐に従うように書面を送り、彼らは俺のもとに馳せ参じた。


 こうして俺は8000ほどに増えた兵を持って小笠原貞宗おがさわらさだむねを撃ち破り降伏させ、この戦いで功績の有った村上信貞を信濃守に推薦した。


 続いて甲斐の武田政義たけだまさよしが和睦を提言してきたので俺は其れを受け入れた。


 このころの甲斐は非常に貧しい土地で俺たちに対抗できるような兵は居なかったのだ。


 国司て俺が信濃を平定して甲斐を組み入れた時、新田義貞は遠国にて今川範国を破ったものの、退却した今川軍に箱根にて足止めを受けていた。


「しゃあない、新田を助けに行くとしようか」


 俺達は甲斐から東に向かい秩父の山を超えて武蔵の府中に入りそこで上杉憲顕の軍を破り、鎌倉街道を南下して鎌倉に立てこもる足利義詮と斯波家長の兵と戦ってこれを撃ち破り足利義詮と斯波家長を共に自刃へと追い込んだ。


 これを聞いた今川範国は新田に降伏し鎌倉は俺達の勢力下に入った。


 房総は千葉貞胤が支配下においており、これにより関東の足利勢力が残るは下野、常陸のみとなった。


 一方の北陸も若狭の斯波家兼、越前の斯波高経を討ち取り無事に平定したようだ。


「もう少しで平和が訪れるな」


 俺は北の山々を見ながらつぶやいた。


 そう、もう少しで戦乱は終わるはずなのだ。

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