第47話 建武政権軍の逆襲・山陽からの足利残党の駆逐

 さて俺達、太宰府政権軍が順調に四国と中国の西端を落としていた頃、建武新政軍も俺たちを討伐すべく九州への進撃を開始した。


 開始できた理由はいくつかあるが、一つは京の戦いで敗北した足利尊氏が九州に船で逃げていく際に取り残されて降伏した東国の武士たちの建武政権軍への再編成が終わったこと。


 足利尊氏が討ち取られて新田義貞が武家の棟梁として、鎌倉陥落や京都の攻防戦での戦績が認められ、ついでに新田義貞の腰痛がとりあえず治癒して陣頭へ出れるようになったことなどが大きい。


 後醍醐天皇は謀反人護良親王及び楠木正成追討の綸旨を新田義貞に与え、新田義貞大将とする軍を編成した。


 赤松円心は一度足利尊氏側についたが、もともとは建武新政側で名和や千草とともに六波羅と戦った経歴も有って、新田義貞は京から使者を送り、赤松円心の説得工作をおこない、官軍に帰属するよう促した。


 裏で俺たちとつながっていた赤松円心は義貞に「正式に播磨守護職をくれたら降伏しよう」と申し出て、義貞がその手続きのために使者を往復させているうちに赤松円心は防備を調え、義貞が播磨守護職の綸旨を届けさせると「播磨守護職はすでに親王から頂戴している」とつき返し、新田義貞の説得工作を拒否し時間を浪費させると共に隙をついて白旗城内に兵糧などを送り込むことに成功した。


 そもそも、赤松が建武政権から離脱したのは新田が播磨介になって事実上、新田に播磨を奪われたからだしな。


 そしてその頃はまだ腰痛のために満足に動けない義貞に変わり、先発した新田義貞の一族の江田行義と大舘氏明は、城から出て迎え撃った赤松軍を播磨書写山で撃ち破り、その後、後詰めの部隊の到着を待った。


 そして、千早城攻略軍に加わっていた宇都宮公綱、城井冬綱などが合流し、軍勢が数万に膨れ上がると、一気呵成に赤松軍に攻撃を仕掛けた。


 この時までに赤松円心は、則祐を配した城山城などの城郭を播磨各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦を行ったが、数でまさる新田軍が優勢のうちに赤松軍を次々に撃ち破り、新田軍は防衛戦上に築城された山城をひとつづつ、つぶしながら赤松円心を白旗城に追い込んだ。


 ようやく出陣した義貞は、自身が国司を務める播磨に入り、円心のこもる白旗城の攻略に取り掛かったが、東国武士は山城攻めは相変わらず苦手でなかなか落ちなかった。


 しかし、一方で赤松軍は善戦しつつも義貞の大軍の攻勢の前に落城の危機に陥っていて、円心の子・則祐が護良親王のもとへ赴いて早急に東上をするようにうながしてきた。


 義貞が最初白旗城に固執したのは、自身が播磨守であったため、自分の領国の叛乱を放置出来なかったからとも言われている。


しかし、白旗城を攻めあぐねている中、弟の脇屋義助が、かつて鎌倉幕府が、俺、楠木正成の篭る金剛山攻めに手こずって、六波羅を落とされたことが幕府の滅亡の遠因となった事例を引き合いに出し、白旗城は千草や名和などに囲ませて赤松円心が動けなくなるにとどめ、西進することを提案した。


 そしてそれを実行すると、備前と播磨の国境にある船坂峠へ進軍した新田軍は、児島高徳と連携して、斯波氏頼の軍勢を破って船坂峠の突破に成功、さらに、大井田氏経の軍勢がその勢いで備中まで進撃して福山城を制圧、江田行義の部隊も奈義城、能仙城、菩提寺城の三城を陥落させて、美作にまでなだれ込み、その後、脇屋義助は斯波氏頼が篭城する三石城を攻略して斯波氏頼を討ち滅ぼすと、備前の石橋和義、備中の今川俊氏と政氏も続けて撃破するに至った。


 赤松円心の方も囲んでる相手が悪党が相手で、食料がつきかけておりかなり旗色が悪い状態だ。


「こいつは予想以上に新田の勢いがつよいな」


 菊池武時が俺に答えた。


「まあ、足利方には尊氏が自刃してもはや援軍の望みがありませんからな」


 俺は正季に赤松円心を囲んでいる、千草や名和の軍を攻撃させて、赤松の白旗城の包囲を突き崩させ、食料を運び込ませた。


 これで赤松の軍はなんとか一息つけ、播磨を一時的にこちらが占拠すると慌てて新田軍は播磨に引き返すことになった。


 とは言えまともに大軍と戦っても損害が増すだけなので正季はすぐに河内に戻った。


 俺はその間に安芸の甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主であり安芸守護の武田信武を攻撃してなんとか打ち取ることに成功した。


 結果としてこれで中国の足利派の武士はほとんど駆逐された。


 そしてこの土地で俺は懐かしい顔に出会った。


 俺の兵法の師匠である大江時親、改め毛利時親だ。


「師匠、お久しぶりです。

 そして師匠もだいぶお年を召されましたな」


「はは、すべての人間は寄る年波には勝てんものだ」


「できれば私とともに戦ってほしいとおもったのですが……」


「うむ……残念ながらそれは無理だ。

 だが息子の貞親はお前さんとともに戦っておるようだな」


「まあ、正確には弟の正季とですがね」


「うむ、この国の未来を任せたぞ」


「はい、師匠もごゆっくりなさってください」


 この頃新田軍は山城まで兵を引き山崎の天王山に布陣して兵を再編成し、俺達の攻撃に備えていた。


 その数は40000。


 俺達は安芸を落とした後、石見を除く足利方武将が送り込まれなかった山陰はとりあえず放置して山陽道を東に向かった。


 こちらは陸路・海路合わせて25000。


 正季の紀伊半島の軍10000を合わせて35000だな。


 足利尊氏の時と違って、尊氏の弔い合戦と新田義貞の元から武士達が離反せずにそのままとどまっているのが辛い所だ。


 この時点での勢力範囲は俺達太宰府政権軍が九州・四国・中国の山陽方面・播磨・河内・摂津・和泉・紀伊・大和・伊勢・伊賀・志摩・尾張といったところ。


 一方の建武政権の勢力範囲は山城・近江・美濃・丹波・若狭・越前・越中・加賀といったところだ。


 米どころの北陸を抑えられているのはまだ痛いな。


 美濃の土岐氏や近江の佐々木氏(京極氏)は建武政権側についている。


 文字どおりこの次の戦が天下分け目の天王山の戦いとなりそうだ。


 幸いなのは北畠顕家の軍はまだ奥州から動いていないことだ。

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