正中2年(1325年)

第25話 護良親王の梶井門跡三千院門跡継承と正中の変の後始末

 さて、時は流れて正中2年(1325年)になった。


 俺はその間も農地の開拓を進め、街道を整備し街路樹として桃や栗、柿などを植樹し飢饉の際の助けとするように推し進め、伐採により禿山となった山には杉、柳、楠木などを植樹して環境の保全に努め、大陸との交易で財貨を稼ぎ、椎茸などの茸の人工栽培や真珠の養殖をすすめ、銃や大砲の改良にも時間をさいた。


 その結果として、弩の機構とタッチホールの銃を組み合わせて火縄を用いて着火することで照準のつけやすい火縄銃の開発に成功していた。


 また、大きな筒の中に小さな大砲を装填して使う子母砲も一応開発できた。


 しかし、子母法はガス漏れがひどく射程や威力に問題があるものだった


「このままじゃ、あんまり使い物になりそうにないな……」


 装填時間が短縮できるのは良いのだが、其れを打ち消してしまうほど実用性が低くては意味がない。


 そんなことをしているあいだに、大塔宮は梶井門跡三千院門跡継承し門主となった。


 そして正中の変が起こった、これは妣子内親王の侍女を通して、俺に伝わっている。


 後宮に協力者がいると宮中の動きもわかるのはありがたい。


 さて正中の変だが、これは後醍醐天皇とその側近による倒幕計画だ。


 後醍醐天皇は、六波羅探題南方の大仏維貞が鎌倉へ赴いている隙に六波羅攻撃を行うことを企て、これをうけて側近の日野資朝や日野俊基らは山伏の姿で諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけた。


 すでに畿内を中心に各地で悪党の動きが活発になっていたし、不満を持った御家人の反乱や、寺社の強訴も頻発していた。


 奥州では蝦夷代官職を安藤季長から安藤季久に替えたが戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がった。


 これに先立つ正中元年(1324年)の2月、鎌倉幕府は悪党鎮圧令を発布した。


 六波羅探題は、伊賀黒田荘の悪党を追捕し、世情がかなり不安定になっていた。


 ここ最近紀伊半島周辺の豪族の反乱は俺が鎮圧していたが、今年も紀伊国の保田が反乱の反乱を起こしたので俺が鎮圧にあたっている。


 しかし、北条に反感を持ちながらも承久の乱ですでに敗北し、自前の武力を持たない朝廷による討幕は実現不可能と見る武士のほうが多かったから反乱は統制の取れたものではなかった。


 で、まあ、こうした状況に乗じて正中元年(1324年)に後醍醐天皇は倒幕という承久の乱以来の行動を起こそうとした。


 そして、これに応じたのは延暦寺などの僧兵、そして北条の専制を好ましく思わなかった、摂津、河内、和泉、三河、尾張、美濃など畿内およびその周辺の源氏の直系たちで、謀議の主導者である日野資朝と俊基は無礼講と言う酒席をその密議の場としたんだな。


 無礼講というのはまあ大体わかると思うが殆ど裸の薄絹だけを身にまとった年若い美女に酌をさせ乾杯の際には上下関係の遠慮無く飲み明かすというものでまあそのまま乱交になったようだ、恐らくこういった形式の発案は真言密教立川流の文観によるものだろう。


 酒と女を用いると言うのは実にありそうなことだ。


 このときの無礼講の参加者は日野資朝、日野俊基、多治見国長、土岐頼兼、土岐頼員、源為守、伊達祐雅、智暁、四条隆資、洞院実世、花山院師賢、聖護院法眼、足助重成など結構な数の人間が参加している。


 そしてこの時の倒幕計画の内容というと言うと、実に粗末なものだ。


 具体的には9月19日の北野祭を行う時に六波羅探題から多くの兵が祭りの警護に出動するから、その隙に六波羅探題を武士が急襲し探題を討ち取り、比叡山延暦寺文や南都興福寺の衆徒が宇治の関と勢多の関を固め、その間に近国の武士に声をかけて鎌倉よりの討伐軍を迎え撃つ。


 そもそも、コレでは鎌倉の北条氏をどうにかできるようなものではなくどう考えても成功しそうな気はしないだろう。


 そして計画を実行する際に切り込むことになるであろう土岐頼員が夜の床で妻に不安を口走ってしまった事により、頼員の妻は父の六波羅探題の役人の斎藤利行に其れを告げたわけだ。


 その後の六波羅探題の動きは早く、翌日に多治見国長と土岐頼兼邸を急襲してその場に居たものを全員討ち取り、主謀者である日野資朝と俊基を捕らえた。


 六波羅の追及は朝廷にも及んだが、資朝・俊基らは自ら罪をかぶって鎌倉へ連行された。


 資朝は佐渡島へ流刑となり、俊基は赦免されて帰京したが以後は蟄居謹慎の日々を送った。


 一方、後醍醐天皇は側近の万里小路宣房に釈明書を持たせて鎌倉へ下向させ、その甲斐あってか今次の変とは無関係ということで咎めはなかった。


 この時鎌倉幕府は直属の武力もなく、いつでも退位させられる天皇の謀議を軽く見た。


 あくまで不満分子である源氏をうつにとどめたわけだ。


 これが後醍醐天皇に天運だとか天命を感じさせることになっただろうな。


 因みに俺や大塔宮はこの件に対しては全く関与していない。


 関与することがあったらむしろ文観を討つ機会として利用しただろうがな。

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